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楓 双葉

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私は今、熊本へ向かっている。

 

 朝一の便に乗り込み、小さな窓から下界を見下ろしながら、無意識に彼の住む街の方を目で追ってしまう。

 飛行機は高度を上げ、シートベルトのサインが消える。


 田舎へ帰るのは五年ぶりだ。

 祖父の葬式で帰った以来。祖母は祖父が亡くなってからも一人、山の上の家で住んでいる。

 本土に住むおじさん達に、山を降りて一緒に暮らそうと言われても頑として首を縦に振らなかった。買い物に行くのにも一時間ほど歩いて下らなければ何もないような、山の中に住んでいる。

 

 申し訳程度の朝食を運んできたキャビンアテンダントが、ドリンクはどれになさいますか?と聞いてくる。

 ウーロン茶、コーヒー、オレンジジュース。

 私は迷わずに「オレンジジュース」と言った。

 オレンジジュースがよほど好きだと思われただろうか。

 子供だと思われただろうか。


 アテンダントは業務用の笑顔で紙コップにオレンジジュースを注ぎ、手渡して去った。

 隣の席が空いているので靴を脱ぎ、窓に背を向け足を乗せた。

 子供だと思われるだろうか。


「お前のその子供っぽいところが疲れるんだ」

 彼が言ったように私は子供なのか。三十歳の誕生日を目前に控え、その子供っぽさが原因で、私は四年付き合った彼に振られた。

 私は今、熊本へ向かっている。

 傷心旅行とでも言うべきか。


 五年も経つと田舎でも景色は変わる。

 空港を出ると見覚えのない真新しいバスターミナルがあり、祖母が自慢げに言っていた港へ向かうバスを探す。


 天草諸島へは熊本空港からバスで三時間かかっていたが、祖父が亡くなってすぐ、天草へのフェリーが開港し、空港から港までバスで一時間、港から諸島へフェリーで一時間の合計二時間と、一時間短縮されるようになったのだ。

 電話口で興奮気味に祖母が説明していたフェリー乗り場に着くと、次のフェリーは一時間後だった。


 結局三時間もかかるのかよ。

冷房の効いたフェリー乗り場の施設内に入り、ひとけの無いカフェゾーンに座ってひとりごちると店員がやって来る。


「なんになさいますか?」

 店員の九州なまりに熊本へ来た事を実感しながら、オレンジジュースと言いかけたがやめて、アイスコーヒーを頼んだ。


 遠いところへ来てしまった。

 私の望んでいた未来とはかけ離れた、恐ろしく遠い場所。


 彼は私が今、天窓から燦燦と光が挿すど田舎のフェリーターミナルのカフェで、滅多に飲まないアイスコーヒーをすすりながら次のフェリーを一時間も待つことなど知らないのだ。

 私がどんなに傷ついていようと、どんなに悲しんでいようと、もう彼には関係の無い事。


 私の何が悪かったのか。


 彼の言う子供っぽさとはなんなのか。それさえもわからないまま一方的に別れを告げられた。

 大事な話があると言うから、てっきりプロポーズかと思い一張羅のワンピースを着て美容院に行き、美容院でセットしたとわからない程度に、でも普段よりは手が込んでいるなと感じる程度のセットでと注文し五千二百五十円も払い、香水をつけすぎた首筋を手でこすりながら浮き足立って向かったレストランで振られた。

 あんなに冷たい目を見たのは始めてだった。

 彼の決意の固さを感じざるを得なかった。

 どうせなら好きな人が出来たとか、実は二股していたとか、彼に非がある理由で振ってほしかったのに。


 原因は全て私にあり、再三忠告したのに私の性格が変わらないから疲れた。と彼は言った。

 振られた瞬間私は怒りでいっぱいになり、彼を罵倒した。彼の悪いところをいくつも上げ連ねた。悪いところが見つからなくなり言葉に詰まったとき彼は「そういうところだよ」と笑ったのだ。何とも後味の悪い最後だった。

 その後に襲ってきた悲しさに私は現実逃避したくなり熊本へ来る事になった。

 油断すると彼の笑顔や差し出した手の大きさや、聞くだけで安心できた低い声を思い出してしまうし、家の中のあらゆる物が全て彼との思い出と繋がってしまい、手が震えたり急にドバっと涙が流れたり空中を見たまま一時間以上同じ体勢でいたり、仕事に行けば何だか無性にキレやすくなって同僚に八つ当たりしたり、男性社員に近づくのが恐くなり書類を渡すだけで挙動不審になったりで、私は危機を感じ休みを取った。


