Lacker and Sinners

文月

天秤と周波数─cap.1─

「天秤よ、神なき現在〈いま〉に秩序ある采配を。穢れなきその指標に祝福を。無知なる我らに勝利と赦しをもたらし給え──」

厳かな低い声が教会に響く。──否、それは教会とはおよそ呼べないものだった。どこの宗教にも属さない様相でありながら、様々な宗教の要素を併せ持ったものだからである。華やかでありながら質素、何かを突き放すかのようで全てを包み込むかのような雰囲気を醸すその建物は、現在のどの宗教の形式にも当てはまらないものだ。

彼らは何も持っていなかった。聖典を手にせず、ただ聖句と思わしき文言を諳んじているに過ぎない。そして彼らが崇めている対象もまた異様である。イコンではなく、どこにでもありそうな鉄製の天秤に対して祈りを捧げている。

慎ましい装飾を施された祭壇の上にあるそれは、信者と思わしき彼らの祈りを一身に受け止めている。天秤は何も載せず、何も測らずただそこにあるのみ。

「天秤よ、我らに天啓を齎し給え。善行と悪行を正しく測り、我らの死後に限りない恩寵を──」

❇︎     ❇︎     ❇︎


「なあ美希、教祖になる人間にはいかなる素質が必要だろうか?」

探偵、篠崎真弓は妹に問う。9月の夕暮れ、依頼者もいない不必要にお洒落な事務所に彼と妹は居た。

美希と呼ばれた女はデスクに置かれたmacbook airを弄るのをやめ、兄に視線を向ける。

「はあ?いきなり何言ってんの兄さん。……そうね、やっぱり多くの人間を納得させうるだけの原始的宗教体験をさせる者じゃないかな?」

「ヌミノーゼをもたらすものってわけか。なるほど、神の声を聞けるものと答えないあたりが俺の妹らしい。そうだな、それは確かにそうだ。しかし俺はこう思う。教祖となる人間はすなわち人が心地よいと感じる周波数を声質に持つ者ではないかって」

「ふーん、ごめん、どうでもいいよ、それ」

美希は再びmacに視線を戻す。彼女は一応篠崎探偵事務所の臨時職員ではあるものの、その実やる気が出た時にだけ事務所に顔を出しているに過ぎない。実際彼女の画面に映っているのはExcelではなく、海外のファイル共有ソフトの方法が記載されているsyaa.siという違法サイトだ。

「まあまあ、どうせ暇だろお前。彼女も友達もいない孤独な兄の独り言に付き合ってもバチは当たらないぜ?」

「そこそこモテそうな顔してんだから彼女くらい作りなさいよ。あ、その性格じゃ無理か」

篠崎は無視して手元を見つめる。グラスに入ったウィスキーと氷が光を微かに反射している。

「てかこの時間から酒飲んでるって……アル中じゃん」

「うるさい。神様だってワインくらい飲んでるよ」

「兄さんが飲んでるのはウィスキーじゃない。しかもロック。酔ってるでしょ?」

「……ともかくだ。人間が心地よいと思う周波数というのは存在する。例えば脳にとって心地よい周波数528hzは古くは9世紀のグレゴリア聖歌にも使用されているし、人間や動物が発する周波数のうち8〜13hzはα波・ベルガー波と呼ばれ、人間の睡眠状態の脳波に近いことからヒーリングミュージックとして活用されている。お得意のパソコンでググってみろ」

「パソコンじゃなくてマッキントッシュね、兄さん。……で?」

「こういった人に好影響を及ぼす周波数があるなら、その逆もあって当然。もし心──いや脳に極めて影響を及ぼしやすい性質を持つ人間がいたとしたなら、あるいは教祖と呼ばれる人間にも成れるのではないかと思ってね」

「はあ。でも教祖って逸話や人柄、説法みたいなものも重要なんじゃない?」

「それはそうだけど……」

「ん?ねえ、これ何?……ははあ、これ読んだからそんなよくわかんない話したんだ」

美希が指差したのはデスクの上に置いてあるメンズものの雑誌だった。表紙にはキメ顔の俳優と《必見!!モテる男の心理テク》という文字がデカデカと印字されている。真弓は図星だったのか顔を背ける。酔いのせいか顔も少し赤い。

美希があきれ返っているその時、扉の鈴がカランと鳴った。

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