水色の反撃

hiyu

水色の反撃


 俺の目の中には魚が泳いでいる。

 小さい頃、海に落ちた。

 家族旅行で行った南の方のリゾート地、真っ青に抜けるような空、どこまでも続く白い砂浜、サンゴ礁、青い海。

 兄と二人で、ぷかぷかと浮き輪で浮いていた。

 そこへ、大波。俺は簡単に飲まれ、浮き輪から落っこちた。青い海にぶくぶくと沈みながら、俺はまぶしいくらいに差し込む光を見つめていた。

 これは、空の色か、海の色か。

 水中できらきら光るそれに手を伸ばしてみた。まるで光の欠片みたいにいくつも散っていた。だから、触れてみたかった。

 けれど、俺の手に感じたのは、ゆらりと揺れる水の感触。

 視界の隅に、小さな魚。南の島なのに、熱帯魚とは程遠い、銀色の小さな魚。

 光の欠片に囲まれて、その魚影は優雅に俺の前を通り抜ける。きらきらと光るその銀色の身体は、俺がつかもうとした光の欠片みたいで、とてもきれいだ、と思った。

 そして、俺はゆっくりと意識を手放した。

 ──気付いたら病院のベッドだった。家族は心配し、俺が目を覚ますのをずっと待っていたらしい。日に焼けた兄が、俺の顔を覗きこみ、言った。

 お前の目、空の色みたいだ。

 そう言った兄の顔の前を、すいっと銀色の小さな魚が横切った。俺がそれを目で追うと、魚はくるりと向きを変え、また俺の視界を横切る。

 兄が、不思議な顔をしていた。

 お前、何を見てるんだ?

 それから俺は、角度によって水色に見える瞳と、その目の中を泳ぐ銀色の小魚を手に入れた。


 魚は、悪さをするわけでもなく、時々俺の目の中を泳ぐ。

 その姿が見えているのは俺だけで、他の誰にもその存在を確認することはできない。

 あれから10年近く経つ今も、俺の目は光に反射してために水色に輝く。それに気付いた人は俺の目を覗き込んで不思議そうにするが、それがいつも見えるわけではないことを知り、ただの錯覚かと思うらしく、興味をなくす。

 魚は、そんなやつらを笑うように俺の目の中でくるりと回り、はしゃぐように跳ねる。

 今日は快晴。

 こんな日は、俺の目もその輝きを増す。きらきらと、水中に散った光の欠片みたいに、その水色の瞳を色濃く映して光り出す。

 そして魚は、それを喜び、泳ぐのだ。

「空色だ」

 俺がぼんやりと外を眺めていると、兄の声がした。

 3つ年上の兄は、俺の目を水色ではなく、空色、という。

「今日は魚も喜んでるだろうな」

 昼下がりのベランダ、まぶしいくらいに射す日差し。ほかほかと身体を包む陽気。

 俺は兄を見た。

 真っ黒なその瞳は、少し鋭い。けれど俺は兄のこの目が好きだ。見つめられると、時々吸い込まれそうになる。とても澄んだきれいな目だから。

「うん、さっきから行ったり来たり、忙しい」

 俺の目の中で、魚は左右に泳ぎまくっていた。時々ぴちぴちと跳ね、銀色の体をきらきらと輝かせていた。

 俺の目の秘密を知っているのは兄だけだった。あの事故のあと、誰に言ってもこのことは信じてもらえなかった。目の中に魚がいる、なんて、ばかげている。しかもそれはちゃんと生きていて自由に泳いでいる。

 兄だけは、俺の言うことを信じてくれた。考えてみたら、初めに俺の目の色が変わったことに気付いたのも兄だった。

「そうか」

 兄はうなずき、俺の隣で空を見上げた。

 しばらく二人で、黙って空を見ていた。魚が泳ぎ、時々俺を笑うように急激に向きを変えたり、沈んだりしている。

「きれいだな」

 いつの間にか、兄は空じゃなくて俺を見ていた。俺の目を。

「あの日の、空の色だ」

 多分、俺が海に落ちた日のことを言っているのだろう。

 時々、兄は水色に変わった俺の目を黙って見つめている。あまりにも真剣に、まっすぐに見つめられるので、いつも恥ずかしくなる。けれど目をそらすことはできなかった。

 兄は、俺のこの水色の目が好きなのだろう、と思った。

 泳ぐ魚の姿は見えないけれど。

 どういうわけか、俺の目が水色に変わることに兄はよく気付く。他の人たちは大抵一瞬だけしか見たことがないのに、兄がそれに気付くと、俺の目はいつまでも水色のままなのだ。

