第5話 決闘
翌日。剣闘技場。
士官学校の礼拝堂がある隣の中庭で、僕たちは向かい合っていた。
「……」
「…………」
ひりつく、沈黙。
パリオットと僕。お互いに剣をとって向かい合うのは、中央。青空の下で芝生がよく茂り、足場も問題ない絶好の『試合場』であった。
互いに、武器を取っている。
真剣である。僕が手にしているのは『鞍馬〈くらま〉』。父譲りの朱色の紐のついた打刀で、太刀という種類のものよりもいくらか小ぶりである。黒鞘の鮮やかな唐模様が特徴的だった。
湾刀〈わんとう〉と呼ばれる刀身の反った剣は、東国特有のものだった。美術品のように繊細な反りと刀身。しかし、それゆえに脆く、振りの速さのかわりにすべてを犠牲にしている。
対して、パリオットは二刀流である。
体躯に優れ、上から見下ろしてくる威圧がある彼特有の剣技。僕も何度か見たことがある。利き腕の右手には大剣。もう片方の手には、やや小ぶりな一尺ほどの刺剣が握られていた。
「――よくも逃げずに、ここで立ち会ったな。チビ公。度胸だけは褒めてやる! またお前の『不幸』が乗り移って、ケガでもするんじゃねえかとヒヤヒヤしたぜ」
「……。いっただろ。そんなことは、絶対に起きない」
安い挑発は、決闘の決まり文句である。
僕はそれを答えながら、闘技場を囲む『回廊』に佇んでいる一人の少女をチラッと見た。
これだけ悪評が立っている僕に対し、応援で詰めかける観衆ギャラリーは彼女しかいない。
これだけ殺気を孕んだ場において、彼女だけは湖面の穏やかな風でも受けているようにすました――というか、無表情な顔で立っている。手に、例の書を抱えていた。
……彼女とは、昨日のうちに『魔導書』に関して言葉を交わしていた。
『――本当に、いいのね?』
昨晩、ガラスのような透明な瞳を向けてきて問いかけてきた彼女に、僕は答えていた。最終確認である。
彼女は専門家なりに、『悪の律法〈デーモン・トーラー〉』の価値を分かっているらしい。無力化する方法も。……だが、それはもう二度と『書』が僕の手元には戻らなくなる方法らしく、彼女は念を押してきた。
しかし、構わない。僕は迷わず手放そうと思った。
試合の前に、書の災いをパリオットに降りかからせないよう『押さえ込む』ことが必要だった。だから、まずはその道の専門家であるオリゼに頼み、所有権を一時的に移していた。
この書の『小さな世界』は、本来の持ち主である一名だけに〝善き世界〟を作ることであって、所有権を手放した人物までは加護しない。
逆にいうと、それほど独自の『小さな世界』をもつ『悪の律法〈デーモン・トーラー〉』の書は絶大で、専門家の彼女をもってしても穏やかな封印は難しいらしい。できることは『書』そのものを無力化してしまうことだけだった。
――ただ、その無力化は、まだしていないらしい。
今も彼女の腕の中に、その『悪の律法〈デーモン・トーラー〉』のは禍々しい気配を出しながら残っている。なぜだ、という僕の疑問とは裏腹に、オリゼは『魔道書の解体には、相応の覚悟がいる』ということを言った。
要するに、今は半分所持。
所有権は、かつての持ち主である僕と、オリゼフィールの半々に移っている。――いや、どちらかというと、彼女の側が『濃い』のか。
ともかく、僕は目の前の戦いに集中する。
「――いくぜ」
パリオットは、剣を振った。
凄まじい音が鳴る。烈風が起こった。
彼が振る大剣は、それ一つで人間を吹き飛ばす威力を持つ〈クレイモア〉という剣だった。
なぎ払う他、刀に向かって傾斜しながら左右に大きく張り出した鍔は、相手の攻撃を受け止める用途で使われることもある。だからカウンターが怖い。僕が正面から狙っても、その翼のような鍔が大盾のようにすべての攻撃を受け止めてしまうのだ。
僕は、飛び下がった。
地面を抉る大剣の一撃をひらりとかわす、鳥のような軽い動きを心がけていた。父から徹底的に仕込まれたのは、むしろ『刀』の威力よりも軽業師のような『回避』が主だった。
なぜなら、非力な僕は、生まれながらの小身。体躯の優れたパリオットから振り下ろされる『大剣』の一撃を受け止めきれないからだ。愛刀の『鞍馬』もそのために軽量化してある。
東国の剣技は、力ではなく業である。
こんなところで力比べをしても負けるのは目に見えていた。
それに……、
「ええい。ちょこまかと!」
「――、」
僕は、逃げていた。
地を蹴って、体を鞠のように旋回させながら回避する。重みを持った大剣の風を切る音が、すぐ耳元で鳴った。一歩間違えれば、腕や、頭が吹っ飛ぶ。危険な動きだった。
「…………」
と、僕は少女を見た。
回廊に立つ少女。オリゼは、まだ『依頼人』の僕が迷っていると思っている。『魔導書』の力を消滅させることで、僕が絶対安全の命綱を断たれると思っている。
パリオットの大剣の凄まじさを目にして、取り返しのつかない大けがをするのではないかと思っている。
―――でも、僕は迷わなかった。
当然だ。ようやく書を葬り去る機会を得たのだ。今までの僕は『疫病神』だった。望んでそうなったわけではなく、周囲が、書が僕に災いを降りかけてくるのだ。望まないのに人が傷つく。それも、すべて僕のせいで――。
負の連鎖は、ここで完全に断ち切らねばならなかった。
人の子らしく、書が消滅してしまう惜しさ。
そんなもの、オリゼを探し求めて時間を費やしているときにとっくに消えてしまっていた。今の僕の心にあるのは、清々しく、堂々と決着をつけるという心だけだった。
だから、僕は着地して一呼吸。
渾身の力を腹に込めて、決闘場の外へと届けとばかりに叫んでいた。
「――いっただろう! 僕に、もう祝福なんて必要ない!」
声に魂を込める。生きてきた人生、東国の気骨、すべてをもって、僕は『悪の律法〈デーモン・トーラー〉』を拒絶した。
少女は、聞こえたらしい。目を大きく見開き、それから了解したように深く頷いた。
回廊の向こう。
少女のいる場所から、まるで蝶が舞い出てくるように、不思議な黒い粒が踊りで出てきた。
―――、なんだ?
