其レハ幾度目カノ十六歳

文月 竜牙

其レハ幾度目カノ十六歳

 不老不死。

 現実においても創作の世界においても、ありとあらゆる人類が追い求めるもの。しかし、本当に死なない事が幸せなのだろうか。そもそも生物とは、「生まれ、成長し、子孫を残し、老い、死んでいく」のが当たり前のことなのだから、そこに真の幸せがあると考えるのは寧ろ自然であるはずである。あるいは感情を持たない原始生物ならば「不老不死」は至高かもしれないが、感情豊かな高等生物である人間が耐えられるとは到底思えない。


 東條(とうじょう)マリユスは生まれつきの不老不死だった。

 何故なら、彼の父親は吸血鬼なのである。母親は純粋な人間であったが、であることは、不老不死(成長はするが老化・寿命は無く、心臓に銀でできた杭か弾丸を撃ち込まれない限り死なないこと)の条件としては充分すぎた。

 彼が不幸なのは、不老不死以外は身心共にどこまでも人間であったことだ。


 突然こんな話をされて、ファンタジーの世界に放り込まれたような気分の方も多いと思うが、「火のない所に煙は立たぬ」という言葉があるように、妖魔や邪鬼の類は存在しているのである。

 絶対数が少ないため知られていないだけで――。



 桜のピークを少しだけ過ぎ、ピンクと緑のコントラストを描き出すころ、日本の高等学校は入学式を迎える。まだまだ制服に着られているような新入生たちは、不安とそれ以上の期待を顔に浮かべながら、各々が合格した学校へと足を延ばすのだ。


 東京都に在るとある中堅私立高校の入学式で、俺こと東條マリユスは校長の長い話を半ば聞き流しながら、スマートフォンを片手で操作していた。少しでも面白いことはないかと、ニュースサイトのトピックスを眺め、嘆息する。

 毎日毎日飽きもせず、似た内容の記事を同じような文面で提供する、ライターや編集者はもう少し仕事をするべきだと思う。


 これならば校長の話を聞く方が幾らかマシだと思い、渋々前を向く。これからPTA会長や生徒会長まで語りだすと思うと、軽く鬱になりそうだったが、大人しく聞くことにした。時間はいくらでもあるのだから。

 式は坦々と進み、新入生代表の言葉となった。


「新入生代表、歌姫(うたひめ)華蓮(かれん)さん」


「はい」


 凛とした声と共に一人の少女が立ち上がる。

 俺と同じA組の一番前に座っていたのだから、恐らく主席なのだろう。姿勢の良い、真面目そうな少女だった。腰近くまで伸びた黒髪のロングヘアーが清楚な印象を与える。比較的整った顔立ちは、すれ違えば十人中十人とまではいかなくとも、半数以上は振り向くのではないだろうか。容姿端麗とか、才色兼備といった言葉がよく似合った。


 壇上で淡々と言葉を述べる彼女は、客観的に見てもかなり可愛いと思う。

 しかし、万が一にも、血迷っても恋愛関係に発展させることは出来ない。高嶺の花だとか、そういった主観的な考えを押し付けようとは思っていない。

 実現不可能ではなく、実行禁止の意で『出来ない』のだ。父の二の舞になるつもりは毛頭ない。余計な感情を抱く前に、目線を前の人の背中まで落とした。



 次の日、L(ロング)H(ホーム)R(ルーム)でクラスメイト達と自己紹介をすることになった。既に昨日の段階で顔を合わせているのだから今更感はあるが、学校側が行う儀礼的なものであるともいえる。

 HR開始を告げるチャイムと共に教室に入ってきた、クラス担任の三十代程度の男が「静かに」と言い、騒がしい教室を黙らせる。全員が口を閉じ、前を向いたのを確認して、担任は二の句を紡ぐ。


「昨日のS(ショート)HRで連絡した通り、今日は自己紹介をしてもらおうと思う。……っと、その前に俺の自己紹介がまだだったな。このクラスの担任になった高橋(たかはし)浩太郎(こうたろう)だ」


 黒板に『高橋浩太郎』と達筆な文字で刻まれる。


「担当教科は日本史だ。質問があれば休み時間にでもしてくれ。じゃあ、出席番号順に会田(あいだ)さんから自己紹介をお願いします」


 黒板に書いた自分の名前を消しながら、担任改め高橋がそう言うと、クラスメイト達が順々に自己紹介していく。申し訳ないが俺は正直半分も聞いていなかったけれど。

 何故なら、関わるつもりのない人間の情報など仕入れないに限るから、知ると余計な情が湧いてしまうから。華蓮のことは多少気になりはしたけれど、自制心を持ってして聞き流した。


