洗髪処easeの施術カルテ。

finfen

Karte 038:美空 雫

第1話 「取り去る」という名の洗髪処。





      苦しみに会ったことは、

      私にとってしあわせでした。

      私はそれであなたのおきてを学びました。

                   ───詩篇119:71 








「マスター? マスター?! もぅ…どこに行っちゃったの…?」



とある街の

とある街角にひっそりと佇む小さな店。


名前は「洗髪処 easeせんぱつどころイーズ



そのまわりを先ほどからバタバタと、その美貌に不釣り合いのシワを寄せ、不安げに走り回っている絶世の美女。


黒く濡れたように真っ直ぐの美しい超ロングを腰まで伸ばし、薄いパステルパープルの施術服から覗く、華奢な真っ白の手足はすらりと長く、まるで、お伽話の姫様のような気品すら漂っている。


切れ長の目に、強く意思を灯した瞳の色はアメジスト紅紫

高い鼻立ちとふくよかな唇と相まって、いっそう神秘的な美しさを際立たせている。


華奢な見た目からは想像も出来ないほどの豊かな胸丘を、上下左右にゆっさゆっさ揺らして、店の至るところを今にも泣きそうな顔で駆け回る彼女に、ふと、上のほうから声がかかった。


芽愛メア? どうしたんです?そんなに慌てて。」


彼女はハッと気づき、声のほうを見上げると、屋根からひょいっと顔を出してにこにこと笑顔の美青年が。


白髪。いや。銀髪に近い。

日の光にキラキラと透ける銀髪はサラサラで、その前髪が右の目を隠すほど長い。

驚くほど整った顔立ちではあるが、風にめくられた前髪の下の目は、開いているのかどうか分からないくらいに細くて、いつも笑みをたたえている。


「─────!」


彼女は不意に現れた青年の美しさに、少し言葉を失っていたが

思い出したように口を開いた。


「マスター!! 何やってるんですかそんなところで?! もぅ…捜してたんですよ?!」


マスターと呼ばれた青年は、目の在処の分からないほどの満面の笑顔を浮かべたまま、泣きそうな彼女に 言った。


「そんなに眉間にシワを寄せていたら、せっかくの君の美しさが雲ってしまいます。どうかいつものように笑っていて下さい。お願いします。」


とたん

彼女の顔から火が噴き出した。


「なっ…! まっ…マスター?何を悠長なことをおっしゃってるんですか?! 14時からご予約の柴木様がもうお見えになりますよ?! 早く……あぁぁ。もうとっくに14時です! どうしましょう?!あぁぁぁぁ…。」


顔を真っ赤にして、頭を抱えて大袈裟にうずくまる美女。


まぁでも

天然気味に先ほどマスターが投げた、破壊力抜群なデッドボールの威力のほうが、彼女にとってはずっと影響しているのだろうけれど。


「…? …あぁ。柴木様からは午前中連絡を戴いていたんですよ? 16時からにして欲しいって。 カルテの本日の申し送り欄に書いておいたはずですが…。」


紅い顔が一気に青ざめる美人。

両の瞳には涙すら浮かんでいる。


「──?!  すみませんマスターっ! 私…またカルテ見るのを忘れていました…。」


うなだれて、もはやぐすぐすと本泣きモードへと移行した彼女。

マスターは優しく笑って、屋根から彼女に手招きをした。


「問題ないです。もういいですから、メアも僕の隣に座って下さい。風がとっても気持ちいいです。」


彼女がまた見上げると、マスターは自分の隣をぽんぽんと叩いて、にこにこと微笑んでいた。


彼女は、ぱぁっと嬉しそうに立ち上がると、辺りをきょろきょろと見渡した。


「…どこから登ればいいのですか?」


見渡しても梯子らしきものは無い。

あいかわらず、マスターは微笑んでいるままに


「いやですねぇ。メアならこのくらいでしょう?」


その言葉に彼女は少し顔を曇らせて、申し訳なさそう


「……あの…私…スカートなので…その…。」


マスターはにこやかに


「大丈夫ですよ。今なら誰も見てないです。ほら。僕も目を閉じてますので。」


と、ぎゅっと目を閉じた。


その少年のような、あまりの無邪気さに羞恥心すら撃ち抜かれた彼女は、二つ返事で大地を蹴った。


「はい。マスター。」


助走も無しで、屋根を遥か越して高く舞い上がる彼女の背中には、黒く美しい翼が生えており、ふんわりと屋根に着地すると、彼の傍に行き、背中に生えた翼をしまって、ちょこんと正座した。


