第3話 グリモワールの解き方



 扉をノックをすると、室内から鍵が開いた。

 今度は部屋の奥で座して待つようなことはせず、少女自らがお腹をすかせた顔で出迎える。


「……あら。変な格好をしているのね。配達屋さんかと間違えてしまったわ」

「そういう君こそ、腹を空かせた子犬みたいだね」


 僕は応酬してやった。

 格好については、彼女の言のとおりである。僕はこの『変人通り(アダムミストストリート)』で顔を覚えられないように、または妙な目をつけられないよう帽子を深くかぶり、冬らしくマフラーを深く巻いていた。

 すべて、顔を隠すための措置である。


 彼女には申し訳ないと思ったが、それには慣れているのか、特に不満を表情にすることもなく迎え入れていた。



「頼んでおいた食べものは持ってきた?」

「ここに」


 それが国境の通行手形のように。

 オリゼフィール・マドレアンが扉を開けて導いたことで、僕は店に入る権利を得る。馬車と馭者は、昨夜と同じで通りに待たせている。


 彼女はチラッと表の馬車を気にしたようだが、それほど深くは詮索しなかった。


 案内される書架の空間は相変わらず暗く、昼間の光が窓から届いていなかった。常時ランタンの光が必須という室内もなかなか珍しいのではないか。



 導かれ、僕は食卓に出た。


 いつも少女が使っている場所らしい。

 女の子の使う食卓って優雅で、片付いてて、彩り華やかなイメージがあるが……この少女に関してはろくな掃除もしていないらしく、ただ埃っぽいテーブルに、無秩序に本が置かれているだけの空間だった。


 なんとも無味乾燥で、面白みのない場所だ。


 僕が見回していると、



「あまり食卓は使わないの。ご飯も、面倒臭いから」


 その問いかけを感じたのか、聡くも素早く答えてきた。

 だけど、その答えが必ずしも、正解というわけではない。


 人間なんだし、食事をしないと腹も空くだろう。大事な栄養源、活動の資本である。士官学校でもよく教えている。いわく剣士は食事が作る。


 ただ、僕は世話好きの老使用人ではないので、この際細かいことは言わなかった。ただ、『食卓を使わない』というのなら、普段食べるときにどこを使うのか。



「そこ」


 乱暴に本をテーブルから押しどけながら、少女は小さな手をやった。

 振り返ると、そこには件くだんの〝アンティーク調の椅子〟があった。どうやらここで本を読みながら、ご飯を食べているらしい。なんて不精者だ……。



「きみ、歳はいくつだい?」

「答える義理はないわ」


 僕の問いかけに、彼女は煩わしそうに返事する。

 あまり他人に干渉されるのが好きではないのだろう。つんけんした横顔で一生懸命に本を落としていた。席から埃が舞い、僕のところまで白くなる。


「……答えないと、せっかく家で焼いてきたホットサンドをあげないよ?」


 切り札を出してみた。

 やっと席につきかけた少女が止まり、「……あ、う」と悲しそうな目でこちらを見つめている。口をぱくぱく。話が違う、という顔だった。


 僕は、さらに使用人に持たされた包みを振ってみせた。

 ぐう。と誰かの腹が鳴った。


「……歳は、十四よ。一四。悪い? さあ、寄越しなさいよ」

「べつに悪いとはいってないのに」


 お行儀の悪いレディである。僕が差し出した袋を、少女はむしり取るようにつかんで中をのぞき込んだ。


 ――先日の夜は、屋敷の雰囲気やら、アンティーク人形めいた彼女の雰囲気やらで息を呑み、緊張してしまっていたが。

 こうして見ると、どうということもない普通の少女だった。口では偉そうなことばかり言っているが、食べる姿は歳よりも幼く見える。



「きみ。オリゼフィール。家族はいるのかい?」

「『オリゼ』でいいわ。依頼人さん。まあ、自由に呼んで構わないけど。それに、その質問にはノーよ。答えられないわ」


 なぜ?


