夏の終わりのバベルの図書館(9月の老人)

りょう(kagema)

9月の老人


夏の終わりとはいつからだろうか。八月が終わり九月が始まる時か。それとも、暑さが和らぎ秋を感じるようになった時か。


ただ、一つ言えるのは九月も末となり、十月も目前となったこの今でも私の夏はまだ終わらないということだ。


私だけには夏の終わりを告げるものなど何一つ訪れなかった。誰が金木犀の香りに気付き「もう秋だねえ」なんてしみじみと季節の移ろいを感じている時も、私は未だに自分が夏の中にいるのを感じていた。


私は世界に取り残されてしまったのだ。



私の夏が始まったのは、七月の下旬、夏休みに入ってからすぐの頃のことである。


その日私は高校の作文課題の資料を探すために市立の図書館に出向いていた。普段本を読むときは学校の図書室で借りるか、自分で買ってしまうので、図書館に行くことは少ない。それでも、この図書館に来たのは、最近建て直されて綺麗になった図書館を見ものしようという意図もあったのだ。


以前は旧村役場を改築しただけの古臭い建物だった図書館も、青々とした芝生の庭を入口に広げ、ガラス張りの現代的な建物にすっかり姿を変えていた。


中は天井が高く、開放感のある作りだ。二階には閲覧スペースもできていて、学生が宿題や勉強をするのにはちょうどいい。


私は、必要な本を数冊棚から取ると、その閲覧スペースのひと席に腰掛けた。二階の壁面は大きな窓になっていて、夏のジリジリとした日差しが眩しい。庭に植えられた木に止まってミンミンとうるさく鳴く蝉たちと目線が合う。夏の図書館は思ったよりも雑多である。


決してすいてはいない図書館の中で私の隣の席は一つポツンと空いていた。私は地面に置いていた鞄を少し迷ってから隣の座席に置こうとした。しかし、椅子を引いてみると、そこにはホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編集が一冊置かれている。誰かが席を確保するために置いているのだろうか。


ボルヘスのこの本は私も読んだことがあったので、どんな人がこの本を置いていったのか少しだけ気になったが、結局私は鞄を地面に置いて構わず本を読み続けた。


私がわざわざ調べ物に来た、宿題というのは実は大したものではない。普通ならばみな、適当に適当なことを書いて終わらしてしまうようなそんな程度のものだ。だけども、普段からよく文章を書く私にとっては何だか適当に済ませてしまうのも躊躇われて、図書館なんかに来てしまった。だが、私とてそれ程真剣に取り組むつもりもない。持って来た本も必要なところだけをかいつまんで読んだ。


いくつかの本に目を通して、原稿を書き始めようとした頃、階段を上がってこの観覧スペースにくる1人の男の子がいた。年の頃は私とそう変わらないだろう。彼の顔は目鼻立ちの整った中性的な顔立ちで、男性にしては長めの髪も綺麗に整えられていた。彼の片手はパソコンを入れているらしいケースの持ち手を握っている。


すると彼は、私の隣で立ち止まり、椅子に置いてあったボルヘスを手にとり、机に置き直して、その椅子に座った。


私の周りにはボルヘスのような小説を読む友達はいなかった。私の読む小説はいつもマイナーで、今まで好みが合う人などと出会ったことはない。彼がもし、ボルヘスを読むのだとしたら、どこか、私と気があうのではないか。そう思ってからは、私の作文は隣を気にしながらの作業となってしまった。


彼のことを逐一みていたというわけではないのだが、開いた彼のパソコンの画面にはWordが開かれていて、何やら小説を書いているらしいのだ。


「寒さすら感じる秋の涼しさは、柔らかでどこか寂しげな太陽の光を身にまとい、金木犀の甘い香りと共に私を包んだ」


なぜ彼はこんな真夏に秋の描写をまさに今体感しているかのようにかけるのか、私には不思議でならなかった。趣味も合いそうだし、話しかけてみようかとも思ったが、私にそんな勇気はない。


