1-2
「取れ」
女の声。聞き覚えがある。
頭巾が取られた。
エリオットの視界が開ける。
「あんたか――」
アンナがいた。
女性のわりには低い声。肩まで伸びている黒い髪と長い手足。右目の下に小さなホクロがある。格好は白いシャツにズボン、革靴を履き、ナイフを腰から下げている。
どこだろうか。古い聖堂のような空間。頻繁に使われていないのは天井の隅に蜘蛛の巣が張っている。資材とも呼べないような朽ち果てた木材が壁際に積まれ、室内全体に酸っぱい匂いが充満している。橙色の炎が部屋にある唯一の灯りだが、五本も六本もあるので、明るさは確保されていた。
「そうだ」とアンナが言った。
アンナ・アリアス・ノラノ。
この女は高利貸しの化物だ。イケイケで常に暴走。暴力と欲望の女神。他人をこき使うクソ野郎で、身体に賢者の石を宿した人造人間。見た目と違い、エリオットの推測だと百年近くは生きている。
その隣にはルーベンがいた。ボロボロの椅子に腰掛けている。
ルーベン・ルンメニゲ。ミッドガルドの国教であるラナ教の最大派閥、長老派の司祭。マリアノフの市参事会員で、去年、エリオットとアンナに手を貸し阿片利権を手に入れた腐れ古狸。皺だらけの白い肌に白く長い髪は薄く、目は青い。こけた頬と乾いた唇、顎には親指ほどの腫れ物があった。
悪い奴らが二人いる。最悪だ。
足音。
後ろに気配を感じる。
男が近づいてきていた。どこかで見た顔。手にはナイフ。
「なんだ」とエリオット。「やめろ」
「仲間だ」
男はエリオットの手足を縛っていた縄を切った。
「礼は?」と男は言った。
「くたばれ」
エリオットは続ける。「お前が俺を殴ったんだな」
「あぁ。そういう指示だった。ロドマンだ。覚えてるか?」
「知るか」
「覚えていてくれてありがとう」
この男も去年の阿片事件で関わった。長老派の副司祭のロドマンだ。アンナに借金をしている。
「用事は?」とエリオットは言った。
「話がある」
アンナは言った。
「だったらもっとやり方があるだろう」
「お前は私を無視してるじゃないか」
「あんたと関わると碌なことがない」
確かにアンナの誘いは全て断っていた。とにかく関わらないように生きていた。
「仕事はどうだ?」とアンナ。
「別に。普通だよ」
エリオットはマリアノフで商人をしている。元々は才能のある死刑執行人だったが、そっちは辞めて鞍替えした。だがうまくはいってない。「それが誘拐してまで聞きたかったことか?」
「違う。ルーベン、話せ」とアンナ。
「誘拐する以外、君と話をする方法はない、とアンナさんが言うのでね」
ルーベンが言った。
「それ以外にも方法はありましたよ、ルーベンさん」とエリオット。「例えば街で声を掛けるとか、飲み屋で声を掛けるとか、買い物の途中に偶然を装って声を掛けるとか、とにかく色々ね」
「無視したろ」とまたアンナが言った。
「こうなるから無視してたんだよ。それで話って?」
嫌な予感しかしない。「ここには俺以外に善良な市民はいないから、悪事を働くつもりなんだろ?」
「そうだ。悪巧みだ」とアンナ。
「アンナさん、わしは悪巧みなんてしとらんよ」
ルーベンは言った。「ただ頼みごとがありましてな。協力して欲しい」
「嫌ですよ。疲れる」
エリオットは言った。「絶対にすごく疲れる」
「けど君たちは私に借りがある」
「帳消しになったでしょう」
去年、阿片事件に巻き込まれたとき、確かにルーベンの手を借りた。「あなたは街の阿片利権を手に入れた。それでチャラのはずです」
「それは別だ。私が手に入れたわけじゃない。街で管理している。私個人はまだ何も返して貰っていない」
「アンナ、あんたはどう思う?」
「詭弁だ。この爺はいよいよボケた。そう思ってる」
「おい、言葉には気をつけろよ」とロドマン。「ルーベン司祭は何も言わないが、それは優しいからじゃないぞ」
「ボケてるからだろ」
アンナが言った。
隣に突っ立ってるのによくそんな暴言が吐ける。呆れた女だ。
「で、つまりあんたも協力しないってことだろ?」
エリオットはアンナに言った。
