日高 森

 学校の怪談はわりと他愛もないものだ。だいぶ年増の私が中学生の頃に聞いた話も、大半は銅像が動くとか、夜中の踊り場の鏡に何か映るとか、旧校舎のトイレで妖怪化した何者かにちょっかいを出されるとか。あるある過ぎて、パターンを分類していたくらい。

 しかしとあるスポーツ邁進学校で経験したのは、その類型に収まらないものだった。

 中学生当時の私は理数系の進路を希望する、今でいう「リケジョ」の類。他の学校を会場とする模試のため、バスを乗り継いで「噂」の学校へやってきた。震えがでたのは寒さのせいだけじゃなく。

 聞こえていた「噂」というのは、その学校には鏡がまったく無い、ということ。そう聞いて一瞬、「そこは典型的スポーツ推進の、男子校だから」と、勝手に納得した。けれどよくよく考えてみれば、昭和の男子高校生といえど、身だしなみについても厳しく薫陶があったはず。まして毎年、甲子園大会に出場し、プロ野球選手を多数輩出している学校だ。何かが映り込むからと教師たちまでが恐れ、学校をあげて鏡を撤去したなど、そんなことがある訳もないだろう――私はどこかたかをくくっていたのだ。

 件の学校は年中工事をしている状態らしく、施設のあちこちが天幕のようなもので覆われ、渡り廊下も青天井。校内はほぼすべて風が直撃する作りで、「さすが甲子園常連! 鍛えてる! 俺も鍛える!」と、他のクラスの男子らが嘯いていた。彼らの分厚いコートが、皮肉にはためいていたけれど。

彼らのあとを歩く私は、とにかく本当に鏡が無いのか確かめたくて、早足になったり立ち止まったりしていた。事実、鏡が無かったら、例の「噂」が肯定されてしまう。それはそれで怖いので、逡巡が私の足をひっぱる。

 ようやくまともに壁がある校舎内の教室へたどりつき、指定された席にカバンを置いた。そのあとすぐに試験官が入ってきて、教室内が緊張に固まる。怖い噂よりなにより、今回の模試の成績によって志望校が厳しく選別される。いわゆる「足切り」をされるほうが、よほど怖い。私も他の生徒たちも、配られる用紙こそが邪気の塊に見えて、触るのすら恐ろしかった。



 九十分間の物理のテストのあと、十五分間の休憩があった。そのあとも数学の試験が続く予定で、私は急いでトイレへ向かうことにした。吹きさらしの渡り廊下は、制服だけのいでたちではかなり寒く、わが身を抱いて小走りに渡り廊下を行く。ポケットには母からもらったハンカチがあり、それがお守りだったらなぁ、となんとなく思っていた。

トイレにつくと、入り口からは個室のドアしか見えず、妙にほっとして中へ入った。当時は珍しく洋式で、さすがあちこちから選手をスカウトしてくる財力のある学校だと、無意味な感心をする。そして外に出て手を洗おうとし、ようやく異様さに気づいた。

手洗い場に、まったく鏡が無い。

鏡があるべき壁面は、ほぼ全面が肌色のベニヤ板で覆われ、端のほうに本来の薄緑の壁がのぞいていた。

ひやり、首筋に冷たい何かが走る。窓も無い室内なのに。

ぎごちない手つきでなんとか蛇口をひねって手を洗い、ポケットの白いハンカチを出そうとして、出せない。ポケットのまわりをずいぶん濡らし、私はやっとのことで手をふいて、転びそうになりながらトイレをあとにした。肌色のベニヤ板が薄緑の壁面を覆う様子は、まるで絆創膏が傷口を覆っているようで、痛みが追ってきている気分になる。

戻った教室内は、妙に薄暗くて淡く灰色がかかっている気がした。同じ中学校の生徒たちがある女生徒を中心に集まって、騒然としている。あまりなじみのない彼らを避け、席に着こうとして呼び止められた。

