第9話 辺境の屋敷
「まぁまぁ。ようこそ、ようこそ! こんな辺境のふるさとに!」
僕たちが木戸を叩くと、中からふわりとスカートを揺らし、清潔な街着の女性が両手を広げて出迎えてくれた。
桃色の美しい髪に、優しそうな大きな目元。
田舎っぽくはあるが、その人が微笑むと空間が華やいでいるように感じられて僕は思わずドキッとする。オリゼの隣でだ。
「……あ、あの。こんにちは。こっちの子はオリゼ。そして僕はミヤベという付きそいです」
「ええ、ええ。話は聞いていますわ。ミヤベ」
微笑まれる。
すごく、可憐な人だな……。そう思った。ここの家のお手伝いさんかな? それとも、娘さんとか?
僕は女性という女性に今まで興味を向けなかったが……女の人というものは、かくも麗しく優しげな存在なのか。この人が微笑んだら、空間に花が生まれるのではないかという錯覚に陥った。
たとえ首都の雑踏の中でも、この人が微笑めば多くの『通行人』の中でも確実に見分けがつくだろう。花屋さんを背景に。いいや、オシャレな喫茶かな? どこを背景にしても似合いそうな。胸の高鳴りを感じる。
僕たちは、彼女に案内されるまま客室に通された。
「…………だらしない顔」
「へ?」
ふぬけた顔が気にさわったのか。オリゼが冷たい目を向けてきた。
なにか、怒っている。その氷点下の視線が〝男って皆こうよね〟という浅ましさと軽蔑。そして面白くなさそうな感情が見えた。
僕は、紅茶を置いたその人に切り出した。
「……えっと。それで、こちらにマリアテールさんという方がいらっしゃるとお聞きしたのですが」
「ええ。マリアテールは、私です」
……は?
僕はポカンとして、目の前で微笑む女性を見つめた。
え。ちょっと待って。嘘でしょ?
だって歳が……僕たちほど若くはないけど、まだ既婚者〈ミセス〉の、しかも後家と言ってしまうには若すぎる歳をしているではないか。
「よく歳よりも若く見られるのですが。これでも私は三十を超えていますよ? 主人が亡くなってから『再婚』の話はいただくのですが、どうにも気が進まなくて……。ここで、主人の残した家を守りながら、慎ましく独り身を貫きたいと思っています」
「……そ、そう……ですか」
僕の背中が丸くなってしまうのを感じていた。なんだろう、この恋もしていないのに恋に破れたような敗北感は。
隣で「くすっ」と声が聞こえたので振り向くと、オリゼが悪そうな顔で笑っていた。
コノヤロウ……。僕はバカにするオリゼを一生忘れない。
誰だって美しい女性には目がないし、憧れだって抱いてしまう生物じゃないか。僕だけが特別じゃない。きっと、尊敬する父だって同じはずだ。……たぶん。
マリアテールさんは少女のような顔で、テーブルの反対側でいがみ合う僕たちのことを不思議そうに見ていた。やがて、会話の潮を掴んだのか、
「それで、私がオリゼフィール様にご依頼したいのは、亡くなった主人に関することなのです」
「……?」
オリゼは、小首を傾げた。
今さらになるが、オリゼは極端に『人が苦手』な少女である。これは大前提。僕と話すときはいかにも『知らないのね』といった顔で笑みを含み、対抗心からくるのか大人の淑女レディの佇まいで知識を披見してくるのが常だが、これが――店に手紙を届けに来た王政府の青年などになると、声も小さく、たじたじとなり、俯いて受け取る。
僕も何度かその光景を目撃した。
だから、今のオリゼは『極度の人見知り』に戻っている。言葉数も少なく、返事もほとんどしない。今は用もないのに紅茶のカップに手をかけ、興味もないのに瞳を落として茶葉に語るようである。アストレア国の淑女として振る舞うしか、今の彼女にはできない。
マリアテールさんは、気にせず、話を進めてくれた。
「主人は、いつも馬で遠乗りをするのが好きでした。小川、街までの道のりを何度となく往復して、『――自分が先祖代々の土地に縛られる人間でなければ、各地を旅して回りたいのに』と残念がり、それが生前の口癖でした」
本人がそこにいるように、マリアテールさんは微笑んでいた。
「闊達な人だったんですね」
「ええ。特に、東国への航海をしたがっていました」
合いの手(と言う名の、助け船)を出した僕に、意外な言葉が聞こえてきた。
……東国?