「見ちゃいました?」


私がその文章をぼっと見ている間に、どうやら彼は作業を一旦やめていたらしく、彼の視線は自分の書いた文章を横から覗き見する同年代の女に向けられていた。


「え、あ、ごめんなさい」


私は咄嗟に謝ったが、彼は別段気にしている様子はなかった。


「家じゃ、やかましくて書きにくかったので図書館に来てみたんです」


彼はファイルを保存しながら言った。


「そうなんですか」


気の利いた返しも思い浮かばず、私はとにかく相槌を打った。


「それ、バタイユですよね」


彼は私が本棚から取り出して積んでおいた本の中にあった一冊を指して言った。


「は、はい。作文の参考資料に」


「なんの作文なんですか? バタイユを参考資料にするなんて」


彼は心底面白そうに笑った。


「文芸評論」


彼がそんなに笑うから、私はなんだか恥ずかしくなって、小声でボソッと答えた。


「あなたこそ、なんの小説を書いてるんですか?」


彼の方から私が何を書いているのか聞いてきたのだから、私だってそれぐらい聞いったっていいだろう。そう思いながらも、この質問には少しだけ勇気が必要だった。本当に聞きたいことはいつだって、正直に尋ねられない。


「これは、そうですね。青春小説かな」


「へえ、読ませてもらってもいいですか?」


「人に見せられるようなものじゃないですから」


そう言うと、彼はファイルを閉じてしまった。


「まだ、十分ぐらいしか書いてないんじゃないですか?」


「いいんです、今日はなんだか調子が悪いみたいですから」


彼はパソコンをシャットダウンすると、伸びをして、体を私の方に向けた。少しだけ、猫のようにも見える。


「少し、暇つぶしに付き合って下さいよ。同じぐらいの歳で、バタイユ読んでる人なんて初めて見ました」


それから、彼とは何時間ほど喋っただろうか。私は話すのに夢中になってしまって、時間が経つのを忘れていた。どうでもいいことばかり話していたのだが、それでも彼とお喋りをする時間は楽しかったのだ。


「そろそろ、閉館時間ですね」


館内アナウンスが流れたのを聞いて彼は言った。


「そっか、もうそんな時間。帰らないと」


私たちは、荷物を片付けると図書館から出た。


「じゃあ、俺家こっちですから」


彼が指差したのは、私の家のある方向とは真逆だった。


「そうなんですか、私はあっちです」


「じゃあ、また」


「また」


 そういうと、私達はそれぞれの方向へと向かって歩き出した。



家に帰ると夕飯までにはまだ少し時間があったので、私は自分の部屋のベッドにもぐった。私にとってベッドは一番のお気に入りの場所だ。やわらかく包み込まれるようで、落ち着くのである。


 私は、暇つぶしがてらスマートフォンを取り出してアプリゲームを開いた。それはキャラクターを動かして敵と戦うRPGだった。ログインボーナスを貰うと、新しく始まっていたイベントのゲームを始めた。しかし、私の目に映っていたのは、ゲームの画面ではなく今日のあの少年であった。今日初めて会っただけの人に、こんな感情を抱くなんてなんだか間違えてる気がして恥ずかしかったが、別れてからずっと彼の顔が頭から離れなかったのだ。これ以上の表現はむやみに恥ずかしいだけで、なおかつ言葉にしにくいものだから、もはやこれ以上は言うまい。