 だから、こうしていつまでもその目を見つめられる。

 魚が目の前を通る。

 兄と向き合うとき、この魚はよく俺たちの間を横切る。何度も、繰り返し。

 初めのうちはその動きが忙しなく、動きに合わせて視線が追った。けれどいつの間にかそれにも慣れ、俺は動き回る魚を追わずに、兄の目を見つめ返すことができるようになった。

 今も、何度目かの行き来を繰り返した魚が、ひらひらと尾びれを振って俺と兄の視線の間を横切った。俺はそれを無視し、兄の目を見つめ返していた。

「魚は」

 兄が言った。

「今も邪魔を?」

 魚が横切ることを、俺は兄に「邪魔している」と言った。まだ小さい頃の話だ。

「うん、してる」

「よほど俺が嫌いらしいな」

 魚は何度も俺の目の中を横切り、多分兄の視線をこの水色の瞳からそらそうとしているのだ、と俺は思っていた。いつだったかぽつりとそれを兄に告げたら、しばらく俺を見てから、兄がそうか、とだけつぶやいた。

 魚が跳ねた。

 俺はそのウロコに反射した光に、思わず目を閉じた。魚は時々、こうやって俺のことをからかう。日の光を取り込んで、目をくらませる。

 兄が、俺の顔に触れた。

「光った」

 その言葉に、俺はゆっくりと目を開く。兄の顔が近付き、俺の目を覗き込んでいた。

「今、光ったんだ、お前の目」

「ああ、魚が──」

 俺は魚のいたずらのことを話そうとした。けれど、兄が覗き込む水色の目の中で、魚は再びその身体を跳ね、太陽の光を反射させた。

 まぶしい。

「また、光った」

 兄が言う。

 魚は何度も俺の目の中をくるくると回っているようだった。目を閉じた俺にはその姿ははっきりとは見えなくなっていたが、時々薄く影のようにまぶたの裏にその姿を浮き上がらせる。

「魚が──」

「悪さ、してるのか」

「多分」

 俺は薄く目を開けた。このままいたずらが続けば、俺はきっと目を開けていられないだろう。

 兄が俺の考えを読んだかのように、俺の手を引いた。そして室内に連れてきてくれた。そのままソファに座らせてくれ、俺は目を開く。

 太陽の光さえなければ、魚はいたずらできない。

 俺はほっとして、くらんだ目を指先でこすった。まだちかちかと目の中で点滅しているような感じがした。その手を兄がつかむ。

「目を傷める」

 確かに、俺は時々魚のいたずらのせいで目をこする羽目になり、よく目を真っ赤に充血させてしまう。その度に、兄が心配してくれるのだ。

「しばらく目を閉じてろ」

「でも、せっかく水色なのに」

 兄が好きなこの目を、閉じてしまうのは寂しかった。兄だって、きっと、もっとこの目を見ていたいに違いなかった。

「いいから」

 兄は俺の頭を押さえつけるようにして、うつむかせた。俺は仕方なく目を閉じた。俺は隣に座った兄の息遣いだけを聞いていた。まぶたの裏で魚が泳いでいた。

 どのくらいそうしていたのだろう。5分か、10分か、もしかしたら2~3分だったのかもしれない。俺が目を開けると、頭に乗ったままだった兄の手が外された。俺を見て、大丈夫か、と訊ねる。

「うん、もう、平気」

 魚が横切った。

「俺の目、まだ色を変えてる?」

 兄は俺の目を覗き込む。

「ああ」

 魚は忙しなく左右に身体を振る。

「まだきれいな空色だ」

 兄の言葉に反応したかのように、魚がすごいスピードでぐるぐると回る。

 俺の目を見つめたままの兄が、ふっと笑った。

 俺はその目を見返して、どうして、と訊ねた。

「何だ?」

「どうして、水色じゃなくて、空色なの?」

「だって、空の色だ」

 兄は俺の頬に触れた。

「あの日、二人で浮き輪に乗ってゆらゆら浮かんでたときに見上げてた、あのきれいな空の色なんだよ」

 魚はぐるぐると回り続けていた。

 俺が海の中で見た、あの銀色の小さな魚。沈んでいく俺の前を、優雅に泳ぐ、あの姿。

 沈みながら、俺は目に映る色を、空の色か、海の色か判断することができなかった。とてもきれいな、透明で澄んだ青だったことだけは覚えている。それは水色で、スカイブルーで、どちらも同じような色だった。