「依頼主と、私の間では守秘するべき共通の『義務』があるの。私も、『書』のこと以外で依頼人に対してあまり根掘り葉掘り深く聞いたりしないわ。プライバシーがあるものね。……で、あなたたち依頼人も、私に対してあまりプライベートな質問は控えてほしいの」


 ……けっこう大人ぶったこというじゃないか。

 僕は鼻白む。少女の見えない〝壁〟のようなものを感じたからだ。さっき、僕の質問には答えてくれたはずなのに。


「あれは、私の昼食のため。やむをえずよ」


 彼女は銀色の髪を揺らしながら、バンズを口に運ぶ。一口。二口。食べている感情までは分からなかったが、どうやらお気には召したようだ。



 アストレア国は、名物の美食が多い。ホットサンドもその一つで、カリカリに焼いた香ばしい堅バンズと具材の相性は「絶品」の一言しかなく、中身には新鮮な野菜を使ったサラダと、厳選した肉の具材をセットで楽しめる。


 うまい。

 そう。とにかく、美味いのだ。


 堅焼きした外部のバンズに季節の野菜を盛り込み、肉をメインにして旨みを出している。外側のカリカリした歯ごたえに加え、肉汁したたるジューシーさ。野菜の水を含んだ食感、一度で三つのハーモニーが楽しめるのだ。



「…………(もくもく)」


 少女も満足しているらしく、食事中しばらくは椅子に背中を預けて、足をぷらぷらと揺らしていた。あれだけ大きめのサイズを用意していたホットサンドが、みるみる彼女の小さな口に消えてしまう。


「……ふう。堪能したわ。また、機会があったら是非食べてみたいものね」

「それで? 食べるだけ食べて、肝心の『書』に関する手がかりが聞けてないんだけどさ」

「焦らないで。一応、私なりに調べていたのよ」


 彼女は立ちあがる。

 そこには、まるで方程式を確立してペンを走らせる学者のような毅然とした風格が出ていた。同じ気分で見つめていた僕は、思わず息を呑む。


 少女は、懐から見覚えのある書を取り出した。


「――これは、今より一世紀半ほど前の書ね。カバラ派の数秘文字、そして独創的で特徴深いシンボルが散見されるわ」


 ……? どういうことだ?


 僕は、何やらアストレア国王議会で招聘を受けた小市民のように、部外者の顔でそれを聞いていた。常識みたいに解説されているが、さっぱり分からないのだ。



「なんだい、『カバラ』って? 食べ物かい?」


 僕の戸惑いに、彼女は「――ああ、」という。いかにも聖典の読み解きも分からない異邦人を相手にした司教のような顔をした。

 要するに、馬鹿だって思われている顔だ。


「……そうね。普通の人はあまり知らないものね。カバラというのは南の砂漠の国から伝わってきた思想学の大家よ。この国の学術思想の源流――ともいうべき存在かしら。哲学であれ、神学であれ、行きつくところは世界の真理と構造なのだから。『魔導書』が生まれてしまうのも当然なのよ」



 ……?


「だからね。探求することは、すなわち魔導なのよ」


 オリゼは、かみ砕くように口を動かした。


 この世界には、探求するだけで『真理に近づく』と考えられているものがあるそうだ。それは傲慢なことだし、神を蔑ろにする振る舞いであったが、確かに真理をねじ曲げようとしたい、と考える人間は古来から少なからずいるようである。


『神に近づく』とされてしまう禁忌が存在するのなら、『じゃあ、なぜ近づいてはいけないか』と考える人間もいるのだろう。『――神様が、そう作った。だからその通りに世界は動く』と宗教で信じられていることも、鵜呑みにすることが善行とは限らない。


 アストレア国は、信心深い善人が多い。

 それに反して、〝真理〟を突き詰める哲学者が少なからず存在するらしい。



 ――ある者は、大地が丸いと言い。

 ――ある者は、樹より落ちるリンゴを見て地表が引く力を認識し。

 ――ある者は工業化のための鉄と歯車軸を、なんとか人の手で制御できないものかと理論を組み立てている。


 社会は、彼らを異端視し。一部は英雄と呼んだ。


 孤独な英雄は追放されボロ布をまとい、髭を蓄え、俗世を離れて〝真理〟に没頭した。その姿が印象となって『悪魔憑き』の姿が完成されてしまい、人々は畏れとともに彼らの書を『悪魔の書』『卑怯の書』と呼んだという。


 そして、そういった自然界の真を見つめ続ける〝観測者〟が、どの分野に関わらず〝形〟を残していったという。それは書だ。探求の副産物として、『心理をねじ曲げる』理屈を記したレシピが生まれるらしい。



「……? それって?」

「だから、それが魔導書という名前の研究ノートなのよ。魔導書なんて名で仕分けしているのは一部の神聖な司祭か、何も知らない愚かな民衆のみ。彼らは羊と狼の区別すらつかないのよ」



 少女はいう。

 古めかしい書には、確かに『力』があった。


 その書は、神様が『こうだと決めたから、そうなった』という理屈を覆し、心理を解明したことで真逆のことが行えるレシピを生み出した。それは、本来は愚衆どもには想像もつかない、起きないはずの法則の『再現』をしてしまう。


 青空を水の中のように『泳ぐ』こともできるし、反対に水中で『息』をすることも可能となる。質量は無視され、放たれた矢は軌道を曲げ、本来なら死ぬはずだった人が生き還る。


 その法則は、世界を裏側から動かしている『何か』をつかみ取ろうとするものらしかった。その『何か』には、自然を川の水の流れのように動かす『時間』あるいは『理屈の流れ』というものがあり、書の中には、それに逆らうための独自の法則の『小さな世界』が広がっているという。



 ……? 待てよ?


 僕はここで、ふと浮かんだ名前があった。

 そういえば、前に興味があって調べた伝説上の人物。錬金術のクラウスはどうなのか。


 僕だってそういった『超常の力』に興味がなかったわけではない。自分で調べたりもした。アストレア国の古い学者である。



 ――伝説の錬金師。クラウス。

 王国で『路肩の石ころより、金塊を生成した』という伝説をもつ男で、古い時代に国王陛下に招かれ、王宮で儀式を成功させたこともあるという。燃えたぎる溶鉱炉の大釜より金塊を生み出し、彼の手に不可能の業はないとされた。


 すでに没しているが、彼の存在などは、少女の説明に関連があるのではないか?



「あら。よく知っているじゃない」


 僕が問いかけると、オリゼはちょっと見直した顔をした。



「――そうね。クラウス錬金術も、そういった『法則』にない力を探求する一つの学派よ。本来なら精製しつつ生み出す希少な『鉱石』を、あるメカニズムをへていきなり創造するんですもの。フラスコと大釜を使った『元素転換』といったやり方でね」


 そう。だから、石ころから金塊を生み出せるんだよな。確か。


「……卑俗な表現ね。実際は、もっと高尚な研究をしていた学派だったはずよ。ただ、クラウスの死後、次の代から『金儲け』のための手段としか使われなくなって、順序と目的が逆転したの」


 ……? そうなのか?


「ええ。後援者パトロンになっていた教会の思惑もあったみたいだけど。真実の探求を怠った学派に将来はないわ。――結果、彼らの学派はカバラ派のような『真実』には行きつかなかった。卑俗な、路地の裏で食べ残しを漁る病犬のような学問に成り下がったのね」


 なんて口の悪さだ。


 僕は呆れたが、一方で、この少女を違った目で見てしまう自分もいた。


 なんというか……ここでようやく。それを街中の噂話のように――どこどこの娘さんに婿がついたとか、あそこの店の酒樽はうまいとか――そんな何気ない話題のように『魔導書』について話すオリゼが不気味に思えたのだ。


 不気味というか、少し、怖い。


 彼女はいった。

 学問として大成するかどうかは、その学派が真実の書――魔導書を残せるか否かにかかっっているという。魔導書というのは、常人では触れられない天高い神域に、少しばかり人の手が及んだときに生まれる聖遺物のようなものらしい。



「――それで。あなたに預かった『魔導書』のことだけど」

「あ、ああ」


 僕は内心の気後れを悟られないよう、力強く頷いていた。


「かすれて読めなかった表題は分かったわ。『悪の律法〈デーモン・トーラー〉』ね。やっぱりカバラ派から生まれた魔導書で、これを手にする所有者に悪魔の恩恵をもたらすものね」


 ……恩恵?


「誰であれ。その時期の『敵』となった人物に、災いを与え続ける強力な祝福が施されているの」



 …………。やっぱりか。


 正直、予想できていた答えでもあったので、僕はその話を聞いて思わず頷いてしまっていた。むしろ、心のどこかで納得してしまっている自分がいる。


 心当たりがあるのだ。


 それにしても、〝祝福〟とは……。

 滑稽なこと、きわまりない。それはどちらか一方にとって『善きこと』が起これば、別の誰かが『不幸に見舞われる』という皮肉ではないか。それを一方が祝福と呼び、もう一方が呪いと呼ぶ。なんて皮肉な答えだろう。


 僕の周囲に雨のように降りかかる不幸から考えれば、むしろ逆の〝呪い〟のほうが救いはあるように思えた。



「『くじ』と一緒ね。誰か一人の人物しか『選ばれない』と分かっているルールがある。でも、その裏では選ばれるはずだった大量の『不幸者』が生まれているのよ。一人の幸運とみなすか、数え切れないほどの落選者を生み出す不運とみなすかは――まさに、その人の解釈次第」


 ……。確かに、そうだ。


 あまり分かりたくもないが、それがこの世の真理なのかもしれない。引いては、神の起こす奇跡や祝福にも同じことが言えた。……まあ、これ以上踏み込むのは、危険だが。


「人々の繋がりというのは、少なからず『均衡』をもって形成されているのよ。ミヤベ。誰かが病に倒れて、翌日に乗るはずだった運河を渡る船に欠員が出る。すると、その席に困っていた誰かが座れる。運命の椅子の巡り合わせね。また逆もあり得るわ。つまり、この世はそうした『譲り合い』の連鎖で形成されているの」


 ……だからって。

 誰かにとっての不幸が、自分の祝福になるなんて。そんなことあってはならない。


「この『魔導書』の著者も、それはよく分かっていたみたい。だからこそ、特別な人に対して理想の『世界』が作られている」


 ……? せかい?


「ええ。どうしようもなくエゴイズムで、身勝手で独善的な世界。さっきも少し触れたけど、魔導書の中は一つの『小さな世界』になっているのよ。持ち主がすなわち〝神〟であり、そのこぼれ落ちた雫――現実を歪めることができる〝不思議〟――それが、定義されている。

 この書は、持ち主のために効力を発揮する」



 ……だから。

 書にとっての絶対的な正義は。誰かにとっての災いになるわけか。


 なんて黒い書だろうと思った。こんなもの必要ない。むしろ、人類のために、これは消し去って然るべきではないのか。



「ま、もともとは真理を追い求めるために書かれた実験の研究ノートのようなものだけど……あなたは『依頼人』なんだから、あまり私たちの理屈については詳しく教えなくてもいいのかしらね。私たちには、私たちの正義があり、これは『正しい』ことになっているのよ」


「……、しかし」


「いいえ、踏み込む必要はないわ。戻れなくなるから。

 必要なのは、木こりの斧と同じ。〝どうして木が生えたのか?〟ではなく、〝どうやったら木が切れるのか?〟でしょう?」


 ――、もっともだ。

 僕は思った。今、僕に必要なのはこの『書』の情報であり。なぜか祝福を受けている僕の現状の打開だった。


 書をなんとかしたい。

 そのために、彼女。オリゼを頼ったのだから。


「……引き取るわ。あなたの、その『行き場を失った魔導書』をね」

「……! ほ、本当か?」


「ええ」


 僕は思わず身を乗り出していた。やっと前向きな言葉が出た。



 ――オリゼフィール・マドレアン。

 行き場を失い、始末もできなくなった『書』が最後に行きつく専門店の主。


 彼女は『危険な魔導書を引き取る』という触れ込みで、噂されている影の人物である。その性格は、偏屈にして、狷介けんかい。人嫌い。俗世倦みと揶揄やゆされている。


 しかし、彼女の力が得られれば、きっと僕の問題も解決できることだろう。



「――でも、そのためには『主』から『次の主』への所有権の移動がないとけないわ。今、あなたが抱えているという問題を解決しないことには前に進めないから、協力してもらうわ」

「ああ。よろしく頼むよ」


 僕は、嬉しかった。立ちあがって手を差し出す。


 きょとん。と緑の瞳をぱちくりさせた少女だが。やがて『手』の意味を理解すると、おそるおそる小さな手で握り返してきた。



 ――オリゼフィール・マドレアン。

 どうやら『書』を相手にするのは慣れていても、『人』を相手にするのはあまり得意じゃないらしい。


 握った手はとても冷たく、そして、指が細かった。


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