 暫く耳を閉ざしていると、どうやら俺の番がきたようなので、致し方なく立ち上がる。何を言おうか一瞬考えた末、最も単純な結論が出た。


「東條マリユスです」


 名前だけならば誰も興味を持たないだろう。ドン引きされるレベルで語るという案もあったが、面倒くさいのでやめた。そもそも、真実は信じてもらえないし、妄想癖の皆様よろしく戯言(ざれごと)を大量生産出来る程、俺の想像力はたくましくない。ついでに心もたくましくない。

 一人には慣れたものだが、「なんだコイツ」みたいな視線を正面から受けるのは多分耐えられないと思う。


 閑話休題。

 この名前だけ作戦は、結論からいうと失敗だった。逆に興味を引いてしまったようで、教室内が軽くざわついているし、高橋も苦笑いを浮かべている。悪目立ちだった。今更言葉を付け足す訳にもいかず、どうしようもなく、ひたすらに平静を装う。


 その時、右前から視線を感じた。否、正確には四方八方から感じるのだが、右前から特に強く視線を受けた、気がした。思わず右前を見てしまい、自分の判断が誤りだったと気が付く。偶然か、必然か、華蓮と視線が交錯する。時が止まる。数秒あるいは一瞬が経ち、彼女は悟ったような微笑を浮かべた。

 俺は我に返ると同時に目を逸らした。それが純粋な照れなのか、それとも無意識に合理的な行動をとったものなのか、自分でも判断が付かなかった。



 馬鹿どもがゴールデンウィークを前にして浮足立ち、聡く賢い者はその先に潜む中間試験に目標を定める。そんな時期、クラス委員を決めるHRにおいて、俺は「は?」と威圧的な声を発した。


「俺が、学級委員? 何故(なにゆえ)自分がやらなければならないのですか?」


 濁った碧眼を吊り上げて、威圧しながら極力事務的に、高橋に問いかける。彼は飄々とした調子で答える。


「男子学級委員に立候補はおろか、推薦すらないまま一時間が経過した。このままでは埒が明かない。というわけで俺から推薦だ――東條、次席のお前なら文句は挙がるまい」


 次席とか初耳なんだけど。というか、それは公開して良い情報なのだろうか。既に立候補で女子学級委員の座に収まった主席さんをはじめ、優秀なA組のクラスメイトが驚きや尊敬などの表情をこちらに向けてくる。

 目立ちたくない、人と関わりたくない、そんなオーラを出していたのに、何故この担任教師はそれを無視してくるのか理解出来ない。

 兎も角、目立ったのはこの際仕方ないとして、人と関わる役職は遠慮願いたい。


「自分より適任者はいますよ。十九番君とかどうです?」


「お前は名前も覚えてない奴を推薦するのか?」


 適当な提案は遠回しに一蹴された。そんなことないよな? とばかりに十九番君を見るが、露骨に明後日の方向を向いて、下手くそな口笛を吹いていた。話したことも無いのだから、彼が俺に協力してくれる確率は零に等しかったが、正直第二案は無い。


 これ以上ないくらい嫌そうな顔で、降参とばかりに両手を挙げる。

 なし崩し的に、「歌姫華蓮」の右隣に「東條マリユス」が書き込まれる。高橋からHRの司会を押し付けられた俺は、幸せどころか平常すら逃げそうな位に、深いため息を一つ吐いた。



「ごめんね。手伝わせちゃって」


 その日の放課後、無神経な担任教師高橋浩太郎(以後、無神経高橋と呼ぶことにする)から渡されたプリントの束を教室に運んでいる途中、俺より頭一つ身長が低いもう一人の学級委員はそう言った。同じ立場のはずなのに、この完璧少女は何を気にしているのだろうか。


「俺も立場は同じはずだぞ。もし、『私だけがやればいい』なんて考えならお門違いだ。俺は最終的に、自分で手を挙げた」


 嘘は言ってないつもりだが、キザな言い回しになったような気がしないでもない。そんな俺の台詞を聞き、彼女は目を丸くする。

 ……今更だが、基本無言で人と関わるのを嫌う俺は、華蓮含むクラスメイトから、会話することが苦手だと思われている節がある。『別れが辛いからそもそも仲良くしない』等という考え方は、十代の少年少女にはまず理解されない。