隣にすわったものの、落ち着かない様子。

紅い顔でうつむいて、もじもじと膝の上で指を弄んでいる彼女。


「ほら。いい風だ。ぽかぽかしてあったかいですね。」


そんなことを気づきもしていないであろうマスターは、さらさらと髪を風に委ね、晩秋の澄んだ青空に目を細めている。


彼女はそれを横目でちらちらと盗み見ては、さらにもじもじと頬を紅くしている。


突然

マスターが彼女に振り返った。


「メア? すみません。」

「ひゃい!?」


ちょうど彼を盗み見たところで、真正面で目が合ってしまった彼女が、声にもならない返事をしてしまった。とっさにうつむいて耳まで真っ赤っかになってる。


「……? どうしましたメア?」

「…いえっ! …なんでもありません……。それより…マスターのほうこそどうかされましたか…?」


もじもじが止まらず小声になってる彼女に、マスターは笑顔で言った。


「あぁ。メアに謝ったんですよ。すみませんでした。」


彼女はゆっくりと顔を上げ、不思議そうに彼を見た。


「…なぜですか? 謝罪しなければいけないのは私のほうだと思うのですが……。」


マスターは笑って彼女の頭に手を置いて、艶やかな黒髪をゆっくりと撫でた。


「メアはよくやってくれていますよ? 君を雇えて本当によかった。すごく助かっています。 僕もこの店も、君なしではとてもやっていけませんでしたから。 ありがとうございます。」


彼女は目に涙をいっぱいにして、彼を見上げてふるふると首を強く振った。


「何を!…何をおっしゃってるんですかマスター! 私が…! 私がどれほどあなたに救われたか!……あの件…で…。あの時…命を助けていただいただけでなく、こうして居場所も、生きる道も与えて下さいました。 …荒みきった私の心と身体を、やさしく癒して下さいました。 こんなに……あたたかい気持ちを与えて下さいました。…本当に…。本当にいくら感謝しても足りることはありません! この私の能力も、心も身体も、すべてマスターのために捧げています。あなたのお好きなようにお使い下さい。 ですから……マスターが私にことわる必要はありませんし、謝罪することも一切必要はないのです。お願いします。何があったとしても、私に謝らないで下さい。お願いします…。」


マスターは、もはや号泣している彼女の黒髪をやさしく梳きながら


「もう…。君は気負い過ぎるのが悪いところですよ? 人間というものは、もう少し自分に甘くてちょうどいいんです。君はやさしすぎるんですね。いい加減に自分を赦せない。

だから、僕は君を赦してあげます。

君が自分を赦せない分、僕は君を甘やかします。

自然のバランスというやつですよ。

二人でゆっくりと、いきましょう。」


号泣が嗚咽に変わり、彼の胸に崩れ かかって泣く彼女。


しばらくの間、彼は泣きじゃくる彼女を抱きしめてやっていたが、ふいに彼女に


「あぁ。メア?

さっきの“すみません”ですが、本当にすみません。」


彼女はすんすんと泣きながら、彼を訝しげに見上げ


「……謝らないでくださいって……どうしてですか…?」


彼はにっこりと笑って


「さっき、君が跳んだ時に、誰も見てないって言いましたが、どうやら見られちゃってたみたいです。」

「えっ?!………誰にですか…?」


心底驚いてる様子の彼女。

きょろきょろと辺りを見回す。


「ほら。あそこですよ。」


と、にこにこと彼が指差して、彼女がその指の方向を見た先の物陰に居た、

私と目が合った。


私はとっさに逃げ出した。


後ろからは、彼女がバサバサと飛んでくる羽音が聞こえたが、必死に逃げた。


二人とも凄く美しく、目が離せなかったが、間違いなく人外の者だ。

同じような者を何度となく見たことがあったから、分かる。

捕まれば殺される。


神社の長い階段に差し掛かった時、足がもつれて転がり落ちた。

遠くなる意識。

痛い。


あぁ。もう死んでもいいや。こんな人生なんて。

何度も死のうと思ったし。

死んだほうがマシだろう。


いや。生まれて来なければよかったんだ。

私は誰からも愛されなかった。


ねぇ。

私は、この世界に必要だったの?



そして今日


私のどろどろに腐った19年の人生が幕を閉じた。



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