僕にとって身近な言葉である。
詳しく聞いてみると、亡くなった主人は異国への国家交流で『少年使節』に選ばれた一人だったらしい。とても名誉なことで、使節と名を冠しているが留学のことであった。
彼は現地での生活も気に入っており、東国から帰国した際にも向こうでの風景や、下町の土産話が尽きることがなかったらしい。マリアテールさんにも宝物のように話して、二人の夫婦仲は良かったようだ。
「……それで、その……。思い出すのも悲しいことなのですが、主人が病で先立つにあたって、二つほど腑に落ちないことが残ってしまいまして……。その話をオリゼフィール様に聞いていただきたく、お会いしたかったのです」
「それは、『魔導書』に関わることかしら?」
オリゼは、紅茶を置いた。
核心に迫る口調。この少女は、『魔導書』に関わる引き取りの専門店をしている。だから、話の内容が『それ』であろう、と察してからは、人見知りの感情が姿を隠していた。
どこを調べても解決の糸口も見えない災いの書を相談し、引き取ってもらう少女。オリゼの噂を聞いて依頼したのなら、必然的に、書のことに関するトラブルを抱えているはずだ。
マリアテールさんは、眉に憂いを浮かべて頷く。
「……はい。一つは、魔導書のことです。私自身、魔道書……というものに、詳しくないのですが。きっと魔導書に関わることだと……思います」
……? どういうことだ?
「まず、魔導書と思われる『書』のことに関してなのですが……」
マリアテールさんは立ちあがる。
それから隣室へ。しばらく僕たちを待たせてから、一冊の古めかしい書を手に戻ってきた。
「これは、主人が東国より持ち帰ってきた書です。残念ながら、表題はなんと書いてあるのか読めませんが……。主人がいうには、『花を咲かせる幸せな物語』が記されていると聞きました」
「――『花神かしん』。しくは。はながみ、ね。とても珍しい書物だわ」
瞬時に、オリゼは読み解いた。
それはまさに驚嘆に値することだった。さらり、とやってのけてはいるが、それが驚異的なことなのは僕が一番よく分かる。なにせ、『東人』の僕にさえ、その難解な旧字体の漢語を読めなかったのだ。
「? どういう意味なんだい?」
「あなた。自分の国の話なのに知らないの?」
呆れた瞳を向けられる。
……悪かったな。だって仕方がないではないか。僕は生まれてからずっとアストレア国の空の下で育ってきたのだ。故郷については、ときたま父に連れられて旅をするくらい。
立派なアストレア国の紳士といえど、まだ東人としては未熟なのである。
「……これは、彼女の言うように『花』を咲かせるための物語よ」
そんな僕に、オリゼは書に目を戻しながら説明する。
本の表紙に、白い手をそっと当てた。
「――詳細は私も読んだことがないから、省くけれど。とにかく『東国』の名の下に存在が確認されている古い『魔導書』の一つよ。死者の灰を使って、お花を咲かせる物語ね」
うげ。何だそれ? 死霊術ネクロマンシー的な何かか?
「違うわ。……たぶん。私の聞いている話では、そんなダークファンタジーではいように思う。優しい翁の、花咲かせて死者の悲しみを吹き飛ばすお話のはずよ。……それより、気になるんだけど」
彼女は、瞳を上げた。
テーブルの向こうのマリアテールさんを見つめて、
「……これ、『偽物』よ」
「えっ?」
驚き、彼女は目を見開く。
「どうしてか分からないけど、力の『残滓』だけ微かに感じるわ。もともと近くに本物があったのか、それとも肝心の中身の力が抜け落ちたのか……。とにかく、今はこの書になんの価値もないわ。ありうるべき力がないんですもの」
「そ、そんな。どうして……?」
「だから。分からないと言っているでしょう」
こんなとき、オリゼは容赦がない。
ぶった切るように一刀両断する。続きは自分ででも考えなさいな。そんな具合である。
考えるのは魔導書が本物かどうか。その一念のみ。依頼人の感情などではなかった。事実を突きつけられて、動揺する依頼人の顔なんか眼中になかった。心なしか、横顔も冷たくなっている。
「偽物が多いのよ。私たちのいる界隈ではね。本物の隣に置かれていただけの『偽物』に力を感じてしまうこともよくあることだし、私は真実の書の他に付き合っている時間なんてないわ。帰るわよ」
「……あ。ちょっと。お待ちください」
客間のソファーを立ちあがったオリゼに、マリアテールさんが必死な顔で引き止める。
ここで帰られては、何のために相談したのか。そんなすがりつくような表情に、オリゼは鬱陶しそうに眉を寄せている。
「ちょっとだけでも、聞いてください……。お願いします! 確かに、この書は本物なんです! 主人が東国よりわざわざ持ち帰ってきて、大切に秘蔵していた『書』が……偽物なんてこと、あるはずがないんです!」
「でも、事実。それは偽物だったわ。あなたは私に偽物を騙かたっている」
「わ、私が嘘つきとでも?」
「少なくとも、その書は『偽物』よ」
それだけが、動かぬ事実というように。オリゼは指さす。
「こ、このページの最後! 頂いた東国の高僧より、譲り渡し状が挟まれております! これを見てください。紛れもなく由緒ある本物の証でありませんか」