一瞬だったが。僕が今まで見たことのない光景に呆然とする。それは……〝文字〟、だった。
古めかしい古代の文字や、記号。書の中にあったはずのカバラ派の象徴らしい難解な文字が、水を泳ぐように、または空を舞うように、少女が隠れているらしい柱の陰から現われた。
―――文字が、流れていく……?
いや、違う。――書の中の文字が、バラバラになって、空中から宙そらへ還っていっているのだ。
銀色の光が、煌めいていた。
それは、まるで魔法の光だった。
―――〝オリゼフィール〟が、本ではなく、その中身を特殊な技法(手元が見えなかったが)で、分解しているのだ。
――文字を、壊している。
「――!?」
「おう、なによそ見してやがんだ」
突き出される〈クレイモア〉。パリオットは僕の油断を突いて、鋭い突き業を放ってきた。紙一重のところで、僕は転がり回避する。
立ちあがったとき、不意に体に感覚が戻ってきた。
それは、〝死ぬかもしれない〟。という、いままで感じなかったごく当たり前の緊張。当然の恐怖。なぜかは分からない。でも、五感が感じる。
――もう、魔導書の祝福など消え去ったのだ――と。
「…………ッ!」
ざわりと。全身が疼く。
胸に急に火が灯ったように、何かが熱くなった。全身の血が、その闘争心の血を蘇らせたのか。強く、『勝ちたい』と願った。
勝てないかもしれない。
負けるかもしれない。
――だが、それが何だ? ずっと求めてきた恐怖がそこにあった。死と隣り合わせの寒気は人に災いをもたらすものではない。生きている、という実感を与えてくれる恐怖もある。
士官学校の中庭、剣闘技場で戦っている。
僕は、その光景がよりくっきりと――鮮明に目にうつった。
体が軽い。芝が青い。空の色が、突き抜けるように青い。雲が、白い――世界が、広い――。
パリオットの顔が、すぐ目の前にあった。
目の中に、不敵に笑う僕が見えた。……彼は、驚いていた。
「――!」
僕は、初めて抜刀した。
呼吸よりも速い、光の速さの抜刀。『一閃』。鞍馬を引き抜き、渾身の力で腕を奔らせ、そして――目の前の強敵に、すべての力を集中させる。
それは、運命を跳ね返す『力』であった。
ありとあらゆる、自身に降りかかる向かい風。災い。害意。自身よりも優れた力と体躯を持つ剣士を、正面から斬り上げる。
逆境という向かい風を、刀の『一閃』で両断する――。
「が……ッ……!?」
パリオットは、呆然としていた。
彼の振りかぶった〈クレイモア〉。その、長大な刀身が、根元から両断されて宙を舞ったのだ。
彼だけでなく。彼の取り巻きの子分たちも、その突然の光景に唖然としていた。何が起こったのか分からない顔。どうして、剣先が、鍔元から離れたのか――? この世にある言葉では、説明できない光景。
この日。
僕は初めて、剣を斬った。
「ば……まさか……!? うそ、だろ……?」
愛剣は、アストレアの剣士の誇り。
二つに両断された鍔元と柄を握りしめ、パリオットは膝をついた。
「勝負は、ついた。僕の勝ちでいいか?」
見下ろし、声をかけた。
パリオットは返事する気力もなく、ただうなだれて放心していた。
僕は『鞍馬』を腰の鞘にしまうと。中庭を後にした。回廊に出る。
と、オリゼが後ろから追いかけてきた。どうやら、試合の続きを見ていたらしい。
「…………初めて、見た」
少女は目をぱちくりさせて、中庭の――折れて、地面に刺さったクレイモアの刀身に振り返っている。
彼女が驚く顔も、初めて見た気がする。
「どんな書物にも、あなたの業はなかった」
「『イアイ』――っていうんだ。あの剣技。漢字にして『居合い』だね。父が教官として公に教えている『剣術』とはまた違うもので、東国でも秘密にされていることが多い」
これがやりたくて。勝ちたくて。
僕はずっと。ずっと――『魔導書』を捨てようとしていたんだ。
僕は、弱くない。
どんなに負けたとしても。自分のプライドが傷つけられたとしても。また挑戦できる気力があるのだとしたら、必ず剣技を磨き、再び相手を打ち負かす日だってやってくる。
それが父の教えであり、僕の信じる『強さ』であった。
「…………そうね。ちょっとだけ、分かった気がする」
「でも、ありがとう」
「え?」
オリゼは、また珍しい顔で僕を見上げてきた。
僕は。
士官学校を出て、先ほどよりも清々しい青空を見上げて。胸の高鳴りを感じながら、笑った。
――ようやく。一つ、ふっきれた気がする。
僕が笑いかけると、少女は兄の笑顔でも見たように目を丸くして、それから頬を赤くして俯く。それから頷き。もう一度、さらに強く頷いていた。
晴れた青空が、校舎を出た目に眩しかった。
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