 どこかへ逃げよう。


 そう思ったら突然、いつも思い出しもしない祖母の姿が頭に浮かび、会いに行こうと思い立ち、電話をかけたのが昨日で、今日の朝一の便に乗り、ここへやってきた。


 場所が変わってもやはり思い出すことは同じで、コップについた水滴に人差し指で模様を書いていたら、ここに彼はいなくてこれからもう一緒にはいられないんだと思うと目頭が熱くなるので、私は自分の指を一本ずつ揉む。

 痛いくらいにグー、グーっと絞るように揉み、どの指が一番痛くないと感じるかゲームを始める。どの指か判断がつかないので何度も何度もやっていたら次第に全ての指が真っ赤になり始め、自分の馬鹿さ加減に悲しみが倍増する。

 

 フェリーが到着すると、どこに隠れていたのか人が集まり始めて、二階建ての船はおじいさんやおばさんや学生たちで埋め尽くされた。

 周りに人が増えた事の安心感で、備えつけられた大型テレビが見える位置に座った私は船が到着するまでぐっすりと眠ってしまった。



 天草へ降り立つと、母の弟の嫁であるおばさんが迎えに来てくれていた。祖母の家へはここからまだ車で一時間ほどかかる。

 おばさんは恥ずかしいほどに手を振り私を呼んでいる。

 急ぎ足で日に焼けたぽってりとした顔のおばさんに近づくと握手を求められた。

「よーきた、よーきたねぇ!ふとかなってー!」

 大きくなった、というのをこちらでは『ふとくなった』と言う。

 わかってはいるが太ったのかと一瞬心配になる。

「よろしくお願いします」

 私が頭を下げるとおばさんは、他人みたいな事を言うな、という感じの言葉を言った。


 おばさんの軽自動車は殺人的なスピードで山道をゆく。田舎の人は走りなれているせいか、猛スピードを出す。

 カーブもほとんど減速せずに曲がるから、私は窓の上についている取っ手を握り足をふんばった。

 おばさんは姿勢を低くし踏ん張っている私のことなど気にも留めず、福岡に出てしまった従兄弟のことや、近所のご夫婦のことや、都会に対する憧れを機関銃のように話し続けた。

 ところどころ九州訛りが強すぎて聞き取れないが、適当に相槌を打てば気分よさそうにしていた。

 延々続く蛇行カーブにさすがに気分が悪くなりスピードを落とすよう頼もうかと思い始めたところで祖母の家が見えてきた。

 急斜面に大木が何本もせり出して、時折車体を木の枝がかする。こんなの登れるのかと不思議に思うような急斜面のカーブを、おばさんは慣れたハンドルさばきでレースのごとく駆け抜ける。

 懐かしい祖母の住む母屋が見えたとき車が止まり、がちがちに踏ん張っている私におばさんはようやく気付いたようで大笑いして見ていた。


 おばさんが先に降り、祖母を呼ぶ。私も車を降りたがふらふらするので立ち止まって景色を見た。

 むせ返るような木々の匂い。

 深く吸うと、葉っぱや、土や、石や、海や、姿は見えない生物の匂いが全てブレンドされた生命の匂いがする。田舎に来たのだ。これこそが地球だ、そんなふうに思う。


「ばあさん畑の作業ばしとるけん、中入って待とか。おいで」

 おばさんが戻ってきて私の荷物を下ろし始め、母屋へ向かう。家から見下ろせるのは天草灘で、地球の形が丸いのだと実感できるほどの水平線。

 遠くでおもちゃみたいに小さな船が眩しいほどきらきら輝く海を漂っている。

「はよせんね!」

 おばさんにせかされ後を追った。


 中へ入ると、古びた柱時計のかかった柱と、西日ですっかり焼けた畳、全ての窓が開け放たれた家の中は昔とちっとも変わっていなかった。いつも真ん中の赤い座布団の上でお茶を飲んでいた祖父だけが足りないくらいだ。