 目的を考えたらそれで良いのかもしれないが、プライドみたいなものがないといえば嘘になる。どうでもいい意地だ。


「でも……」


 キザっぽい台詞に対して、華蓮は何かを言いよどむ。言いたいことは流れでなんとなくは分かったので、先回りして答えておくことにする。


「仕事するのは嫌いじゃない。まあ、好きでもないが。あと、俺は人と『話せない』のじゃなく、『話さない』だけだ。返答くらい出来る」


 華蓮の顔に僅かに赤みが差す。俺でも同じ境遇に置かれたら、彼女とニアリーイコールな反応をするだろう。自分の言葉だからこそ、「あ、これコミュ症の理論と同じだ」と気が付くことが出来たが、言われた側だったら思考停止して、勘違いしていたと思い込んでしまうだろう。目の前にその証人がいる。まあ、今回に限っていえば勘違いでは無いのだが。本当は、俺は話すのが大好きだ。


 数秒たって、外界との会話機能を回復した証人が少しおどおどしながら、謝罪の言葉を述べる。


「えっと、ごめんなさい」


「謝るようなことは何もないだろ。ええと、だから、つまりだな……」


 教室は夕焼けでオレンジに染まっていた。自分の持っていたプリントに加え、華蓮の持っていた分をひったくるように取り、教卓の中に押し込む。暇になった手のうち、右側を自身の首に添える。


「普通に話しかけてくれて構わない。仕事でも、それ以外でも」


 少し驚いた表情を見せた後、彼女は微笑みを浮かべた。その笑顔の前では、夕日の美しさすら霞んでしまう気がした。

 俺の顔は太陽のように熱くなった。



 自覚はある。

 俺は無意識に、華蓮のことを『大切な人』フォルダに入れてしまっている。

 こうなったらもうどうにもならない。好きの反対は無関心だというように、嫌いな相手が死んだとしても悲しいと思ってしまう。そして、好きから嫌いに変化することはあっても、無関心に戻ることはない。また一人、いつか別れを告げなければならない相手が増えてしまった。しかも、親父と同じことになっている気がしてならない。


 華蓮のことを考えていると、口の中に、煙草のような強い苦みと僅かな甘みを感じた。『良薬は口に苦し』の次元に収まらない、明らかに毒と分かる苦みと、バニラの甘ったるいフレーバーが舌を刺し、思考の渦に呑まれていた意識を現実まで一気に引き戻す。


「俺のテリトリーで辛気臭い面を晒(さら)してんじゃねえよ」


 一目で不良と分かる、制服を着崩して煙草を咥えた少年が、邪魔だとでも言いたそうな眼で見下ろしてくる。人が少ないという理由で、俺が最近よく訪れている、学校の屋上のほぼ唯一の利用者。俺は勝手に『屋上(おくじょう)先輩』と呼んでいる。関わりはあまりないが、たぶんおそらくきっと、根は悪い人ではないと思う。


 屋上先輩はそれ以上何も言わず、俺の隣に腰を下ろし、塔屋の壁に寄り掛かる。その行為に深い意味等なく、ただ日陰に腰掛けただけだろう。皐月の天照大神がその美しさを遺憾なく発揮して、日向の暑さ(どちらかといえば「熱さ」の方が近いかもしれないが)を半端ないことにしていた。

 今は昼休みだから、その熱さたるや、日の当たる場所は焦熱地獄と化していた。屋上先輩は「暑い……」と小さく呟き、短くなった煙草を、どこからか取り出した携帯灰皿にグリグリと押し付けて消火する。


 沈黙が訪れる。お互いにほぼ無関心なので、気まずいという感情すらも湧いてこない。校内の騒めきが遠くに感じる。季節外れのミンミンゼミが一匹、叶うはずもない恋の歌を歌い、それだけが時間の流れを教えてくれた