「ちょっと! これ見て!」

 先ほどの異様な光景の件もあり、私はうんざりしながらその囲まれた女生徒のほうへ向かう。彼女がぐいと差し出してきた手には、小さなコンパクトが載せられている。鏡が無い学校だというから、おしゃれな彼女はわざわざ持ち込んだのだろう。当然、何かが映るかも、という好奇心も。それで映ったのだから、おっかなびっくりながら「成果」を自慢したくて、私に披露するのだと思った。だが彼女だけでなく、彼女を囲んだけっこうな数の男子たちも、皆が怯えて蒼白になっている。どんなすごい何かが映ったのだろうと、本命の数学のテストを前にしながら、私はワクワクしてコンパクトの鏡をのぞいた。

 けれど私はがっかりした。特に何も映ってはいなかったから。何が怖くてそんなに怯えているのか、全然わからない。困惑して、当の女生徒の顔を眺めてしまう。すると彼女は怪訝な表情を浮かべ、震えた声で尋ねてきた。

「見えないの? 何も映ってない、なぁんにも」

 もう一度鏡をのぞきこめば、教室内の並んだ机も、前の席の椅子の背も、きっちり映っている。何を言っているのかわからず、私は応えた。

「え、普通に映ってるよ。鏡の機能ははたしてる」

 その応えに落胆したのか、まわりの男子たちが一斉に低く唸る。

「なんでわからない?」

 遠くから低くなじる声までして、私はむかついた。何も映っていないのに、何に怯えているのかと。

 そして試験官が現れ、皆へ席に着くように促した。皆は無言で、自分の席に着く。配られた数学のテスト用紙に、すべて忘れて没頭した。私は数学が大好きだったので。



 模試が終わって、特に最後の数学がさんざんな出来だったと、他の生徒たちが言い合いしていた帰り道。校門へ向かう道筋で、私は首を傾げて歩く。私のような経験をしなかった彼らが、何に動揺してテストに集中できなかったのか、理解できなかったから。

 整地中のグラウンド横にある、砂が敷かれた道はざりざり音がする。耳について、私はかぶりをふった。ふと、傷口に砂がついたら痛いと、とりとめのない、嫌な空想が脳裡をよぎる。

 ざりざり

 ざりざり

 砂だらけの裂けた傷口が、あのベニヤ板で覆われた壁と重なって思えた。膿んでただれ、流れ出た緑色の体液が、絆創膏のまわりからじくじくと漏れている。

 嫌すぎる妄想をもてあましていた私は、当然のごとく砂地につまづく。

それで閃いて、硬直し立ち止まった。

 あのコンパクトには、何も映っていない!

そこにいたはずの、生徒たち、誰もが! みんなが!

 やっとそれに気づき、私は駆け出した。その学校の施設内に、一秒たりともいたくなくて。

 あの鏡にはのぞきこんでいたはずの私の顔も映っておらず、並べられた机と椅子がただ映っていた。やけに明るく映ろなその光景には、生きているものが何もいなかった。何もかもが、いなかった。

 数人の生徒たちを追い抜いて校門から出た私は、干上がった喉が痛んで止まった。けれどそこにいたら、自分の足が見知らぬ誰かの傷口にのっとられ、侵蝕されていくようで、かまわずにまたひた走った。バス停まで全速力で走ったが、まだまだバスは来ない時間でバス停にあたりたくなった。自分の足が痛むだけだから、やめておいたけれど。



 停車場で待ちながら、バスに揺られながら、私は耳についた砂の音に聞き入っていた。

誰も映っていないあの教室は、誰の目に映った光景なのだろう。

校舎内のすべての鏡が撤去された理由も、なんとなく理解できた。

映ったからでなく、映らないからだ。

教師すら怯えてしまうに、充分すぎる。トイレもどこも、誰もいない景色。誰も映らない虚ろな光景。

不意に傷口の妄想の意味もわかった。

「誰も、俺のことなんかもう、見ない」

 傷を負い、夢を絶たれた誰かの声が、響いた気がした。誰もいない世界は、望みを絶たれた誰かの心の中の世界。

 私は自分で自分の喉をおさえる。見知らぬ誰かの嗚咽が、自分の口から洩れそうになった。



 数十年経た現在、その学校は移転したと家族から聞かされた。大人気漫画のモデルともなったその学校は、相変わらずいろいろなジャンルのスポーツで名を馳せている。

 鏡の噂は、もう誰も知らない。

                               終

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日高 森 @miyamoritenne

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