 敷居をまたぎ、土間で靴を脱ぎ、居間に上がる。見渡すとおばさんは荷物を置いてすでにいなくなっていて、私は祖父が座っていた位置に座って縁側の方を向き、また海を眺めた。


「あよあよ、お茶の一つも入れてやらんね!とおかとこからきとったい、喉のかわいとっと!」

 祖母の声が聞こえ、振り向くとおばさんにお茶をいれるよう指示している。

「あ、自分でするよ!っていうかばあちゃん、ひさしぶり」

 祖母は私の顔を見ず、洗面所のほうへ行ってしまう。

「おばさん、ごめんね、自分でするから」

「よかよか。今うんまかお茶ばいれるけん、お客さんは座っとけぇな」

おばさんはやはりぷっくりとした顔に満面の笑みを浮かべたまま、台所へ消えてしまった。

手持ち無沙汰の私は、とりあえず荷物を居間の端のほうに移動し、意味なくあけて中身を確認した。

 

 夕方になるとおじさんと、見覚えのあるような無いようなじいさんばあさん、それから私の何にあたるのかわからない夫婦とその子供が来て、刺身や煮物やてんぷらや寿司などが用意され、宇宙人のごとく矢継ぎ早に皆が方言丸出しで話し始めた。


 私のために集まってくれているのだと言う事はわかっているから、なるべく意味のわからない会話に耳を傾け、「ねぇ」とか「なぁ」とか「じゃろもん」、「じゃっとー?」と言われた時だけは、はぁ……とイエスでもノーでもいけるような返事をしていたが、それにも飽きて、いったいどういう続柄なのかわからない3歳の、みのりちゃんという女の子の相手をする事にした。


 祖父の葬式の時もそうだったが、ここの人達はもしかして喧嘩か?と思うような勢いで話していたと思ったら急にみんなが笑い出す、といった理解不能な会話を繰り広げる。ついていけなくて頭がぼんやりとする。

 おばさんが食器を片付け始めたので私も立ち上がり、何か手伝うと申し出たが断られた。みのりちゃんは眠くなったようでお母さんに甘えてぐったりとしてしまった。


 不思議に思うのだが祖母は、私がここに到着してから一度も目をまともに見てくれない。

 迷惑だったかな、と思い少し寂しくなった。

 祖父の葬式以来五年、法事にも出席せず正月以外電話もしてこない孫が、昨日の今日で突然来たのだ。そりゃ迷惑だろう。

 この人達も別に今日に限らずよくこうしてここへ来て、こんなふうにおしゃべりしに来ているのだろう。

 自分はよそ者なんだと拗ねた気分でぼんやりと皆の顔を見ていたらいっせいにこちらを向いたので驚いた。

「もうねむかろ。長旅だったけん、疲れとったいね」


 いいえ、と言う間もなく皆いそいそと帰り支度を始めた。

 じいさんばあさんはみのりちゃんのパパとママと一緒にワゴンで帰るという。一家を見送る事になり車を止めてあるところまで一緒に向かう。

 見上げると恐いくらいに空にたくさんの星が見えて、「おおぉ」と声を漏らしてしまった。

「都会ではこんなに星が見えないもんねぇ」みのりちゃんのママが私に言った。笑いかけるとママ、パパ、じいさん、ばあさんの順で私に握手を求めた。

 何の儀式だ?そう思いながら最後にママに抱かれてすっかり眠ってしまったみのりちゃんの、ぶらんと下ろした手を握って「またね」と言った。

「元気でね。またいつでもおいでよ」パパが標準語で言ったので驚いた。会話に混じっていた時はなまっていたのに。


 片付けが終わり帰るおじさんとおばさんを見送ろうと外へ出ると、おじさんに帰りはいつだ、と聞かれたのであさっての午後の便で帰ると言った。

 今気付いたがさっきも、おばさんたちが帰ろうとしている今も、祖母はいなかった。家に残っているのだろう。さすがに夜はスピードを落とすようで、ゆっくりと下っていくおばさんたちの車を一人で見送って、空を見たらやっぱりあまりの星の数に足がすくみ、慌てて家の中に戻った。