「お前さ、なんか悩んでるんだろ? 暇潰しにさ、話してみろよ」


 ミンミンゼミの規則的な鳴き声を50回は聞いた頃、屋上先輩は唐突にそう切り出した。

 彼の性格からすると、本当に暇つぶしだと思うが、同時にちゃんと回答してくれる予感もした。だから、関わりの少ない彼だからこそ、俺は本当のことを話してみることにした。


「まず前提として、俺は不老不死なんです」


 我ながらふざけた内容だと思う。しかし屋上先輩は、暇つぶしと割り切っているからか、特に追究をせず、一度小さく頷くことで続きを催促する。頷きを返し、話を続ける。


「大切に感じてしまった人がいるんです。でも、彼女ともっと仲良くなって、一生を添い遂げると決めたとしても、いつか別れは訪れます。友達が死んだときですら、ぼろぼろと泣き崩れて、何日も立ち直れなかった。だから、うっかり好きな人を亡くしてしまった日には――きっと、耐えられない」


 屋上先輩は俺の語りを聞いて、咀嚼するように考え始めた。再び沈黙が訪れ、ミンミンゼミが存在感を示す。体感にして数分後。


「とりあえず、お前の眼が濁っているのは、くだらない理由ではないってことは判った。だから言うぞ。あんまり深く考えるな、惚れた時点でお前の負けだ。だったら精々、少しでも自分が幸せになる道を選べ」


 そう言って、屋上先輩は煙草を咥えた。「もう答えたから後は勝手に頑張れ」と無言の圧力で伝えて、彼はこちらから目を逸らした。


 再び自問自答する。昔、親父が言っていたことを思い出す。今、屋上先輩が言った言葉を反復する。彼女のことを強く思う。――浮かんだ独善的な案を、頭を振って打ち消す。

 煙草の強い苦みと、バニラの甘ったるいフレーバーが舌を刺した。



 どうにもこうにも今回は上手くいかない。理由は明白で、今まで感じたことのない感情に振り回されているからだ。


 無神経高橋に頼まれてやっていた作業が思ったよりも長引いて、すっかり暗くなった街は、ネオンと提灯に美しく照らされる。朝から降っていた雨が止んでいたので、そのあたりは幸運だったが、それを差し引いてもマイナスになる程に時刻は遅い。


 急ぐことも特にないので、梅雨特有のじめじめとした空気の中、のんびりと家まで帰ることにした。

 何となく手持ち無沙汰で、傘をくるくると回す。子供っぽいと思わなくもないが、上手くなると地味に楽しいし、癖みたいなものだから仕方ない。物理的に危ない癖だと思う。


「なあ、キミ可愛いね。俺たちと遊ばない?」


 不意にそんな声がして、興が削がれた。傘を回すのを止めて、声のした方を見ると、ガタイのいい男たちが三人ほど、下賤な笑みを浮かべながら、一人の少女を囲っていた。ここまで判りやすい『クソ野郎』も今時珍しいな、と思う。