「明日も、あそこにいるかな」


 私の動かしていたキャラクターは、気づいたときには敵に倒されてしまっていた。



翌日も、彼は私の期待通り同じ場所にいた。この日は、彼の方が先に席に座っていた。


「おはようございます」


 彼は、私を見るとにこりと笑ってそう挨拶した。


「おはようございます」


 あの日から私たちは、ほとんど毎日この図書館に集まり、そのたびにお喋りをしたり、それぞれ読書をしたり、学校の宿題を手伝いあいながら片づけたりした。


私達の夏休みは、そうやって過ぎていったのだった。


「明日から学校だね」


  私は、少し寂しさを込めて言った。その日は、空は透き通って青く、もくもくと背の高い入道雲が浮かぶ、そんな夏を絵に描いたような天気だった。


「九月一日って一年で一番学生の自殺率が高いらしいよ。俺もなんか気持ち分かるなあ。憂鬱だよ」


 彼とはほとんど一か月間を共にこの図書館で過ごした。それは、この図書館でしか時間を過ごさなかったという意味でもある。私は彼の住所はおろか、連絡先さえ知らない。ただ、彼に会うためにはここに来るしかなった。しかし、ここに来れば彼はいつもちゃんといてくれた。けれども、普段彼がどこにいるのか、何をしているのか、私は何も知らない。この図書館を出てしまえば、手を振って真逆の方向へと歩き出す。私達の関係はこの図書館の中だけの閉ざされたものだった。でも、明日学校が始まってしまってからは毎日ここに来ることはできない。せめて連絡先だけでも聞かないと、彼とは二度と会うことができなくなってしまう。だがもし、彼も私に気があるのだとしたら、彼の方からそれぐらいのことは聞いてくれるんじゃないだろうか。彼だって、明日からは簡単に会えないことぐらいわかっているはずなのだから。そう期待してしまうのは、私の悪い癖だ。


「君は、学校楽しみ?」


 私は、学校が楽しみかどうかなんて考えてもみなかった。ただ、この夏が終わってしまうことを嘆いていただけだったのだ。


「え? そうだね、あんまり楽しみじゃないかも」


「やっぱりみんなそうだよな」


 溜息交じりのそのつぶやきは、何か遠くのものをしみじみと眺めるような、そんな色を持っていた。


 彼は私のことをどう思っているのだろうか。急にそのことが気になりだした。彼は夏を眺めるその向こうに何を見ているのだろう。そこに私がいるならば。そう考えずにはいられない。でも、彼の目線の先にいるのが私だとしたら、なぜ彼は私に連絡先さえ教えないのだろう。そうでなければ、もう会えないかもしれないのに。


 私は、連絡先ごときでここまで悩んでいるのか。それくらい聞いたところでどうってことはないし、彼だって教えないはずはない。でも、この一か月間少しは距離が縮まったとはいえ、彼は私をこの図書館から連れ出そうとはしなかった。それは、彼が私を図書館でよく会う人、以上の人間として認識していないからではないか。それを私が勘違いして、この関係をこの図書館の外にも持ち出そうなんて考えていると思われれしまうのだとしたら、それは私にとっては耐えられないほど恥ずかしいことだった。


 それに、彼は隣に座っていただけの私に話しかけてくるほど、社交的な人だ。そんな彼が、もし図書館の外でも私と会いたいと思うならば、私のような羞恥心などなしに、連絡先など私に聞いてしまうだろう。こういうことは、男の子のほうが慣れているはずだ。


 それとも彼も、私と同じようにたったこれだけの、一歩を踏み出しあぐねているのだろうか。


 その日も、私たちはこの一か月間そうしていたように、それぞれ読書をしたりたまにお喋りをしたりしながら閉館時間までを過ごした。


「そろそろだね」


 館内放送が流れ出すと、彼はいつものようにそう言って、荷物を片づけ始めた。


 私は、この席が離れがたくて、彼の方を見たままぼおっととしていた。


「どうしたの? 早くしないと図書館閉まっちゃうよ」


「あ、うん、そうだね」


 私はなぜだか慌ててしまって急いで荷物をまとめると、私達は図書館から出てしまった。


「じゃあね、バイバイ」


彼はそう言うと、いつもの方向へと歩き出した。


私は結局何も言えなかった。



九月一日は始業式だった。通学の電車に飛び込んでやってもよかったのだが、私は学校が終わった午後にはもう一度あの図書館を訪れることを決めていた。始業式の日は午前中だけで学校から解放されるから、図書館に寄るだけの時間は十分にあったのだ。