祖母はテレビをつけNHKを見ている。


「みんな帰っちゃったね」

 祖母の背中に言うと返事がない。やっぱり迷惑だったのかと思い、続けた。

「ごめんね、ばあちゃん。突然来て」

「風呂ばもう少しで沸くけん、はいれな」

 うん……いや、入るけど。

 ばあちゃん、あのね、私彼氏に振られたんだよ。

 頭によぎるが言わなかった。突然来ておいてそんな暗い話題だされたら嫌だろうし。

「かあさんがよろしくって言ってたよ」

 代わりにそういうと、やはり返事がなかった。あきらめて横になろうとすると祖母が突然振り返ったので慌てて体を起こす。

「なんがよろしくやっか!あんこは毎晩のごた電話ばしてこらすと!あがんとしなってまだあの男がよかーわるかーちいいよってせからしか……なんかことあるごとかえるーかえるーいわす……」


 多分、母が毎晩のように電話してきて、あの男が良い、悪いと言ってははしゃいだり落ち込んだり忙しく、何かあるとすぐ店をたたんで田舎に帰ると言い出す芯のないだらしないやつだ。と言ったのだろう。あっけにとられて体を起こしそびれ中途半端な姿勢のまま聞いていると突然話が終わり、祖母はまたテレビの方を向いた。

 ははは……と笑ったところで祖母はもうこちらを向いていないので、今度は遠慮なく横たわり祖母のお尻のあたりを眺めた。


 母は小さなスナックを経営しており、私の父と離婚してからずっと独り身で、彼氏がいたりいなかったりするのだが私にはそんな愚痴一切こぼさないくせに、祖母には話しているんだなと思うと母の意外な一面を見たようでおかしくなった。

 母の店は私の家から電車で二駅のところにあり、その近くに母も一人で住んでいる。私が彼とうまく行かなかったのはやはり、男にだらしない母の遺伝だろうか。幼かったから覚えていない父にも捨てられたのだと言っていたし。私は振られやすいタイプなんだろうか。

 ばあちゃん、私ね、彼に……

「そんなとこで眠ってしまったら風邪ばひくけん。風呂入ってこんね」

 背中に目でもあるのか、祖母は瞼を閉じようとしていた私に振り返らずに言った。

 ゆっくりと体を起こし、奥にある電球が一本ぶら下がっているだけの、何の仕切りもない薄暗い風呂場に行く。

 見たことのない形の虫が洗い場にぺたりと張り付いていて、祖母を呼ぶべきか迷うが、桶で汲んだお湯を流して退治した。お湯は沸騰したてくらいの熱湯で、錆びた蛇口をひねり水を足す。

 熱くて入れないよ、ばあちゃん。



 次の日、目が覚めると祖母はいなかった。

 まだ六月だというのにセミのような鳴き声が聞こえる。

 ぼんやりしていると大きなアブが現れたので飛び起き、小さくきゃーと言って逃げ回っていたら、ばぁか、と言っているかのように私の横をぶうん、と横切り表へ出て行った。思いのほか田舎はデンジャラスだ。


 心臓のドキドキが止まらないまま、布団を畳んで服に着替え顔を洗う。洗面所に昨日風呂場で見たのと同じ虫がいて、昨日の復讐かと一瞬ひるんだ。昨日の虫は確かに排水溝に流れていったし、熱湯をかけたから成仏しているに違いないが、田舎の虫の生命力はあなどれない。歯を磨いて逃げるように居間に戻ると祖母がいた。

「コーヒーば飲むと?」

 祖母は少し気取った様子で言い、戸棚の中から何かをごそごそと出している。

「うん。ばあちゃん、この食パン食べていい?」

「そこのレンジで焼けばよか。バターは冷凍庫にあるけん」

「レンジ……」見回すと、食器棚の横に懐かしい、食パンを縦に入れるタイプのトースターがあった。おそるおそる中を覗いて虫がいないのを確認してからパンを差し込んでレバーを下ろした。 

 ばあちゃん、これはトースターだよ。

まぁ、ばあちゃんがレンジというのだからこれはレンジでいいか。冷蔵庫を覗くとバターが見当たらない。もう一度聞くのも悪いのでビンごと冷やしてあったはちみつを取り出し、蓋を開けようとするが固まって開きそうになかった。