 ヒーロー願望があるわけではないが、完全に見捨てられる程割り切れてもいないので、最悪の場合は割り込む前提で、一先ずは傍観を決め込むことにした。


「あの、困ります。もう家に帰らないと……」


「大丈夫だって。そんなに時間は取らないからさ」


「そうそう、それに絶対楽しいって。な?」


「でも……」


「いいから、さ。なあ、いいだろ」


 少女が中々肯かないので、男たちの言葉に少しずつ苛立ちが混じる。

 思ったよりもヤバそうだと判断して、なるべく穏便に割り込む準備をする。そう、穏便に済ませようと思ったのだが。


「お前さ、俺たちは遊んであげるって言ってんの。ふざけんなよ! お前は黙って俺たちの言うことを聞けばいいんだよ!」


 男の一人が逆上して叫び、少女に手を伸ばす。

 流石にアウトだ。

 体を隙間に滑り込ませ、男の手を払い落とす。小さく呻く男と驚愕する仲間が口を開く前に、出来るだけ自然な演技をしつつ、第一声を発する。


「すみません、俺のツレが何かしましたでしょうか?」


「ああん? 兄ちゃん誰だよ?」


 逆上男とは違う、一早く復活した一番背の高い男が怒鳴る。ツレって言ったのが聞こえなかったのかコイツ。分かりやすく言い直してあげよう。


「だからさ、俺の女が何かしたか?」


 用がないなら行くぞ、そう続けようと思った矢先、先ほどの男がまた逆上し、言葉と拳を同時に振りかぶる。


「マジでふざけんなよ手前(てめえ)! 死ねよ! 割り込んできて彼氏宣言とは、ずいぶんと愉快なことするじゃねえか。邪魔だ、退かねえと殺す!」


 その言葉は男にとっては、それこそ息をするように自然に出たのかもしれない。しかし、それをトリガーにして、俺の中で何かが切れた。


 相手の拳を避けつつ、傘の柄を刃(やいば)に見立て、逆上男の鳩尾に突きを叩き込む。

 現代の格闘技など所詮スポーツだと思い知らされる、殺すことを目的とした実践的な戦闘技術の一つ『銃剣術』。

 慣れてくると相手の生死は勿論のこと、怪我の有無も多少は調整出来るようになる。昔取った杵柄が、思わぬところで、望まぬ形で役にたった。倒れた男の胸倉を掴んで、無理矢理立たせる。


「『死ね』『殺す』、お前はそう言ったな!? あれはな、そんな軽い気持ちで言って良い言葉じゃないんだよ! あれはな、言った相手本人と、その身内の気持ちまでよく考えてから、覚悟を持って漸く言える言葉なんだよ!」


 心からの叫びだった。大切な人を失った経験がない者が、軽々しく口にする『死ね』という言葉が、俺は絶対に許せなかった。何だから正義感等ではなく、衝動で体が動いた。

 男の胸倉を放し、ゴミを見るような眼をしたまま言い放つ。


「往(い)ね」


 短い言葉だったが、以外にも効果覿面なようで、彼らはビクッと体を震わせて、逆上男以外の二人が無言で逃げ出す。一拍遅れて逆上男が、呻き声を漏らしながら去っていった。

 男たちが去り、怒りで燃えていた心が一気に冷める。

 やりすぎた。武器対等の原則を無視した、明らかな過剰防衛だった。あの男たちが警察に行く可能性は限りなく低いので、そちらの方は問題ないが、冷静でなかったことは確かだ。


 軽い自己嫌悪に陥っていると、今まで静かに壁際で震えていた少女が口を開く。


「……マリユス、君?」


「華蓮?」


 よく知る少女の澄んだ黒眼を、自分の濁った碧眼の中心に映し、思考がフリーズする。どのくらいの間そうしていたのか正確には分からないが、暫くすると華蓮は顔を赤らめて目を逸らした。

 華蓮が目を逸らすと同時に、俺の凍結も溶ける。やや動揺の残ったままの頭で考えた言葉を、原文そのままで口に出す。


「あんなことがあったんだ。華蓮が嫌じゃなければ家まで送ろう」


 整理されていない不格好な台詞を聞き、彼女は一瞬、キョトンとした顔をする。そんな無防備な華蓮を見て、守ってあげなければ、という思いが強くなる。数秒たって俺の意図を理解した彼女は小さく頷く。


「お願い、します」


 こちらも頷きを返し、歩きだそうとしたのだが、華蓮に待ったをかけられる。未だに小さく震えながら、俺の服の端を引っ張る姿には、初めて見た時に感じた凛とした印象は面影もない。それすら心のどこかで可愛いと感じてしまう、この数ヶ月で著しく浸食した自分の恋愛脳に戦慄しつつ、「どうした?」と尋ねると、目の前の少女は小さな声で答える。


「手を繋いでもいい? まだ、怖いから」


 拒む理由はないので、黙って手を取る。どこか体が熱く感じるのは、激しく動いたせいだろう。

 しかし、女の子の手というものは、誰もがこんなに小さいのだろうか。生憎と比較対象は持ち合わせていない。右手で握った彼女の左手は、もう少し力を入れるだけで折れてしまいそうで、とても脆く儚いものに感じた。


 今更ながら、俺は勘違いに気が付いた。

 彼女は、美人で秀才で運動神経抜群で優しいけれど、決して完璧ではないのだと。


「ねえ、マリユス君、質問してもいい?」


 暫く無言で歩いていると、華蓮が不意にそんなことを言ってきたので、俺は首肯を返す。


「マリユス君――なんで、そんなに寂しそうな眼をしているの?」


 心臓がドクンと音をたてて跳ねる。言葉の意味は、何故かすぐに理解出来た。


「初めて会った日から、勿論今日も、いつもその眼をしてる。真面目に授業を受けている時も、私や先生と話をしている時も、人を避けるように隅にいる時も、貴方は絶対に人と目を合わさない。ううん、目が合ったとしても、別の場所を見ているみたい。」