一ヶ月間通いつめてもはや見慣れてしまったはずのガラス張りの現代建築は、その壁面に空いっぱいに広がる鱗雲を写し、私が知るそれとはすっかり姿を変えてしまっていた。つい昨日まで、そこにあったのは毅然として起立する巨大な入道雲だったのに。


中に入ると、夏休み中の混み具合からは考えられないほど空いていて、客層も老人がほとんどになっていた。


私は二階の閲覧スペースに向かった。


いつも彼が座っていた座席には、一人の男が座っていた。しかし、それは彼ではない。七十も半ばかと思われる品の良さそうな男性であった。


私は、いつも私が座っていた席、つまりその老人の隣に座ろうかと思ったが、この部屋がガラリと空いているのを見てやめた。この部屋の状況であの老人の隣に座るのはあまりにも不自然であったからだ。仕方なく、私は老人から二つ席を空けて座った。老人が私をジロリと見たように感じたが私は構わず本を取り出し読書をした。


その日も閉館時間まで、図書館に居座ったが彼が来ることはなかった。


その次の日、行ってきますと家を出たはいいが、そのまま学校に行く気にもならなかった。今日こそは電車に飛び込んでやろうか。私は駅のホームで何本も乗り過ごした電車や通過の電車が通るたびに、そこにふらりと立ち入った私の体がグチャグチャの肉塊となり飛び散るのを自然と想像していた。その想像が私の頭をよぎる時、全身が痺れたように動かなくなる。それでも、その痺れさえも心地よく感じた。


夏はもう終わったのだろうか。九月と言う世界はもうあの頃とは別の世界なのだろうか。昨日のホームルームで担任に言われた言葉を私は思い出した。


「夏休みは終わりだ。切り替えて勉強しろ」


聞き飽きた言葉だ。でも、今の私にはこれほど気の重い言葉は他になかった。


私は学校に行くのをやめて、図書館に向かった。


当然彼はいない。彼だって学校があるのだから。


でも、この閲覧スペースでまだ強さの残る日差しを浴びていると、なんだかあの夏に戻ったような気がして心地よかった。私は元々、日差しの強い夏に苦手だったはずなのだが。


「君、学校はどうしたんだい?」


その声は私のすぐ隣から聞こえた。


「もう、夏休みは終わっただろう」


昨日の老人だった。その口調はあくまでも優しい穏やかなものだった。


「今日は……」


私は答えに詰まった。咄嗟の嘘が思い浮かばなかった。


「私もよく、学生の頃は授業中に抜け出してあの丘の上で漫画を読んだり、煙草を吸ったりしてたよ。あの丘からはね、私の通ってた高校がちょうど見下ろせるんだ。今頃同級生達は、あのコンクリートの塊の中であくせく勉強してるんだろうなって考えると気味がよくてね」


「私は、そう言うのじゃないんです」


そんなつもりはなかったのだが、私は拒絶するかのような返事をしてしまった。


「そうか、そうか」


老人は楽しそうにそう笑うと、元読んでいた新聞に目を移した。


閉館時間を過ぎてから家に帰ると、母がものすごい剣幕で待っていた。無断欠席をしたせいで学校から電話があったのだ。


次の日から、私は放課後学校が終わると真っ先に図書館に向かうようになった。しかし、その日からは彼はもちろん、あの老人も姿を見せなくなってしまった。



そして、この習慣を私は今日、この九月の末になってもまだ続けているのだ。


もうそろそろで、九月も終わろうとしている。それなのに私はまだ夏のあの気持ちを引きずっていた。


この間まではたまに声を聞かせてくれた蝉たちもすでに息絶えてしまったのか、今ではすっかりその声を聞かなくなった。空を見上げても入道雲はいない。世界が生まれ変わったかのように、夏の面影は少しずつ消えていく。未だ夏に取り残されたのは私だけだった。