「バターは冷凍庫にあるっちゅう」

 ばあちゃんがまたこちらを見ずに言う。何でも見えているのだな。

 冷凍庫を開けると言ったとおり入っていた。バターの容器にさしてあるスプーンが一緒にキンキンに冷えている。

  ばあちゃん、バターは冷蔵でいいと思うよ。

 パンが焦げぎみに焼け、カチカチに凍ったバターをやっとのことでこびりつけ、皿に載せてテーブルに置く。

 祖母が入れてくれたコーヒーをすする。

「わぁっ!なにこれ?」

「これば本土のミツコさんにもらったもんたい。高級なコーヒーじゃっちゅう」


自慢げに話す祖母の傍らに置かれたコーヒーの袋を見ると、インスタントではなくコーヒーメーカーで落とすタイプの轢かれた豆の粉だった。

「ばあちゃん、これ、どうやって入れたの?」

 言うとばあちゃんはきょとんとした。

 はじめてちゃんと目が合った気がする。シワシワに垂れた瞼が覆いかぶさっている瞳は海の底みたいに深い藍色で、驚くほどに澄んでいる。

「スプーンでいっぱいずつ……お湯ば注いで」

「いっつもこうして飲んでるの?」

「しばらくすっと粉の沈んでいくけん。茶葉と同じばい。沈んでから飲めばなんのこたなか。最後にすこぅし口にはいるけんが……」

「……あははは!」

 すっかり自信を無くした様子の祖母が、言い訳じみた感じで話すのを見ていたら笑いがこみ上げて抑えられなかった。失礼だとは思ったが我慢できなかった。祖母は何の事だかわからずに、コーヒーの粉が一面に浮いているカップと、私とを交互に見ている。

「ばぁちゃん、これ、間違ってる! 間違ってるよ、淹れ方!」

 ついでに言うと、あれはレンジじゃないし、バターは冷蔵庫で冷やす物だし、なんかわかんないけど色々間違ってる!

 おかしくて笑い転げる私をつまらなそうに祖母が見ていて、私は立ち上がりフィルターの代わりになるような紙と、茶漉しを使ってコーヒーを入れなおしてあげた。ぽとぽとと落ちていくコーヒーの雫を見て祖母は歓声をあげる。すごかねぇ、すごかねぇ、さすが都会の子ったいねぇ、と繰り返し言い、正しい方法で淹れたコーヒーをすすり目を輝かせた。

「うまかぁー、こがんうまかもんとはおもわんだー。こがんうまかコーヒーは飲んだことなかー。こりゃうまかばーい」

 うっとりしながら私の淹れたコーヒーを嬉しそうに飲んでくれた。

 私はオレンジジュースが好きだし、コーヒーは滅多に飲まないがこのコーヒーは祖母の言うように、今までに飲んだどのコーヒーよりもおいしかった。


 そのあと山の奥のお地蔵さん参りに付き合うことになり、長袖とジーパンで祖母の大きな麦藁帽子を借り、祖母に笑われながらも港で購入した虫除けスプレーをむせながら乱射し、タオルで顔周りを隠して祖父の長靴を履いた。

 道なき道を突き進む祖母の背中を追いかけ、時折耳元に近づく羽音にびくびくしながら汗をかいた。

 まずはじめに小さな地蔵に出会った。

 これはイボの神様と言って小さな出来物から体内に出来る腫瘍まで、イボの類は全て追い払ってくれるらしい。

 祖母が毎日私と母にイボができないように拝んでくれているという。

 そういえばおかげさまで肌だけは自慢できるほど吹き出物には無縁だ。

 その奥へ進むと今度はブロック塀でできた小さな囲いの中に何体か祭ってあった。それぞれの地蔵の前に誰かが供えたお菓子や花が置いてある。祖母はロウソクに火をつけ、一つ一つの地蔵に丁寧に頭を下げる。私も祖母を真似して手を合わせた。

「ばあちゃん、あれは何のお地蔵さん?」

 次の場所に向かうためにバケツを持ち歩む祖母は振り返らずに言う。

「ご先祖さんたい。私らのご先祖さん」

 先祖は墓にいるのではないか?ふと疑問に思うが、祖母が先祖というのなら先祖なんだろう。

 ますます道らしき道はなくなってきて、木々が薄暗くなるほど陽の光を遮っている。

「ばあちゃん、まだぁ?」

 祖母は答えず突き進む。突然鳥居が目に入り、鳥居の先に山の斜面を登る階段があった。ばあちゃんは鳥居の前で靴を脱ぐ。

「え?ばあちゃん……」

「靴ばぬぎなっせ」

「なんで?」

「ここからは山のかみさんのおうちっばい。土足で入ったら失礼じゃもね」

 祖母は裸足で鳥居を抜け、一礼し階段を登り始めた。

 私は迷い、祖母の背中を見ていた。祖母が振り返り何か言った。

 よく聞き取れなかったが、靴を脱ぐ気がないならそこで待っておけ、ということだと思う。私は山の中で一人取り残される方が嫌なので、しぶしぶ長靴を脱ぎ、やけくそで靴下も脱ぎ、長靴の中に入れた。