 答えられなかった。俺は曖昧な笑みを浮かべつつ、華蓮の手を少しだけ強く握った。彼女は抵抗も追及も一切せず、ただ手に力を込めた。

 右手に温もりを感じつつ、「自分は弱いな」と再認識した。



 懐かしい夢を見た。あの日も今日と同じように、蒸し暑い夏の朝だった。

 一八九四年八月、まさに日清戦争の真最中の某日、親父――ジャックはカーテンまで閉め切った暗い部屋の中で、ワイン片手に俺に真剣な目を向けてくる。

 本物の吸血鬼である親父は、赤ワインで吸血衝動を緩和しているらしい。真偽は兎も角、少なくとも親父はそう言っている。



「お前は純粋な人間に限りなく近いと思っていたのだが、どうやら違うようだ」


 そう言って、血のような赤ワインを一気に飲み干す。

 声にならない疑問を上げつつ、澄んだ碧眼で射貫くと、親父はワイングラスを机に置いて、続きを語りだす。


「お前は怪我の治りが早いこと。不老不死、少なくとも不老であること。以上二点を除いては千代子(ちよこ)の血を受け継いでいると思っていた。しかし、隣の家で飼っている犬、あいつは今年で三十歳になる。そして、あいつはお前の血を口に含んだことがある」


 当時まだ実年齢で二十歳過ぎだった俺は、少ない知識と人生経験を総動員して、親父の言った言葉を必死に整理した。数分考えるが、答えは出ない。


「補足だ。眷属(ヴァンパイア)を増やす条件は『血を吸う』ことではなく、『体液を入れる』ことだ」


 それは答えといっても差し支えないものだった。普通は吸血時に唾液が相手の体内に入る。今の話の場合は、逆に噛まれたときに血が相手の体内に入った。そして、その相手は、寿命を明らかに超えているのに生きている。結論としては、俺に『眷属をつくる能力が備わっている』ということだ。


 しかし、突然そんなことを言われても、理解の域を超えていた。

 呆然とする俺を見つつ、親父は黙ってワインをグラスに注ぎなおす。再びワインを一気に飲み干し、「今から言うことだけでも覚えておけよ」としっかり念を押して、俺が落ち着いたのを確認してから話を続ける。


「むやみに眷属は増やすな。まだ若いお前には分からないかもしれないが、不老不死は、――」




 けたたましい電子音で現代(いま)に引き戻される。折角の休日にも関わらず、スイッチを切り忘れていた愛用の目覚まし時計は、最も重要な『何か』を聞かせてくれなかった。


 あの時親父が、長い時間(とき)を生きてきた純血の吸血鬼ジャックが、いったい何を伝えようとしていたのか。一番重要なことであるはずなのに、どうしても思い出すことが出来なかった。


 寝癖のついた頭を、苛立ち半分にガシガシと掻き毟る。

 答えは分かっているのに、そこに至るまでの途中式が分からない、出来の悪い数学の答えを見た気分だった。自分なりに考えて、それなりに納得のいく結論を出した。


「孤独――寂しさ、か?」


 当然、答え合わせは出来ない。



 夏休みが目前に迫り、今後一ヶ月をどう過ごすか思いを馳せる者たちや、貼り出された成績を見て一喜一憂する者たちによって、ここ最近の昼休みはカオス極まっていた。特にそれらに興味がない俺は、例外的に普段と変わらない様相を見せる、屋上の日陰でだらだらと休んでいる。