私は、図書館の二階の閲覧スペースに上がると、あの老人がいるのを見つけた。また、彼が座っていたあの席だった。


「君は、こないだも図書館で会ったね」


老人は私を見るなり、そう声をかけた。


「あ、お久しぶりです」


声をかけられてしまったのでは、この老人から離れて座るのも失礼だろう。私はいつも私が座っていた席、この老人の隣に座った。


「君はよくこの図書館に来ているのかい?」


「はい、毎日」


「毎日かい、それは熱心だなあ」


 老人は芝居がかった驚き方をして見せた。


「何か、ここに来ないといけない理由でもあるのかな」


 確かに、私はこの一カ月、いやこの二カ月間ほとんど義務感に駆られてこの図書館に足を運んでいたように思う。私は老人にその心を見透かされたような気がした。


「私と同い年ぐらいの男の子見た事ありませんか? 夏休みには毎日この図書館に来てたんです」


「ふむ、なるほどね。それはどんな子なんだい」


 私は、この老人に彼とのことを全て話すことにした。


「なるほどねえ」


 老人は深刻そうにそうつぶやいた。しかし、そのつぶやきにはどこか演技じみたところがあった。


「ところで、君。本棚がどこまでも続く無限の図書館というものを聞いたことがあるかい?」


「バベルの図書館ですか?」


 それはボルヘスの代表作の一つだった。


「まあ、そんなところかな。そこにはね、様々な文字を考えられうる限りの配列で並べた本が並んでいるのさ。ただ、バベルの図書館と少し違うのはね、この本には漢字も含まれているということさ、つまり組み合わせは限りなく無限に近い。漢字やひらがな、カタカナ、アルファベット、文字の種類だけでも何万種類とある。バベルの図書館の本は二十六種類の文字でできてるけどね、そんな生易しいもんじゃない。でもね、私はバベルの図書館で描かれているみたく、この本の中にこの世の全てが書かれた本があるなんて思ったことはない。この世界が、人間の言葉だけで表現できるとは思わないからね。言語というのはあまりに非力だよ。だけど、人間の思考が言語に規定されるのだとしたら、誰かが考えた全てのことが書かれた本は存在するかもしれない。もとっも、人の思考が本当に言語の中だけのものだとも言い切れないけどね」


 ようやく話が見えて来た。つまり、この老人はその図書館に行けば彼の気持ちや居場所が分かるかもしれないと言いたいのだ。


「でも、それはフィクションの話ですよね」


「いや、違うよ」


 老人はいたって真面目な顔で答えた。


「なら、その図書館はどこにあるんですか?」


 老人は少し困った顔をした。


「そうだね、私が教えてしまったんだものね。場所は教えないというのも酷な話かな。でも、誰にも言っちゃだめだよ。おじさん怒られちゃうから」


 そう言うと、老人は手でついてこいという風にジェスチャーをして一階へと階段を下り始めた。



老人が私を連れて来たのは、関係者以外立ち入り禁止と書かれた図書館の隅っこの扉の前だった。


「ちょっと待ってね、今鍵探してるから」


 老人は、あちらこちらのポケットをまさぐり、鍵を探しているらしい。


「ああ、あった。いい? 開けるよ」


 老人は冗談かと思うほど簡素な鍵を取り出して、頑丈そうな鉄の扉の鍵穴を回した。


 そこにあるのは、夏だった。


本棚はバベルの図書館の六角形の柱とは違い、扉の外の図書館と同じ鉄の棚である。内装も、外の図書館とそっくりで一見するとどっちがどっちだか見間違えてしまいそうだが、通路はずうっと先まで続いていて、端が見えない。そして、どこを見渡しても窓はないのだ。それなのに、この図書館を包む光や空気、どこからともなく聞こえてくる蝉の声は、まさに私が心に抱き続けていたあの夏そのものだった。


