ハサミ

キナコ

ハサミ

 深夜勤の日が雨になると、これといった理由はないのに、なんとなく不安になる。そもそも明るい日差しが好きになれないくせに、雨が降ったからといって夜まで苦手になったら、いったいわたしの心はいつ晴れるのだろう。


 勤め先の病院に向けて夜の国道を運転しながら、いつものように気持ちをラジオに向ける。誰かの声を聞いていないと、わたしの気持ちは、勝手に、深く沈み込んでしまう。ハロウィンに合わせたのか、投稿されたメールは季節外れの怪談話で、ナビゲーターがそれを情感たっぷりに読み上げる。病院での体験談が多いが、内容はありきたりだ。ナースとして三年も働けば、怖い噂はいくらでも耳に入ってくる。明らかな作り話もあれば、わたし自身でも経験したことのあるような、ちょっと不思議な話もある。しかし多かれ少なかれ脚色されているせいか、死が軽んじられたような気がして、わたしはこの手の噂があまり好きになれない。


――間違いありません。病棟の廊下ですれ違ったのは、あのお婆ちゃんでした。あんなに苦しんでいたのに、なんだか穏やかなお顔だったので、元気になられたのかと思ったら、それがちょうど亡くなった時間だったのです。最初はぞっとしました。でも、ようやくあの苦しみから解放されたのかなあと思うと、なんだかホッとしました。看護師がこんなことを言ってはいけないのでしょうけど――


 番組が終わると午後十一時の時報に続いて、小二女児暴行殺害事件の容疑者が逮捕されたというニュースが流れてきた。 雨音に消されないようにラジオの音量を少し上げる。それはこの地元で起きた、久しぶりに大きな事件だった。

 小学二年生の女の子の死体が発見されたのは、使われていない資材置き場の倉庫で、この道沿いにある。国道とはいえ、周囲は麦畑が広がり、三年前にバイパスが完成してからは交通量もかなり減った。おまけに事件以降、幽霊が出るという噂が立って、深夜勤で通るこの時間だと、病院に着くまでにすれ違うのは一台か二台ということもある。

 遺体が発見された当初、資材置き場の前は通行止になり、それが解除されると、今度はニュースをみた野次馬や現場見物の車で渋滞になり、おかげで、この道を通勤に使うわたしは何度か危うく遅刻するところだった。あれから半年近く経って、今ではすっかり騒動は収まったが、いつのまにかこの道は、ゆり子という殺された女の子の名前から、ゆりちゃんの道と呼ばれるようになった。

 事件後、お盆に集まった女子会では、同級生だったキモい男子の名前が容疑者として次々に挙げられ、笑いの種になった。でも、わたしはみんなのようには笑えなかった。わたしも小学生のとき性犯罪にあった被害者のひとりだ。

 性犯罪のニュースを聞くたびに、とくに被害者が子どもだったりすると、あの男の体臭と痛みが今でも鮮やかに蘇ってくる。 当時、重大事件として警察が厳しい箝口令を敷いたおかげで、わたしの事件のことを知る友人はいない。 顔にひどい怪我を負わされたわたしは、事故にあったということにして長いあいだ学校を休んだ。ゆっくりとした療養と、カウンセラーや献身的な看護師たちのおかげで、再び登校できるようにはなった。しかし、傷跡を見られるのが嫌で顔を上げることができなくなり、わたしから青い空は消えてしまった。

 その後、あの男が捕まったという知らせはなく、十八年が過ぎた。事件は時効になったが、修復手術を重ねてもうっすらと残る頬の傷痕が、鏡を見るたびにいまだにわたしを恐ろしい記憶と向き合わせる。わたしの前では絶対に言わなかったけれど、あだ名が口裂け女だったことをわたしは知っている。悲しかったけれど、ぴったりだ。


 落ち着かない気持ちのまま五分ほどのニュースを最後まで聞き、また他愛のないおしゃべりの番組を探していくつかボタンを押した。暗くて交通量の少ないこの道をひとりで運転していると、無性に人の声が聞きたくなる。ナースとしては病院の怪談話なら多少の耐性はあるけれど、暗い道をひとりで運転するのはやはり心細い。

 なかなか番組が決まらず、ラジオの操作に気をとられているうちに、気がつくと車がセンターラインを越えていた。わたしはあわてて左にハンドルを切って車線を戻そうとした。その時、ヘッドライトのすぐ先に、小さな人影が浮かんだ。

