稲雀

亀と麦茶

一、月下の門

 ある秋の夜のことである。空には薄月が上り、風も吹けば肌を切らんばかりの寒さなのだが、それを気にもしない顔をして微光を見上げる男がいた。


 男は家も妻子も捨て、山寺に一人暮らしていた。それは厭世えんせいに依るもので、愛情はとうに失われたと男は考えていた。しかしある時、寺を訪ねた娘の姿に涙を流したことで、自分に愛情が残っていたことに気がつき、還俗げんぞくへの思いが生まれ始めていた。


 どれ程のあいだ人と言葉を交わしていないだろうかと思いながら、月を見て、心の隅にある寂しさを押し込め切れずに、身をぶるりと震わせる僧の姿が、陰となって描かれていた。


 月がやたらに明るいのを見て、そうか今日は十五夜だったかと気付いた男は、美しく澄んだ夜を一人でいることに、よりいっそうの寂しさを心に感じたのだろう、白い息を一つ吐き出した。


 古代人であったら、この寂しさを歌にして少しは昇華することもできただろうが、男は、自らのかたくなな心のために歌が詠めないのを知っていた。しかし、何か言葉の一切れでも声に出してみたかったか、寒さによる身体の冷えかは判らないが、口を僅かに震わせていた。


 月にまつわる歌、説話を何か思い出そうとして頭を抱えた後、男は「門でもたたいてみようか」と呟き、そして背中を丸め、寺に入っていった。


 「僧は敲く月下の門」と詠んだのは賈島かとう韓愈かんゆの二人の詩人だが、月夜の僧と自分とが被ったのだろう、その一節を口に出すときの男の表情は、どこか何かを諦めたものであった。

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