「ここは?」


「本物の図書館だよ。表のはね、ここにある本の中から、実際に出版されている物を並べているだけなのさ。皆が見ているのは、この図書館の一部なんだよ」


目の前に広がっている光景はにわかには信じにくいものであるが、実際にこの目で見えているのだから仕方ない。それとも、私の頭はついに発狂したのだろうか。


「さあ、早く中に入りなさい。あんまり長い間この扉を開けておくと誰かに見られかねないからね」


 私は、言われるままに中に入った。


「でも、こんなたくさん本がある中でどうやったら目的のものが見つかるんですか?」


「どうにかなるさ。じゃあ、私はこれで」


そう言うと老人はもといた図書館に戻ってしまった。老人の無責任さに私は腹が立った。仕方なしに私はこの図書館の中を歩き始めた。


すると、私はどこからか違和感のようなものを感じた。それが、彼の気配だと気づくまでには少しだけ時間がかかった。


「どこ?」


 私は駆け出した。夏の日差しは私の半袖から出た肌を焼く。でも、なんで彼がここにいるのだろう。まさか彼と私は、あの老人に幽閉されてしまったのだろうか。


 ふと、足元に目を移すと、そこに一冊の本が落ちていることに気が付いた。背表紙には「言あkカ青」という意味不明のタイトルがついている。しかし、本を開くとそこに書かれていたのは、全て彼の独白だった。けれども、ここに書かれている内容が正しいなんて誰が保証できるのだろうか。本当のことが書かれた本が存在するということは、嘘が書かれた本も存在するということではないだろうか。なにせ、考えられうる限りの文字の配列がここにある本の中で試されているのだから。


「ねえ、いるんでしょ」


 私はその本の中身を読む前に、彼を探すことにした。しかし、いくら探しても彼は見つからない。さっき彼の気配を感じたのは何だったのか。


 ふと、私は彼の気配を感じたのではなく、この本の気配を感じたのではないか。そう思った。そう考えれば、彼がいないのも、この本だけ一冊落ちていたのも納得がいく。私は恐る恐るもう一度この本を開いた。


 目の前には彼がいた。


「久しぶりだね」


「え、あ、久しぶり」


 驚いた私はそれだけしか言えなかった。


「謝りたいんだ、君に」


彼はいつも通りの声で言った.


「どうしたの?」


「えっと、勘違いさせてしまったなら、ごめんね。俺にはもう恋人がいるんだ。君と出会う前から」


 その言葉は、何度も何度も私の心の中で想像されていたものだった。だけども、本当に彼の口から聞いてしまうとこんなにつらい言葉だったとは。


「でもね、夏休み楽しかったよ。だからいつもの夏休みより、図書館に行く回数増えてたなあ。今思えば」


 私は思い出した。彼が書いていた小説の一説を。彼はあの時すでに秋を見ていたのだ。はなから、私と同じ夏の中になんていなかったのだ。


「そっか」


 でも、それが分かってしまうとなんだか胸がすっとして、重たかったものがどこかへ行ってしまうのを感じた。私は答えが知りたくて、彼とこうしてもう一度でも会いたくて、図書館に通っていたのだ。それは、私にとってほとんど義務だった。しかし、その義務ももう果たした。


「そっか、教えてくれてありがとう」


 私のその声には悲しみや落胆よりも、安堵の方が強く表れていたかもしれない。


 いつの間にか流れていたらしい涙をぬぐうとそこに彼はすでにいなかった。代わりに、私は開いた本の中から彼が今言ったのと一字一句違わない文章を見つけた。この本は本物だったのだ。もしかすると、あの彼もこの本の中から私にこれだけを伝えるために飛び出してきてくれたのかもしれない。



出口はすぐに見つかった。その出口はこの現代建築の外、つまり表の図書館の外に直接出ることができるようだ。自動ドアのガラスの向こうには図書館の入り口前の芝を植えられた庭が見えている。


 私はこの不思議な図書館をもう一度振り返り眺めると、思い切って外に飛び出した。


寒さすら感じる秋の涼しさは、柔らかでどこか寂しげな太陽の光を身にまとい、金木犀の甘い香りと共に私を包んだ。

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