 如何せん暑すぎる気がしないでもないが、教室は別の理由で熱い。

 屋上先輩も流石に煙草を吸う気分にはならないのか、よく冷えたバニラミルクを飲んでいた。この人バニラ好きだな。


「にしても、暑い」


 思わず口に出して、余計に暑くなる。屋上先輩が舌打ちしながら、もぞもぞと場所を変え、冷えたコンクリートに潰れたようにへばりつく。

 制服を着崩したりして格好つけているものの、この人は根本的に欲求に忠実だ。俺もそれに倣い、壁に体を押し当てた。冷たくて気持ちが良い。

 暫く壁にくっついたり団扇で仰いだりしつつゴロゴロしていると、塔屋の裏側でドアの開く音が聞こえた。屋上に人がくるとは珍しい。


「マリユス君」


「ぅえいっ?」


 声をかけられるとは微塵も思っていなかったので、思わず間抜けな声が漏れる。半拍ほど遅れて声の主を見ると、黒髪の美少女が小さく笑みを浮かべて立っていた。

 暑いからだろうか、下ろしていた髪を、頭の後ろで一つにまとめていた。


「髪型変えたのか。華蓮」


 女性が髪型を変えたら取りあえず口に出せ。そんなことを誰かが言っていた気がする。たぶん、親父か昔の上司が処世術の一つとして教えてくれたのだろう。


「う、うん、どう? 似合うかな?」


「似合うよ。下ろしてるのもいいけど、夏はこっちの方が涼しそうで良いね」


 先ほどのように社交辞令ではなく、嘘偽りなく本音だった。ポニーテールは好きだし、美少女がそれをして褒めない理由はない。華蓮はそれを聞いて、照れたように顔を赤らめた。

 何となく直視できなくて目を逸らすと、屋上先輩が視界に入る。すると、今まで壁と同化していた屋上先輩が唐突に腰を上げた。何の空気を読んだのか、こちらに軽く目配せをして無言で立ち去って行った。


 二人きりになることは初めてではないが、わざとらしくそうされたようで、何か必要以上に意識してしまう。華蓮に視線を戻すと同時に目が合い、思わず硬直する。


「あのね、マリユス君、私ね――」


 彼女の表情は真剣そのものだった。


「――私は、マリユス君のことが好き。だから、付き合ってください」


 そう言って、彼女は頭を下げる。

 自分の中の何かが、決して受け入れてはならないと警鐘を鳴らす一方、心は彼女を自分の女(もの)にしたいといっていた。本能と感情で激しい自己矛盾が生じて、軽く頭痛を覚える。

 何か言わなければならないと、乾ききった口に残る僅かな唾を飲み込む。


「素直に嬉しいよ。でも、俺は……」


 全て正直に話すことにした。もう一度唾を飲み込む。


「今から話すことは全部本当のことだ。よく聞いてくれ。俺は、東條マリユスは吸血鬼の血を引いている化け物だ。寿命は無く、怪我をしてもすぐに治る――こんな風に」


 自分の腕を噛み切り、それを華蓮に見せる。

 彼女は最初「ひっ」と小さな悲鳴を上げて顔を歪ませたが、十秒とせずに治癒した腕を見て、その表情を驚愕へと変える。


「もし付き合うとしても、お前を噛んで眷属にした後だ。不老不死の悪い所をしっかりと考えて、せいぜい後悔しない道を選べ」


 自己矛盾の答えは、他人に丸投げすることが俺の精一杯だった。表向きはそっけなく吐き捨て、華蓮のことをしっかりと見つめた。

 黒髪の少女は思いの外、力強く頷いた。



 夏休みはあっという間に過ぎ去った。始業式の放課後、華蓮に声をかけられた。

 結論を出すのが早すぎるとも思ったが、この真面目が服を着たような少女が、適当に答えを出すわけがないと思いなおす。そもそも俺の感覚が麻痺しているだけで、人間の十代にとって一ヶ月は、充分に長い期間である。

 他に誰も居ない教室で、華蓮と向かい合う。


「もう答えが出たのか?」


「うん。私は、それでもマリユス君が好き。人間でも、化け物でも、マリユス君はマリユス君だよ」


「そうか……」


 彼女の表情は真剣そのものだった。自分の中の警鐘は抑え込まれ、今まで抑え込まれていた華蓮への愛しさが溢れだす。

 彼女の背中に手を回し、苦しくない程度に力を込める。


「俺は、世界が壊れるまでお前を離さない。後悔しても遅いからな」


 彼女の耳元で、低い声でそう告げて、うなじの辺りに犬歯を突き立てた。

 「んっ」と小さく喘ぐ彼女をより強く抱きしめて、吸血行為による充足感に浸る。数秒で口を離し、無言で頭を撫でる。痛みで涙を浮かべながらも、腕の中の少女は嬉しそうに笑っていた。

 涙を見て、俺は親父の言っていたことを今更ながら思い出す。


『不老不死は、心を壊す。無限に続く別れに、その悲しさや虚しさ、辛さに人の心は耐えられない』


 自分の出した答えでは不十分だったな。


「華蓮」


「マリユス君」


 でも大丈夫。


 俺はもう一人じゃない。


 孤独には終止符を打った。


 二人でならどこまでも行けるさ。




 目の前の愛しい少女に、心からの思いを込めて、そっと優しいキスをした。





〈了〉

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