 俺の頬を、まるで子供にするみたいに撫でる。水色の目を見つめて。

 俺が海に沈んだとき、助けてくれたのは兄だった。俺を引き上げ、浮き輪につかまらせ、岸まで泳いだ。目を覚まさない俺を心配し、何度も名前を呼んでいたのだと言う。泣きながら、何度も。

 病院で目を覚ましたとき、確かに兄の目が真っ赤に腫れていた。

 その腫れた目を見開いて、俺の目を見て、言ったのだ。

 ──お前の目、空の色みたいだ。

 兄にとっては、ずっと、空の色だった。

 俺は水色だとばかり思っていた。だって、魚が泳いでいるのだ。水の中以外に考えられない。だから、きっと水色なのだ、と。

 兄はあの事故以来、少し、過保護だ。

 だからこうして、俺を子供みたいに扱う。

「やっぱり、きれいだ」

 俺の目を見つめた兄が笑う。

 魚が跳ねる。けれど太陽の光が届かない室内では、俺の目をくらませられない。

 俺は気付く。

 この魚が兄を厭うそのわけに。

「空じゃない、って言いたいんだよ」

 俺はくすくすと笑う。兄は首を傾げた。

「これは海だって、そう言いたいんだよ、きっと」

 魚が、嬉しそうにくるりと回った。ひらひらとそのひれを揺らして。

「だから、兄さんが俺の目を見るのを、邪魔しようとしてるんだ」

 兄はいつも、俺の目を空色、と言う。

 魚はそれが気に入らないのだ。

 兄は呆気に取られたような顔をして──それから、両手で俺の顔をつかみ、自分の顔を近づけて、その目を覗き込む。

「悪いけど」

 俺に、というよりは、まるで目の中の魚に言い聞かせるように、言った。

「これは空の色だ。それだけは譲らない」

 魚が反論するようにびちびちと身体を振った。

「俺たちが二人で見上げてた、空の色だ」

 魚も負けていない。す、す、と何度も行き来し、一度も止まらない。

「だから、これからも俺は空の色だと思うし、絶対に、譲らない」

 姿の見えない魚を相手に、兄が子供の言い分のような言葉を吐く。魚も兄とは目を合わせないかのように忙しなく動いている。

 俺は苦笑する。

「これは空色だ」

 言い切って、兄が俺の目を深く覗き込んだ。

 ぴしゃり、と魚が跳ねた。まるでそのひれで水をかき、跳ね上げるように。

 兄が、俺の顔から手を離した。

「──今」

 そして、驚いたように、言った。

「魚が、跳ねた」

 どういうわけか、兄の頬は水で濡れていた。俺も驚いて、兄の頬に手を伸ばす。

「涙──じゃないよ、ね」

 兄が自分の頬に触れ、その水を拭う。そして、ぺろりと舐める。

「しょっぱい」

 もちろん涙もしょっぱいけれど──

 俺と兄は顔を見合わせる。そして、同時に笑った。

 俺の目の中には銀色の魚。水色に変わった目の中で、それはひらりと泳ぐ。

「反撃、された」

 兄がそう言って、俺の目を見つめる。

 魚はゆらりと向きを変え、優雅に泳ぐ。

 その姿を兄が見ているのは明白だった。俺の視線は魚を追っていて、兄も同じようにその方向を目で追っていたからだ。

「でもやっぱり──」

 兄は魚を追いながら、つぶやく。

「空色だ」

 そう言って笑う兄に、魚はまた、ぴしゃりと跳ねた。

 水色の波を俺の目に映して、その銀色の身体が、揺らいだ。


 了



 兄×弟×魚……的な。

 いや、やましくないです。普通です。すみません。

 利便上BLカテゴリですけど。

 兄弟仲いいなってほんわかするもよし、深読みするもよし、どちらでも(笑)

 水色の反撃ってより、銀色の反撃って感じですけど。

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