「そんなもの。『書』のもつ真実の重みに比べたら、なんでもない飾り付けの〝まやかし〟だわ。いい? 真実の書に関しては、力こそがすべてなの。そして、それを判断するのは、この私――オリゼフィール・マドレアン。それだけ」
絶対的な自信。
揺らがない権威と、自己に対する気負い。
それは、このオリゼフィール・マドレアンという少女が、その生きてきた年月、全身全霊の全てを注いで培った自信プライドだった。歳月と研究が生んできたからこそ、自分の言動に責任を持ち、自己を疑わない。
――私の前に、嘘は通じない。
――私の求めてきた膨大な書の知識と、経験が、これを『偽物』だと導き出している。
オリゼは幼い顔立ちに不釣り合いな、威厳のこもった――命と研究を天秤にかけてきたような老年学者の――眼差しで、マリアテールさんを見ている。小さなプロフェッショナルは、明らかに、自分よりも年上の依頼人を怯ませていた。
……そういえば。
僕はふと思い出した。オリゼは僕のときも手に触れただけで『本物』と判別していた。
普通、そんなこと可能なのだろうか? オリゼだからこそ可能なのかもしれないし、だからこそ少女は他の誰よりも『書』の真実に深く関わっているのかもしれなかった。今のオリゼは、雰囲気からして別格である。
「とにかく。もう価値もないと分かったのだから、魔導書引き取りのお話はここで終了よ。私は、帰りの馬車に乗ることにするわ」
……それ、僕の馬車だけどね。
注意するのも今さらの気がするので、僕は黙っていた。
マリアテールさんは慌てていた。扉の前に立って両手を広げて、
「ま、待ってください! 本当に待ってください! 私、困っているんです。きっと『書』が関係しているんです! 主人が、主人の遺体が消えたことに関連して……!」
「……。なんですって?」
オリゼは。言葉に反応する。
――〝主人の遺体が、消えた〟――?
「消えたんです……! 主人の遺体が。いえ、厳密には帰ってこなかったのですが……。いつもより病が悪化して、それでも主人は馬の遠乗りをやめませんでした。気がつくと、ベッドが空になっていて……!」
「落ち着いて。マリアテールさん、どういうことですか?」
動揺が、整理されていたはずの脳内情報を支離滅裂にしていた。僕はオリゼの隣で、落ち着いて話してもらうように先を促す。
「馬だけが、発見されたのです。主人の馬だけが、この屋敷に戻ってきていて……! 私も、親族も、みんなで必死で主人を捜し回ったのです。手分けして。でも、どうしても見つからず……!」
マリアテールさんの話によると。
主人は、不治の病を患っていたらしい。根が生えたようにベッドで寝て窓の外を見つめる日もあれば……ときたま、気分の良いときに外歩きをする日もあったという。
ある日。マリアテールさんが養生するベッドを見ると、そこは空になっていたそうだ。慌てて探すが、彼の姿は村からも、郷からも忽然と消えてしまったのだという。
探しても目撃者がいなかった。
見つかるはずの確信が持てる状況で、人が忽然と消えた。
それは、つまり。遠回しにしているが――明確なる〝怪異〟である。
「もしかしたら……主人が、どこかで生き続けているかもしれないのです……! そう思い続けていたのです。ですが、すでに一年もの歳月が流れました。あのような体で野山を歩き回れるなんて、とても……!」
マリアテールさんは、ご主人を探しているらしい。
僕は、客間の窓から外を見た。
この土地はあまり民家がない。朽ちた敷地があるばかりで、残りは冬の枯れた草原の光景を森が包んでいた。山が近い。アストレア首都の方面には小高い丘がある。
木枯らしのつむじ風さえ肌寒く感じられ、門前に停めた場所の馬さえ寒そうに前足を動かしている。馬の手入れをしている使用人のセダンも、寒そうに白い息を吐いていた。
こんな寒い季節に……。
僕は思った。マリアテールさんはちょうど主人が消えた時期を、冬だという。こんな山間の厳しい寒さの中で、野宿の用意もなしに二日と持つとは思えなかった。
雨も怖い。雨が降れば、その二時間後には路肩で動けなくなる。
「――主人の親戚は、みんな川にでも流されたのだと……。そう私に言いました。諦めろと。私もずっと待って、それでも戻らず……もうあの人はいないのだと決めて、お葬式を上げました」
馬の鐙〈あぶみ〉に、主人が転落したときに引っかかったらしい布切れが残っていたという。結局、それが証拠となり。マリアテールさんは悲しみの中で主人の空の棺を見送った。
オリゼは、しばらく黙っていたが、
「……それで? 私に、何を求めているのかしら?」
「求めている、とは違うのです。……ただ、残された私にはどうしても納得できなくて。どうして主人が消えてしまったのか。どうして私だけが一人で家に残されたのか。……その理由を、教えてほしいのです」
彼女は、語った。
もしかしたら、主人が東国より持ち帰ったという『書』が消失に関わったのではないかと。人智では想像もつかない現象を引き起こす『魔導書』ならば、もしかしたら主人が忽然と消えた理由を知っているのではないかと思ったのだという。
「お願いします……。主人を……。どんな形でも、主人を探してください……お願いします……」
マリアテールさんは、頭を下げた。
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