「エリオット君、私は優しいわけではないんだよ」
ルーベンが言った。
「わかったろ? 脅迫だよ、この爺がしていることは」とアンナが言った。
「断ったら、どうなる?」
エリオットが言った。
「断ればわかる」
ルーベンが微笑んだ。
「指名手配、都市追放、教会破門。どれでも好きなものを選べるらしい」とアンナ。
「物騒な響きだな」
エリオットは苦笑いするしかない。断ることが出来なくなった。相手は市参事会員で、この国ミッドガルドの最大宗教派閥の長。アンナが暴力の化物なら、ルーベンは権力の化物だ。
「本題に進んでいいかな?」とルーベン。
「けどその前に、はっきりしたいんですが、これを終えれば本当に全て帳消しですよね? 貸し借りはなし」
「そのとおり」
ルーベンは言った。
「報酬は?」とアンナ。
余計なことを。
「ない。満足か?」
「話を続けろ、クソが」
アンナが言った。
「ここは古い聖堂でローゼンベルク修道院の地下にある」とルーベン。「この更に下にはオベリスク文明の地下遺跡が広がっており、かつては長老派のロードス騎士団が強力な魔導具を求めて、何度も潜った場所でもある」
「さっさと言え、クソボケじじい」
アンナの言うとおりだとエリオットも感じた。老人の話は総じて長く退屈だ。
「昨夜、一つの秘宝が盗まれた。君たちにはそれを取り返して欲しい」
「秘宝とは?」とエリオット。
「惑星の書、という魔導具だ。非常に強力な魔力と効果を持つ書物で、盗まれたのは下巻なのだが、それを未使用のまま戻して欲しい」
「効果は?」とアンナ。
「時間を飛べる。未来へ向かって」
「明日とか明後日に行けるってことか?」
「そのとおり」
「上巻は?」とアンナがさらに質問する。
「ない。少なくともここにはない。遠い昔にサウスタークにあることはわかっているが、所在不明だ」
「上巻の効果は?」
「時間を遡れる」
「上巻は昨日に行けるってわけか」
「便利そうだな」
エリオットが言った。「変えたい過去もある。それを変えたら、下巻で現在に戻ってくればいい。その惑星の書ってのは二つで一つってわけだ」
「私たちはそれを取り戻せばいいのか?」とアンナが言う。
「そうだ。犯人はわかっている。トマス・ピシューゲルという男だ」
「盗賊か?」
アンナが言った。
ルーベンはロドマンに目配せする。それを受けて、「長老派の幹部候補だ」とロドマンが答えた。
「身内なのか」とエリオット。
よくある話だ。
「犯人はそいつで間違いないんだな?」
アンナが言った。
「そうだ」とロドマン。「トマスは良い奴だから手紙を残した」
「犯行声明か」
エリオットが言った。
「ここにある。読めよ、そんなんじゃない」
ロドマンから手紙を受取る。
ラナ様、私の過ちをお許し下さい。
私、トマス・ピシューゲルは、これから盗みを働きます。
惑星の書を持ち出すのです。
これが生涯で初めての罪ではありません。
私は既に罪人なのです。
この数ヶ月、私は戒律を破り、清貧なラナ教徒としての務めを果たせずにいました。
その報いを受けているのです。
願わくば、これが最後の罪になることを祈ります。
どうか私に、祈りをお許し下さい。
「意味がわからん」
エリオットはアンナに渡す。「祈りまくりの手紙だ」
アンナも読む。
「退屈だな」
「だがわかったろ? トマスって奴は、悪い奴じゃない。奴は信心深い使徒だった。誰よりも真面目にラナ様へ祈りを捧げ、日々を大事に生きていた」
ロドマンが言った。「こんなもん残すくらいだ。小心者だよ」
確かに文面からはそんな人柄が伝わってくる感じがしなくもない。
「まずはトマスを探せ」とロドマン。「奴の部屋はそのままにしてある。外には馬を用意した。いつでも準備は出来てる」
「トマスの生死は?」
アンナが言った。
「ラナ様の下へ送ってはくれればいい」
ルーベンは言った。
「わかった。しっかり殺す」とアンナ。
「それを言うなよ」
エリオットは溜め息を吐く。
アンナの暴走は変わっていない。
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