 足の裏にゴツゴツした石の感触と、土や雑草や目に見えない虫の存在を感じて、爪先立ちで急いで階段を登る。十段ほど登るとまた、ブロック塀で囲まれた場所にお地蔵さんが何体かいた。でもさっきとは違って一番奥の真ん中の地蔵にやたら貫禄があって、一番エライ地蔵だとなんとなくわかった。振り向くと木々の間から海が見える。この地蔵は海をいつも見ているんだ。そう思った。


 祖母は一言も発さず、ただ黙々と地蔵の周りの台を掃除し、くもの巣を素手でちぎり、地蔵の顔を撫で回すように拭き、水をくべ花を手向ける。ロウソクに火をつけ、拝む。私も一緒に拝んだ。どこの地蔵よりも長い時間拝んでいた。顔を上げるとロウソクの火はもう消してあり、祖母はすでに階段を降り始めている。後を追い、裸足だったことに気付き、また爪先立ちで歩いた。

家の裏の畑でネギを摘み、母屋へ帰ると祖母は昼食の準備を始める。

「らーめんでよかね?」

 昨日はあんなに豪勢な食事だった。ラーメンぐらいが丁度良い。

「このネギ入れるの?」

 祖母は返事をせず、すでに湯を沸かす準備をしている。私は黙って足を洗いに風呂場へ向かった。

 チャルメラのインスタントの麺にただ刻んだネギを入れただけのラーメンが出来る。

「いただきます」

 一口食べただけでネギの風味が強いのに驚いた。

「このネギ、すごい新鮮」

「じゃっとー!今ついさっきまで生きとったネギたい。新鮮どころじゃなか」

 確かに。

いま摘み取ってきたばかりのネギは、中からゼリーのような物があふれ出していて、湯がいても張りがあって歯ごたえがある。

近所のスーパーで売ってるネギは死後数日経っているが、このネギは生きていると言った方がふさわしいくらいに生命力にあふれている。こんなにおいしいチャルメラは始めて食べた。私はいつも残すスープを一適も残さず飲み干した。

 その後NHKをBGMにして寝転んでうとうとしていると、祖母はまたいなくなり、夕方近くなるまで眠ってしまった。

 晩御飯は昨日貰った赤飯と残りのてんぷらだった。

 昨日とは違ってずいぶん品疎な、静かな夜になった。

 何か話そうと考えたが、彼のことなどすっかり忘れていた事に気がついて、それ以外に特に話題が無い事にも気がついて、黙っていた。祖母も黙ってテレビを見ている。祖父がなくなってから、こうしていつも一人でNHKを観ているのか。


「ばあちゃん、寂しくない?」

 そうなる予感はしていたが、思ったとおり返事がないので構わず続ける。

「じいちゃん死んでさぁ、ここにずっと一人で……」

「寂しくなか」

 祖母は振り返り言った。

「ここにはじいちゃんのご先祖さんがおるけん。地蔵さんの世話も畑の世話もせんば。わたしが山降りたらだぁれも世話できんけん。わたしが死ぬまでは、この家ば守らないかんけん」

「そか……」

「ビールば飲むと?」

 言われて、私は首を横に振る。母がスナックのママで、小さい頃から酔っ払いばかり見てきたから酒は飲まない。飲めないのではなく、飲まないのだ。

 ばあちゃんは残念そうな顔をする。

「ばあちゃん飲んだら?私お茶でいいから」

「あんたが寝よったら飲むけんよか」

「なんで?今飲めばいいじゃん」

「あんたの寝顔ばつまみにして飲むけん」

「ええー!やだぁ。なんか恐いよ」

「昨日もあんたの寝顔ばつまみにしよった」

 祖母は笑う。昨日は疲れていて布団を敷いてもらってすぐに眠ってしまった。祖母はそのあと一人飲んでいたのか。

「風呂ば入れな」

 そうだ、まだあと一仕事あった。また熱湯攻撃か。復讐の虫はいるのか。私はすぐに立ち上がり、素直に風呂に入ることにする。

 テレビを見ている祖母に、「明日帰るから」と言うと、やはり返事はなかった。

 

