同じ傘
女が消えておよそ一分くらいの間、へたり込んだままだったと思う。
濡れた尻の冷たさに我に返った。雨水がぐっしょり沁みとおったバッグを拾いあげ、中のノートを気にしながら立ち上がる。
傘はもちろんまだそこにあった。少し弱まった雨はまだしとしとと降り続けている。
どうしよう。
家までの道をずっと雨に打たれるのも嫌だが、この傘をもう一度差すのはもっと嫌だ。
実際に考えていた時間はたぶん数秒だったろう。僕は周囲を見回し、十五メートルほど先、南に面したところに塀の切れめを見つけた。
丸く刈り込まれたツゲの植え込みと、アルミ製の門扉――民家の表門だった。ここで傘を借りよう。そうしよう。
門をくぐり玄関先まで歩いて呼び鈴を鳴らしすと、中から応えが返ってきた。
――どちら様で?
「近所の者です、帰る途中で急に雨に降られて……傘を貸していただけないかと思いまして」
少しためらった様子があり、一呼吸おいて眼鏡をかけた白髪頭のお爺さんがドアを開けた。不審そうな目でじろじろと僕の頭のてっぺんから足の先まで見回し、きゅっと眉をしかめた。
「……わかった。このビニール傘でいいかね? すこし小さいと思うが……」
「いえ、ありがとうございます、これをお借りします」
老人はなおも不審そうだったが、それでも僕に乾いたタオルを一枚貸してくれた。僕はそれで頭や顔、肩回りをぬぐうと、せいいっぱいのお辞儀をしてタオルを返した。
僕は再び雨の降る中に戻った。元の道を歩き始めてすぐ、ふと気になって後ろを振り返る。あの傘は先ほど放り出した時のまま、柄を斜め上に向け、へし折れたキノコのような塩梅でそこに転がっていた。
この傘をこのままここに置いておくとさらに悪いことが起きる――なぜか不意に、そんな突拍子もない考えにとりつかれた。
僕はビニール傘を差したまま件の女物の傘に近づいた。傾いた杯のようになった傘布には雨水がかかり、溜まりかけては傾きにしたがって外へと流れだしている。 プラスチック製のJ字型をした柄を、指でつまむようにして傘を拾いあげた。
自分が明らかにおかしな判断をしていることは自覚していた。だが僕はその傘をくるくると手早く畳んでバッグと一緒に左手にぶら下げ、雨の中をアパートまで歩いて帰った。
傘は濡れていたのでドアの北側にある手すりの部分に引っ掛けておいた。翌朝には雨はからりと上がり、僕はその日一日を費やしてどうにか締め切り前に原稿を書き上げた。
さて、現金なもので数日もたつと、僕には自分が見たものが現実だったのかどうか、次第に自信がなくなってきた。
傘は相変わらず手すりに掛かっていて、とくに心配したような怪異も起きない。
だがその女物の傘を再び使うことだけはどうしてもできず、僕はコンビニでビニール傘より少しはましな黒い蝙蝠傘を買い直して、雨の日にはそれを差していた。
そんなある日のこと――担当編集の大上氏と打ち合わせをした帰りに、駅のホームで電車を待っているときのことだった。
僕が立っていたのとは線路を挟んで反対側のホームで、ふいに悲鳴が上がった。人が線路に落ちでもしたのかとそちらを振り向いたが、そうではなかった。
この駅はホームの端に一部、屋根がない。だが停車位置の床表示はその部分にもあって、雨の日にその位置で電車を待つには傘を差すしかないのだが――そこに中年の女性が一人、尻もちをついてへたり込んでいた。
足元には傘。
それも、僕があの日持ち帰ったのとそっくりな、ミルクティーの色をしたエスニック模様の傘が、やはりへし折れたキノコのように転がっていた。
人ごみに穴が開いたように周囲の人々が後ずさり、女性が金切り声で前方のどこかを指さすのが見えた、駅の構内アナウンスやちょうど入ってきた電車のブレーキ音で断片的にしか聞き取れなかったが、その女性の声は僕の耳にも何とか届いていた。
――女が……! 今、ここに女がっ!!
それではっきりとわかった。あの女性も、僕と同じものを見たのだ。あの骨の多い女物の傘、その内側に。持ち主の隣にこつ然と現れる虚ろな目の美女を。
(あれはやっぱり、幻とか目の錯覚じゃなかったんだ……)
対岸の人ごみの中を目探ししたが、それらしい女は見つからなかった。多分あの時と同様に、傘がひっくり返った後すぐに消えてしまったのだろう。
中年の女性は尻もちをついたまま、まるで何かを追い払おうとするかのように足をバタバタと動かしていた。駅員が呼ばれてきて彼女を助け起こし、人混みが元通りになった。
ちょうどその時、僕の立っているホームにも電車が入ってきた。僕はそのまま、車内へ飲み込まれる人の流れの一部になった。
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