第15話 桜の芽愛
「――いつか、生長した木を二人で見たいね」
『彼』の声が聞こえてくる。いかにも、アストレア国の紳士と誇れるだけの優しげな顔立ちに、しっかりとした意志を感じる瞳。金色の髪と、作業着のベストを着用している。細身だが、とても愛嬌のある、好青年だった。
よく晴れた日の丘を眺めながら、〝二人〟はきりかぶに腰を下ろして休憩していた。
「――ええ。そうですね」
くすりと笑う声が聞こえた。
聞き覚えのある声は、桜色の髪の女性のものだった。不思議と背格好や、顔立ちに変化はない。なのに、〝若い〟と感じてしまう、そんな雰囲気だった。女性はとても幸せそうな顔で「なにか大きな樹がないと、この辺りの丘はあまりにも寂しすぎるもの。案内した人が迷っちゃうわ」とイタズラっぽく話した。
二人は草原の丘を見上げていた。
そこには、小さな木が植わっていた。その木は東国でも貴重とされる花の木で、ある『魔道書』と一緒に遠国の高僧より賜たまわり、持ち帰ってきたのだ。彼は、迷わず、自分の屋敷の見える丘に植えた。
――すべて、二人の思い出の樹だから。
花吹雪く東国の街の、橋の下―――二人が、最初に出会ったのはそこだった。恋をした。一目惚れだった。
二人は互いを望んでいたが、それは普通の『関係』ではなかった。片方は遠い国の人間、そしてもう片方は――東国でも権威のある〝書〟、古くから伝わる魔道書という大物だったのだ。
高僧たちの会議にかけられ、権威ある山の上で、否定意見が渦巻いた。歴史と権威のある書を、南蛮人に手放すものか。と。――しかし、応援してくれた徳の高い僧侶たちの決定により、『幸せにいられる時間』を約束して、マリアテールこと『花神の書』は海を渡った。
それは、それは、幸せな時間だった。
何千年と生きていただけでは、実感できない至福があった。
――それは、〝愛〟であった。
しかし。約束は、水のように。深くどこかへ沈んでゆく。
光景は霧のように。少しずつ霞んでゆく。
いつしか男は病に倒れ、そして帰らぬ人となった。あの冬の色の深くなった夜、確かに『馬』は戻ってきた。
――主人の、亡骸を載せて。
彼は、最後の力を振り絞って。―――丘の上の桜の木の、その一枝を持ち帰ってきたのだ。妻である、マリアテールさんに捧ぐために。
…………最後の、言葉を伝えるために。
***
「……そう、でした……。思い出しました……。主人と、もし永遠に眠ることがあったのなら、一緒にあの『樹』の下にいようね――。って約束して。植えたのに。私は、あの人がいなくなった悲しみで、自分の記憶を封印してしまった……」
すすり泣く声が、聞こえてきた。
〝景色〟を見ていた〝僕〟は、やがて記憶の旅ともいえる……その不思議な白い光から解放された。
白昼夢から醒めたように、足の先、指の先にまで感覚が戻ってくる。気づけば現実の部屋に戻ってきていた。
目を向ける。テーブルの向かい側に座っているその人は、涙と同じ、薄い透明色になっていた。
「……ま、マリアテールさん!?」
「安心して。書が、本来の姿に還るだけよ」
隣で、オリゼが言った。
彼女の存在も思い出した。それほど、長い記憶の旅だったような気がする。でもオリゼはどうして冷静なのか。マリアテールさんが消えようと……〝人〟が一人消えようとしているのに、なぜそうも専門家の冷たい眼差しをしているのか。
「書が、人の姿になっていたの――。きっと、旦那さんともそれを承知で結ばれていたのよ。彼女が記憶を失って『待ち続ける』という行動を選んだのだから運命が歪んでいたけど、これが本来の書のあり方。然るべき宿命なのよ」
そんな。
だとしたら。マリアテールさんは本当に消えてしまうのか……?
オリゼは、それで平気なのか。なぜマリアテールさんのために焦り、戸惑い、慌てないのか。昨夜も楽しく話し込んだ人が消えるのに、オリゼは――なんとも思わないのか。
しかし。
僕の責める表情に、オリゼは「…………慣れたのよ」と。下の唇を噛みしめていた。悔しそうに瞳を歪めている。
「それでも、私は『書』の専門家なの。引き取り、解決して、人と書を本来の運命に導くためにいるのよ……。私がしっかりしないと、マリアテールを救えないんじゃない」
……救、う?