 祖母が私の寝顔をつまみにしたかどうかは定かでは無いが、祖母が風呂に入っている音を聞きながらそのまま寝てしまった私は朝まで一度も起きなかった。あんなに昼寝をしたのに、ここに来てからの眠りはやたらと深く、何の夢も見ず目覚めがとても良い。

 そしてやはり起きると祖母の姿は無く、食パンを焼き、コーヒーを茶漉しで二人分入れた。

 丁度食べ始めようとしていると、農作業中丸出しの祖母が現れた。

「ばあちゃん、コーヒー飲まない?」

 祖母は返事せず、ドロだらけの自分の手を見つめ台所へ向かった。

 ばしゃばしゃと激しい音がするので覗くと、手だけでなく顔を勢い良く洗っている祖母が見えた。

 祖母が居間に座り、黙って私の淹れたコーヒーを飲む。

「うまか」

 昨日とは違い、落ち着いた様子で、でも心のこもった言い方で祖母は言った。時間が静かに流れ、頭の中が真っ白になる。


 私の心はズタボロだったはずなのに、悟りを開いたかのように広く落ち着いた気分だ。聞こえてくる鳥のさえずりが心地よい。

「十時に迎えにくるけん。準備ばしとけぇな」

 コーヒーを飲み終わった祖母が言い、立ち上がりまた麦藁帽子を被る。

逆光の中に見る祖母の後姿は背中が少し曲がっており、七十を過ぎた老体で毎日毎日畑仕事をし、地蔵を参って、一人静かに夜を迎える毎日を思い、切なくなった。

 祖母の言ったとおり、十時ちょうどにおじさんが来た。

 私は祖母にお別れを言うべく、おじさんに待っていてもらい祖母を探す。

裏の畑にはおらず、台所、はばかり、風呂場を覗いてもいない。山へ行ってしまったのかと諦めかけ、居間へ戻ると祖母がいた。

「ばあちゃん……」

 祖母は祖父の座布団にちょこんと正座していた。私も隣に座り、かける言葉を探していると、祖母は使い古された紙袋に入った物を私に渡してきた。

「あんだけん」

 私は黙って袋を開け、中を覗いた。

「あんたのためにあんだけん、持ってかえれな」

 中には白い糸で編まれたカーディガンが入っている。

 手にとって袋から出す。

 細く、真っ白な糸で編まれたそれは、小さな花の模様がちりばめられていて、縁にひらひらとドレープがついている。ダサいと、ここへ来る前の私なら絶対に思ったはずのカーディガンだった。けれど今の私は、こんなに素敵なカーディガンを見たことがないと心から思っていた。

 Tシャツを着ている私はその上から羽織る。肩幅の広い私は、既製品を着ると大概肩がはみ出すのだが、白いカーディガンの肩幅はぴったりで、包み込まれるような安心感があった。