 しまった、と声に出したかも知れない。思い切りブレーキを踏み込む。シートベルトが胸に食い込み、濡れた路面をタイヤが嫌な音を立ててスリップしながら車は止まった。

 わたしは震える手でシートベルトを外し、絶望的な思いで車から降りた。衝撃は感じなかったが、あのタイミングだと間違いなく轢いたはずだ。ひょっとしたらハロウィンの子どもがまだうろうろしていたのかもしれない。

 最悪の結果を想像しながらあたりを歩き回る。

 何もない。

 雨に打たれて、わたしは呆然と暗い道路を見つめた。思い直して車体を調べてみても、ぶつかった跡はなかった。


 何かがおかしい。


 突然、全身の産毛が逆立つような悪寒を感じ、心臓がぎゅっと縮んだ。わたしは急いで車に乗り込むと、シートベルトもせずに発進させた。一刻も早くここを立ち去るべきだと感じた。心臓の鼓動が限界まで早くなり、全身から汗が噴き出す。病院までの距離が永遠に思える。


 何も見たくない、お願い、やめて。


 声。ラジオ? 


 違う。後ろから。


……タスケテ……オウチニカエシテ


 理性は消し飛び、パニックがわたしの体から自由を奪った。アクセルを踏み込んだ足は、もはや自分のものではなかった。電柱がものすごい勢いで迫ってくるのはわかったが、どうすることもできなかった。




 眩しい明かり。電子音。

 見覚えのある光景。ERだ。なぜ、という疑問が浮かび、すぐに記憶が戻る。エアバッグが目の前に飛び出したのは覚えている。痛みは感じないが手も足も動かない。スタッフの緊迫した空気からすると、事故からそれほど時間が経っていないようだ。耳元でわたしを呼ぶ声がする。呼び戻そうとしているのだろうか。

 横向きにされているわたしの目の前をドクターやナースが行き交う。その向こう、そこだけ浮いたように泥だらけの女の子が見え隠れする。体が動かないせいで、場違いな、その女の子からわたしは目を背けることができない。しかし恐ろしいという気持ちはまったくなかった。おびえた目に、恐ろしい笑い顔。口裂け女。それがどういうことなのか、考えるまでもない。あの男だ。あの男が、幼かったわたしにしたことをこの子にもしたのだ。

「女の子はね、笑った方がかわいいんだよ」

そう言いながら、あの男はわたしの口をこじ開けると、大きなハサミを入れ、頬まで切り裂いた。わたしは生き延びたが、この子は殺されてしまった。おそらく、ほかにも殺された子がいるのかもしれない。

「ゆりちゃん」とわたしは呼びかけようとしたが、声が出ない。それでも女の子は恐る恐る手術台に寝かされたわたしの方に近づいてくる。

「怖かったね。一緒に帰ろう」わたしが手を差し出すと、ゆりちゃんも小さな手を伸ばしてくる。

 わたしは心を決め、ゆっくり起き上がり、肉体を残して、手術台を降りた。

 アラームが鳴り、その場にいる全員の動きが慌ただしくなる。薬品を指示する声が飛ぶ。どれも、緊急時に使われるものだ。わたしの肉体が蘇生することはないだろう。わたしは死んだのだ。


 考えてみれば、顔に気味の悪い傷のある女なんて、これまでもほんとうに生きていたと言えるだろうか。わたしはなるべく顔を見られないように、いつも俯いて生きてきた。でも、そんな人生も終わりだ。手術台に横たわっている身体はわたしじゃない。わたしを縛るものは、もうないのだ。

 そうだ、これからあの男のところに行って、わたしやこの子がどんなに怖かったか思い知らせてやろう。人生を台無しにされたわたしがどんなにつらい思いをしてきたか、あの男に思い知らせてやるのだ。あの男は今、この子を殺した容疑で警察の留置場にいる。のうのうと寝ているかもしれない。これからは、ぐっすり眠ることなど許さない。顔を近づけて、あの男が残した傷跡を見せつけてやろう。 この手で首を絞めてやってもいい。死刑になるなら、吊られたその体にぶら下がってやろう。

 わたしはゆりちゃんの手を引いてERを出る。深夜の暗い廊下で顔見知りの看護師とすれ違ったが、わたしをちらりと見ただけで、忙しそうに小走りで病棟に行ってしまう。彼女もすぐにわたしの事故を知るだろう。そして廊下ですれ違ったことを自慢げに噂するかもしれない。


――廊下であの人見ちゃった。あれ、たぶん死んだ時刻だったのよ。

 

 噂なんてどうでもいい。ここはもうわたしの世界ではない。

 わたしたちは手をつないで病院を後にした。

 初めて、わたしは晴々と満たされた気持ちになった。



 〈了〉

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ハサミ キナコ @wacico

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