傘の内
冴吹稔
別の傘
図書室での調べものを終えて公民館の玄関まで出てきたところで、傘がないのに気が付いた。
誰が持って行ったのか、日ごろ手になじんだ籐の柄の黒い蝙蝠傘はそこになく、なにやら
その日の天気予報は午後からの確実な雨降りを告げていた。すでに空は灰色にどんよりと曇り、エントランス前の舗石の上には、点々と色濃く濡れたあとが印され始めていた。
――困ったな。
僕は辺りを見回し、次いで図書室の入り口まで戻って中を覗き込んだ。すでに入り口の重い扉は施錠され、分厚いガラスの向こうではカウンター辺りで職員の女性が一人二人、物憂い様子で残務を片付けている様子だった。今日は平日で、おまけに図書室は三時までで閉鎖される早じまいの曜日なのだ。
こんな日に急に思い立って調べものに来るのは、ひとえに僕の計画性のなさが原因だ。
だが近くはないとはいえ歩いてこられる距離にこの公民館があることと、今書いている小説のためにはどうしても、ネットの記事などではなく、昭和のころに発刊された古い文献に当たる必要がある、と理由が二つも並んでいては、思い立ったままに動いたとしても仕方がないではないか。
べつに、傘も持たずに出かけたわけではないのだし。
さて、どうしたものか。この傘は明らかに婦人用のものに見える。ということは、あの職員の誰かが置いているのか。それとも、二回の自習室あたりでまだ勉強している学生でもいるのだろうか?
スリッパ履きのままぺたぺたと足音を響かせて二階に上がってみるが、そこにも人の気配はない。首をひねりながら再び降りて来てみると、にわかに雨音が大きくなった。玄関の外はもう水浸しで、傘なしでは到底歩けないような土砂降りだった。
――どうすっかな。
公民館自体はまだあと二時間は開いている。だが天気予報で出た雨雲の衛星画像を思い出すに、その程度で止むとも思えない。何より、連載小説の原稿締め切りがもうあとわずかに迫っている。二時間を無為に過ごすのはあまりに惜しい。
もはや他の選択肢もなく、僕はその女物の傘を手に取った。明らかに他人の傘であるそれを持ち去る行為には非常に抵抗があったが、仕方ない。調べもののノートを入れたバッグは防水の良くない布製だったし、濡れるのはどうあってもごめんこうむりたかったのだ。
アパートに帰る途中の道は水が溜まって川のようになる場所が多く、大型トラックでも横を通られた日にはずぶぬれになってしまう。僕は裏道へ入り込んで、人通りのない狭い道を、なるべく水たまりに足を突っ込まないように苦心しながら歩いた。
頭上に広げてみると件の傘は普通より骨が多く大きなもので、人込みのなかを差して歩くにはひんしゅくを買いそうな代物だ。骨に沿ってうっすらと錆のしみ込んだ後があるところを見ると、使った後やや長い期間放置されていたのかもしれなかった。
つまり、この傘はもう誰のともわからない忘れ物なのだ――そう考えてようやく良心の呵責から解放された、その時だった。
右手で差した傘の、心棒の向こう側――つまり僕の右隣り、目線より少し下に黒くつややかなものがあった。ぎょっとして首をひねり、視界の中心にそれを捉える。
人の頭だった。それも長い黒髪を肩甲骨のあたりまで垂らした、僕より頭一つ低い位の上背のある、すらりとした女。そいつはたった今そこに現れたように唐突で、それでいて異様なまで実在感があった。
息をのんだその時、そいつがこっちを見た。目が合った。
泣きはらしたように目のふちを赤く染めた、色白で整った顔。描いている様子もないのにくっきりした眉が、やたらと目についた。普通に出会っていれば少なからず好感を持ちそうな美人だが、そいつ――彼女の眼は視線を合わせていてなお、どこも見ていないように虚ろだった。
生きた人間の目とは到底思われない。
ひぃっ、と吸い込む息で悲鳴を上げ、僕はその場に傘を放り出し、尻もちをついてへたり込んだ。ジーンズの尻から冷たい雨水がしみ込んで来る。多分バッグの中のノートも同じ目に遭っている。だがそれよりも何よりも、目の前にあるものへの恐怖がどうしようもなく僕を押しつぶした。
女はほんの数秒、投げ出された傘と僕を交互に見比べるように首を左右に動かしたが、ひどく残念そうに口をへの字に曲げ、次の瞬間、跡形もなく消えた。
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