僕はぽっかりと空いた心に、その言葉が浮かんでいた。オリゼは、マリアテールさんを救おうと……しているのか……?
と。涙色になったその人は、僕たちに、
「……ありがとう。小さな専門家さんたち。少しだけ昔話をしてもいいかしら」
春の風のように、優しく微笑んでいた。
「――〝主人〟と二人で植えたのは。あの満開の花吹雪をつける東国の樹だったの。それはそれは、立派な樹で……主人ともう咲く、もう咲く、って歳月を重ねるうちに、ついに咲かないままあの人はなくなって……私は心残りを抱いたまま〝同じ翌年〟を繰り返していました」
……でも。
それでも、樹に花はつかなかったという。巨木になっても、ずっと同じ一年を繰り返しながら窓から見ても。樹は、花をつけなかった――と。
少女のように呟きながら、マリアテールさんは窓の外。丘の樹を見つめる。
(……そうか……)
僕は、ここにきてようやく思い出した。
あの見覚えのある樹は――〝桜〟だ。
父と東国を旅したとき、とても鮮やかな桃色の花びらをつけていたことを思い出した。ある一時期にだけ花を咲かせ、儚くすぐに散らせる妖しの樹木。
でも、彼女はついに咲く桜を見ることはできなかった。
消えた主人と〝一緒に見る〟という約束だけが残ったまま。
「…………花が咲かない、本当の理由。教えてあげましょうか」
と。不意に、ぽつりと。オリゼが口を開いた。
それは、マリアテールさんがずっと求め続けた『疑問』の答えだった。
「あなたたちの物語に、まだ終わりがきていないからよ。あの桜は、亡きご主人の手で植えられて、あなたの『書』の力で栄養を得て大きくなった。……でも、一冊の物語には必ず終わりがある。季節にも、花にも終わりがあるの。あなたがいつまでも迎えるべき終わりを迎えずに、永遠を生き続けているから――あなたの依り代でもある〝樹〟にも、花がつかないのよ」
「……。終わ、り」
「そう。散りゆく花びらは終わりでもあり、そして新しい季節への始まりでもあるの」
それは、物語の最後エピローグでもあった。
「――あなたが探し求め、一緒にいるべきだった『彼』は――。きっと、あの樹の下に眠っている」
オリゼは、窓の外を見た。
『花神』という物語の真実。それは、愛するべきとても大切な人のために、死者の灰が養分となり、美しい桜の花を咲かす物語。オリゼは、それがこの書の真実だと語った。
僕にはよく分からない。〝始まり〟の意味も。〝終わり〟の、意味も。
理解するには難しすぎた。
でも――。
「……そっか」
マリアテールさんは。どこか、諦めと。終わりを受け入れる顔で微笑むと、
「待っているつもりで……私のほうが、待たせちゃっていたのね……。『あの人』のことを」
ふと息をつく。長い歳月、ずっと張り詰めいていた緊張が消えたような、優しい顔だった。
「ありがとう。ミス・オリゼフィール。あなたとミヤベのいる二日間は、とても
楽しいものでした。……残念だけど私の存在は、あなたの蔵書コレクションには入らないみたい。『書』と一緒に樹の下に還ることになりそうよ」
「……ええ。私も、」
オリゼは、一気に言おうとして詰まって。
それから、一呼吸して、瞳を上げると、
「――自分のところよりも、『持ち主』のところにいるあなたのほうが、本来のあり方に叶っていると思う」
「ありがとう。優しいのね……。それとね、もう一つだけあなたに言っておきたいことがあるの」
消えかかる、その人は。
それでも微笑むことをやめずに、僕たちにそっと語りかけていた。
「私が、記憶を消していたのはね。孤独になりたくないから、ではないの。彼の死さえ受け入れられない、それくらい深い愛と、約束で彼のことを待ち続けていたの。自分で『記憶』を消しておいて、ばかみたいな話だけど……ね」
「…………」
「本の文字は風化して、薄くなって、インクも消えていくけど……。私が想いつづけていた『愛』は、本物よ。少しも風化したりしないわ。……それが。私のすべてだったの」
――あなたたちも、いつかきっと分かる日が来るわ。と。
最後の言葉を残したその人は。全身が光になって透明な空気に消えていく。
何も。テーブルの上の書さえも、残さずに。
ティーカップの紅茶は、まだ温かかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます