雲の海の竜騎兵
成坂空馬
序章 ジュゼッペ爺さんの葬送
前編
横風のせいで、係留作業は少々難航したようだったが、どうやらそれも終わったらしい。
この旅の間にすっかり馴染みとなった、にやけ顔の航空士に手を振ると、俺は
硬い革靴の下に感じる、丸一日ぶりの、大地の感触。
この島自体も、巨視的に見れば、気球船と同じようにこの雲の海に浮かんでいるわけだが、やはり安定感には雲泥の差がある。軽く頭を振って、風酔いの残る頭をすっきりさせると、俺は唯一の荷物である鞄を持って歩き始めた。
小さな島とはいえ、
ひっきりなしに声をかけてくる店のおやっさんおばさんたちを適当にあしらいながら歩いていくうちに、その店が視界に入った。色とりどりの草花が美しく並べられた、花屋だ。
「おや、いらっしゃい、兵隊さん」
店の前で足を止めた俺に気づいて、店の主と思われる中年の女性が声をかけてきた。
「……いや、まだ正規の兵士じゃないんだ。訓練兵、なんで」
俺は、いちおうそう訂正した。
「訓練兵だろうがなんだろうが、それを着てりゃ、みんな兵隊さんだよ」
そう言いながら、店主は、俺の濃紺の制服を指さす。見間違えようもない、『市国』軍の第二種軍装だ。
「それで、何が入り用だい? 『コレ』にプレゼントかい?」
小指を示しながら、店主はニヤリと笑う。
「それならいいのがあるよ。女はいつだって綺麗な色した花が好きなもんさ。ほら、これなんかどうだい?」
店主はそう言うと、大きなピンク色の花の束を俺に突き出した。まあ、確かに綺麗だとは思うが、残念ながら俺には花の名前や良し悪しはわからない。
というか、そもそも――
「いや、そうじゃないんだ。……白い花を適当に見繕ってほしい」
まだ何かまくしたてようとする彼女を遮ってそう告げると、とたんに、店主の顔が神妙なものに変わった。
「ああ、そうなのかい。悪かったね。……葬送は、いつなんだい? 今日か、明日かい?」
「今日の夕方、だと聞いてる」
俺の返答に、店主は軽く頷くと、手際よく何種類かの白い花を集めて小さな花束を作った。
「こんなもんでいいかい?」
「ああ」
「なら、8アルマだね」
花束の値段がそれで妥当なのかどうかは、よくわからない。しかし、いくら係留所とはいえ、俺の生まれ育ったこの小さな田舎の島で、むやみなぼったくりが横行しているとも思えない。俺は頷いて、10アルマイト紙幣を彼女に差し出した。
「ふーん、『政庁』の札かい。ああ、そういえば、訓練兵って言ってたね」
俺は、『政庁』本島にある、『政庁』と『市国』が共同で運営する兵学校の訓練兵なので、俺の持っている紙幣は、そのほとんどが、『政庁』が発行しているものになる。もちろん、備蓄金属資源の裏打ちがある列強諸国の紙幣であれば、どれもその価値に差はないし、どの島でも問題なく流通する。
店主は俺の差し出した紙幣を受け取ると、釣りの1アルマイト紙幣を2枚渡してきた。使い古された、『市国』印の捺されたものだ。俺はそれを制服のポケットに突っ込むと、白い花束を受け取った。
「それで、葬送はどこでやるんだい?」
「ムンデール村」
俺が答えると、店主は少し首を傾げた。小さな田舎村だ。知らなくて当然だ、と俺は思ったが、意外にも、彼女はすぐに、ああ、と手を打った。
「だいぶ遠いじゃないか。2、3時間は歩くんじゃないかい?」
「ああ、だから、あまり時間がない」
俺はそう言うと、鞄を持ち直して歩き出した。
「その、故人の魂が、無事に雲に還りますように!」
後ろから、店主の声が聞こえた。ありがとう、俺はそう口の中で呟いた。
周りの景色が、見慣れた懐かしいものに変わる頃には、日は既にだいぶ傾いていた。係留所に降り立った時点ではまだ昼と言える時刻だったはずだから、かれこれ2時間は歩いたということになる。
ひっきりなしに吹き続ける風と、ここ数年間いやというほど繰り返された訓練のおかげで、汗一つかいているわけではないし疲れもない。が、それならもうちょっと速足で歩くべきだったか、などと俺は思った。葬送に向かう前に、実家によるつもりだったのだが、この時刻では、たぶんもう葬送は始まってしまっているだろう。直接、「石路の岬」に向かった方がよさそうだ。
村の中心部に向かう道から逸れて、岬に向かう小道をしばらく歩く。
緩やかな斜面を登りきると、吹きあがる風が俺の顔を襲った。反射的に左手に持った花束で顔を守る。と、何枚かの花びらが風にさらわれて飛んで行った。
手を戻して、眼下の景色を見る。
雲海。
そして、その、薄いオレンジ色の雲の海に向かって突き出した、黄色味がかった緑色の草に覆われた岬。その黄緑色の真ん中を縫うように、岬の先端に向かって、白い石畳の細い線が伸びている。
岬の先端からその白い線を手前に向かって視線を戻していくと――
いた。
十人ばかりの、白い服を着た人々が二列に並んで、草の上に長くなり始めた影を落としている。その真ん中に置かれた、白い大きな四角いものが、棺車だろう。今すぐに棺車を送るようにも見えないが、それもそんなに先のことではないはずだ。俺はそこに向かって足を速めた。
人々に近づくにつれて、風に乗って、途切れ途切れに、声が聞こえてきた。おそらく、葬送の祈りを唱えているのだろう。
その声が、徐々に途切れなくなり、そしてはっきりと聞き取れるくらいまで近づいたところで、列の中ほどに立つ、純白の飾りのないワンピースを着た女性が、こちらを振り向いた。
――リリィ、だ。髪を結っていたので、後ろ姿ではわからなかった。
そのリリィが、俺を目にとめて、驚いたような顔をしている。声は出なかったが、何か言葉を紡ぐように口が動く。その動きは――たぶん、「ディノ」だろう。
彼女につられて、他の人々も俺の方を向いた。口々に「ディノ」「来たのか」と声をあげる。俺は鞄をその辺の草の上に置くと、みんなに近寄った。全員が、よく知った、近所の住人たちだ。
「遅くなった」
俺はそう言うと、人々の真ん中、リリィの隣にいた中年の女性に頭を下げた。リリィの母親――この葬送の主、ジュゼッペ爺さんの娘であるディローナおばさんだ。
「ディノ、『政庁』からわざわざ来てくれたんだね。ありがとう……」
ディローナおばさんはそう言うと、目に涙を浮かべた。
そういえば、おばさんは昔から涙もろい人だった。普段から涙もろかったのだから、今日はなおさらだろう。そんなおばさんを気遣うように、リリィがおばさんの背中に手を回す。
「ディノ、来たんだね」
そう言いながら、別の中年女性が俺に近づいてきた。声だけで、いや気配だけでもわかる。俺のお袋だ。前に見た時より、少し痩せただろうか。それに、少し白髪が増えたような気もする。
俺は軽く頷くと、お袋に花束を持ってもらった。そして、胸ポケットから白いハンカチを取り出すと、右腕にそれを巻く。片手ではハンカチを結ぶのが難しかったが、お袋が手伝ってくれた。
葬送の場に、色のある服を着てくるのは明らかに場違いだが、軍人だけは例外だ。それは、まだ訓練兵にしか過ぎない俺の場合にも当てはまる。濃紺の『市国』軍人の第二種軍装も、右腕に喪章として白い布を巻けば、立派な葬送着となる。
俺はお袋からさっき持ってもらった花束を返してもらう、棺車に近づいた。気を遣って、他の人たちが棺の蓋を開けてくれた。
ジュゼッペ爺さん。
いつも赤ら顔に気難しい表情を浮かべていた爺さんだが、今は、真っ白な肌に、何の表情も浮かべず、静かに目を閉じている。
――爺さん、ほんとに死んじまったんだな。
俺はその肌の白さに、電報を受け取った時には感じなかった、爺さんの死を、実感した。
他の人たちが詰めた白い花々の上に、俺は自分の花束を、そっと乗せた。そして、一歩、後ろに下がる。俺が離れるのを見て、周りの人々が棺の蓋を閉めて、封鍵を差し直した。
俺が葬送の列に加わり、お袋の隣に立つと、俺の登場で中断された祈りの言葉が再開された。葬送の祈りを唱えるのは、参列者の中の最年長者と決まっている。今回は、どうやら雑貨屋のザックリーさんのようだ。
その祈りの声を聞きながら、ふと顔をあげると、ちょうど向かいに立っていたリリィと目が合った。リリィの顔に浮かんでいるのは、悲しみ? 怒り? ――いや、それらをないまぜにした上で、一番強いのは、非難、の表情だろうか。そうやって、数秒間、視線を交わした後、リリィはふいっと目を逸らしてしまった。
俺も、視線を棺車の方に戻す。
子供の頃、そんなに度々あったわけではないが、村で葬送があるたびに、俺はこの祈りが長すぎて、とにかく退屈だった。しかし、今回は、そう思う間もなく、あっけなく、祈りは終わった。俺が着くまでにほとんど終わっていたということかもしれないし、俺が大人になったということかもしれない。たぶん、その両方だろう。
祈りが終わると、いよいよ、棺車を雲海に送ることになる。これは故人と最も親しかった男性の務めだ。
「ディノ」
ザックリーさんが俺を呼んだ。周りの人々も、当然のように頷く。
ジュゼッペ爺さんは気難しい老人で、正直、近所の人々に好かれていたとはいえない。実の娘であるディローナおばさんですら、毎日のように、隣に住むうちのお袋に、爺さんについての繰り言を繰り返していたくらいだ。
ただ、そんな爺さんでも、孫のリリィと、そしてこの俺にだけは、気難しいながらも、爺さんにできる最大限の優しさを込めて接してくれていた。
リリィについては、単純に孫娘がかわいくて仕方なかったんだろうし、俺については、毎日毎日飽きもせず、爺さんに昔話をせがる俺のことを、たぶん気に入ってくれていたのだろう。
爺さんの話を聞き続けた結果、雲海を飛ぶことに憧れ、そしてついに軍の訓練兵になった俺のことを、唯一褒めてくれたのがジュゼッペ爺さんだった。他のみんなは、俺のことを、軍なんかに入るなんて少し頭がおかしい、などと言っていたが。
俺は棺車の後ろに立って、棺に手をかけた。
周りを見ると、この葬送を仕切るザックリーさんが頷いた。喪主であるディローナおばさんも、涙を浮かべながら何度も頷いている。
俺は棺車に向かい直して、腕に力を込めた。棺の下に取り付けられた、木の車輪が、ギ、ギギ、と音を立て、やがて摩擦力に打ち勝って、ガラ、ガラ、と回り始める。
棺車が、石畳に削りこまれた轍の上を、ゆっくりと動き始めた。
これまでも、いくつもの棺車が通っていった轍を、ジュゼッペ爺さんの棺車の車輪が、ゆっくりと踏んでいく。
しばらくそのまま押し進んでいくと、やがて、棺車を押していた俺の腕にかかる負荷が、急に軽くなった。石畳が、下りの斜面に差し掛かったのだ。
棺車の速度が徐々に上がり、そして遂に、棺車は俺が押さずとも勝手に走り出した。
石畳の轍の上を、まっすぐ、緩やかな斜面の先の、岬の先端へ。
俺は立ち止まって、それを見送る。車輪の回る、ガラガラという音が、徐々に遠ざかり、みるみるうちに棺車が小さくなっていく。
そして、遂に棺車は岬の先端にまで達し、そのまま雲海へと飛び出した。
一瞬、棺車は岬の先に沈んで見えなくなった。が、常に雲海から吹き上げる強い風に吹かれて、すぐに浮き上がって再び視界に戻る。
そして、そのまま緩やかな放物線を描くと、棺車は、今度こそ、オレンジ色の雲海の向こうへ、沈んでいった。
ジュゼッペ爺さんの魂は、雲海に還った。
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