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 それはとても弱い力で、振りほどこうとすればすぐに振り解けるくらいに簡単な拘束だったけど、夏は照子の手を振りほどくことができなかった。とても冷たい手。夏は動くことができない次に照子の顔が動いた。照子は青色の目を夏に向けた。青色の目が夏を見ている。夏を認識している。照子の青色の目の中に夏の顔がはっきりと写り込んでいる。

 口元がゆっくりと歪んで笑顔の表情を作る。その顔を夏は見た。夏は思わず悲鳴をあげそうになる。夏は自由になる右手で必死に口元を抑えた。全身に鳥肌が立ち、足が震える。……夏は一度、ゆっくりとその場で深呼吸をする。

 ……落ち着いて。大丈夫。大したことじゃない。

 震える右手を照子の左手の上に乗せて、自分の手を重ねる。その場にしゃがみこんで、照子の顔を見つめる。そのまましばらくの間、じっとしている。その間、夏と照子はずっとお互いの顔を見つめ合っている。照子は優しい顔をしている。懐かしい子供のころの遥の顔で笑っている。そんな顔を見ていると、夏の気持ちはだんだん落ち着いてくる。照子の手はとても冷たい。雪を触っているような感覚になる。それはあまりにも儚くて、ずっと手を重ねていると、夏の熱で溶けてしまうのではないかと心配になる。

 ……大丈夫。照子は溶けたりしない。しないよね? 照子。


 少しして、照子の口がかすかに動いた。声は聞こえない。でも、確かに照子はなにかを夏に伝えようとしていた。なんだろう? 夏は読唇術のようなスキルを持たない。だから照子の口の動きだけでは、夏は照子の言葉を読み取ることができなかった。

「夏、なにしているの?」遥の声が聞こえる。その声ではっと夏の意識が覚醒した。

 遥は開いた白いドアの前にたったまま夏のことを見つめていた。

 照子を見ると、照子は夏の手を握ってなんていなかった。顔も動かしていない。笑ってもいないし、口を動かしてもいなかった。いつも通りの椅子に座っているお人形さんの照子だった。

 夏は真っ白な部屋の中にぼんやりとして立っていた。状況はなにも変化していない。まるで時間が数分間の間、巻き戻ってしまったかのような不思議な錯覚に夏はおちいった。夏は息を吐き出し、それから自由になった左手で額の汗をゆっくりとぬぐった。汗をぬぐってから、自分が熱い汗をかいていることに夏は気がついた。

(難しい数学の問題を解いたときのように、夏の頭の中には熱がこもっていた)

「ごめん。すぐ行く」遥のほうを振り向いて夏は笑った。それから夏は遥の後ろについて、二人で一緒に、まるで何事もなかったかのように、白いドアの中へと移動していった。

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