「ばあちゃんが……編んだの?」

「じゃっと」

 祖母はこちらを見ない。

「いつから?」

 返事は無い。

「これ、ほんとにばあちゃんが?」

「じゃっと」

「どれくらいかかったの?」

 返事は無い。

 祖母は立ち上がり、傍らにおいてあった麦藁帽子を被り、土間へ向かう。

「ばあちゃん!」

 私は咄嗟に大声で呼んだ。

「ありがとう。嬉しい……すっごく嬉しい」

 祖母は振り返らず、うんうん、と頷いて出て行った。

 表で待つおじさんのところに、白いカーディガンを羽織ったまま向かう。おじさんの顔を見たとたん涙がぼろぼろと零れ落ちた。


 振り返って母屋を見ても、祖母の姿は無い。

「ばあさんは寂しかけん、見送りはせんとよ」

 おじさんが言う。

 さよならを言っていない。ばあちゃんにまたね、と言っていないのに。

「あんたのくることば楽しみで仕方なかったけん、寂しかろもん。正子おばさん達呼ぶちゅうて大騒ぎじゃったと」

 正子おばさん……あぁ、思い出した。あのじいさんばあさんのことだ。

 あのばあさんは祖母の妹で、ということはパパママはその息子か娘で、その子供がみのりちゃん。

 適当に相槌を打ち、私には関係ないと拗ねていた自分を思い出し、後悔した。わざわざ集まってくれた大切な人達にちゃんと向き合わなかった自分が腹立たしくさえ思えた。

「またくればよか」

 おじさんは言い、私の荷物を持ち、車に載せた。

 おじさんが車に乗り込んでドアを閉める。バタンと音がしてエンジンがかかる。

 すぐそこにいる祖母に、さっき別れたばかりの祖母に、会いたくて仕方なかった。

 家の中に駆け込み、ばあちゃんの顔を見たい。

 でもダメだ。

 私は今泣いている。寂しくて寂しくてたまらなくて泣いている。

 こんな顔を見せたらばあちゃんが悲しむ。

 私は大きく息を吸い、腹に力を込めて叫ぶ。

「ばあちゃーん!またくるからー!またくるからねー!」

 ばあちゃんにはきっと届いている。聞こえない振りしても全部聞いていたし、背中を向けていても全部見えていたばあちゃんに、この声はきっと届いただろう。

 私は涙で濡れた顔を手で拭き、背中で見ているであろうばあちゃんに大きく大きく手を振った。


 港に着くまでおじさんは泣き続ける私を時々心配そうに覗きこむが何も話しかけてはこなかった。

 フェリー乗り場につくと、目をボンボンに腫らした私は荷物を受け取り、おじさんに頭を下げた。

「いろいろありがとうございました」

「なんばいいよっと。あんたの帰ってくることばおじさんもおばさんもみぃんな嬉かけん。礼のいう必要ばなか」

 おじさんはポチ袋を渡してきた。

 私は受け取らずおじさんを見る。

「もうすぐ誕生日じゃっと。離れとるけんなんもできん。ちょっとしか入っとらんごた申し訳なかけんが。お祝いばい」

 ああ、そうだった。私はもうすぐ三十歳になる。

 私はおじさん達に何の土産も持ってこなかった。

 思いつきもしなかった。

「ありがとう。おじさん」

 また泣きそうになった私を見て、おじさんは頷いてあっけなく去った。

 さよならの言葉は何も無かった。

 立ちすくんでいるとおじさんはもうすでに車に乗り込んでいて、車内で手を振り笑っていた。

 私も手を少し振ったがやめて、深々とお辞儀をした。

 

 次のフェリーは四十分後だった。

 本土側のフェリーターミナルとは違い、うどんしかメニューにない食堂と、遠足用みたいなお菓子が売ってる売店しかないので、扇風機が一番良く当たる場所の椅子に私は腰掛ける。

 昨日の今日で突然来たのだから、来るとわかってから編んだとは思えない。

 いつ来るかわからない、もしかしたら死ぬまで来ないかもしれない私のために編んだカーディガン。

 その網目の一つ一つを指でなぞる。

 土の色で染まった、ボロボロの爪。骨太で指の短いシワシワの手。

 あの手で一針一針編んだのだ。

 祖母のことを思い出しもしなかった私のために。

 私はここへ来た時、遠くへ来たと思った。

 でも違う。私はずいぶんと遠くへ行ってしまっていた。

 私の根っことなる人が、私の事を想ってくれている間、私は自分の幸せばかり求めていた。与えられる事ばかり求め、与える事など考えもしなかったのだ。

 振られてよかった。

 心からそう思う。彼に感謝しなくては。

 彼に振られていなければ、私はこのまま祖母の葬式を迎えるまで、祖母を思い出す事もなかったかもしれない。大切な人を思い出せずに過ごしてしまったかもしれない。

 私という人間に命を繋いでくれた人達を愛さずに、他人に愛される訳が無い。

 私はフェリーを待つ間、計画を立てる。

 今度いつ来よう。

 正月か、いや、再来月の夏休みか。

 簡単に淹れられるコーヒーメーカーと、焼き具合を調節出来るトースター、それからおいしいビールを買っていこう。


 それで、一緒にビールを飲もう。

 ばあちゃんが眠るまで待って、ばあちゃんの寝顔をつまみにして飲もう。

 

 




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