第12話 祓戸と縁結びの神

 真人(まさひと)が天津甕星(あまつみかぼし)との戦いから回復した翌日、真人は神域の家の居間で宇迦(うか)から実は天津甕星は真人が神殺しの力で倒した事と、建葉槌命(たけはづちのみこと)から真人の姓(かばね)が、かつて月読尊(つくよみのみこと)に仕えた一族と同じという事を聞かされていた。


「姓(かばね)?」

「姓とはその一族の名前の事です。現在に例えますと名字がそれに当たりますでしょうか」


 姓(かばね)。

 姓の発祥の経緯は明確ではない。大和王権(やまとおうけん)が成熟し、大王家(皇室)を中心として有力氏族の職掌(しきしょう)や立場が次第に確定していく中で、各有力者の職掌や地位を明示するために付与されたと考えられている。

 姓には有力豪族により世襲される称号として、いわゆる爵位としての性格と、職掌の伴う官職としての性格の二つの側面があるとされ、古代、大和王権の統治形態を形成する上で重要な役割を果たしてきた。


 現在使われている名字には一族の姓をそのまま名字として継いでいる人と明治時代(めいじじだい)に名字を持つ事を義務づけ名乗った名字がある。


 御饌(みけ)は二人が話している最中に台所でお茶を入れ、二人の前に出すと自分の分のお茶が入った湯飲みを持ち居間の自分の定位置に座る。

「確か真人さまの名字は………」

「ありがとう。……高月(たかつき)だ」

 真人は御饌に礼を言ってからお茶を一口飲んでから宇迦の問いに答える。

「……では、やはり」

 そう言って宇迦は何かを思案するような仕草をする。

「どういう事だ?」

「月読尊(つくよみのみこと)さまをご存じですか?」

「名前は今まで何度か聞いたが、詳しくは……」

「月読尊さまは天照大神(あまてらすおおみかみ)さまの弟であり、須佐之男命(すさのおのみこと)さまの兄とされ、国の政(まつりごと)を取り仕切りながら天照大神さまを影から支えたとされるお方です」


 月読尊(つくよみのみこと)。

 夜の神、または月の神。

 三貴子(みはしらのうずのみこ)の一柱であり、天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)の兄とされている。

 古事記では、黄泉国(よもつくに)より戻った伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が右目を洗った際に生まれ、「夜の食す国(夜が支配する国)を治めよ」と命じられている。

 日本書紀では月の神として生まれたとされており、『その輝きは日に次ぐ美しさなので、日と並んで統治すべしと天へ送られた』と記されている。

 夜の闇に光を届け、海の航海をそっと見守り、さりげなく人々を導くありがたい存在である。

 決して主役ではないが、なくてはならない存在。

『月を読む』意の名前から、暦とのゆかりも深く知識をもたらした。


「その月読尊さまが陰から国を支えるために月読尊さまが自ら直接作り出し使命を与えた人間たちに尊月一族(たかつきいちぞく)という者達がいたと云います。尊月一族は人でありながら神の作った神器をすべて扱う事ができ、神殺しの力を持っていたとされています。そして尊月一族は陰の存在として努める事で国の支えとなり国をより大きな国へと導いたと伝わっています」


「その中でも天照大神さまが荒ぶる神の禍津日神(まがつひのかみ)となり国に災いを招いた際、月読尊さまが尊月一族と共に天照大神さまの持つ四つの魂の内の一つを、荒神である禍津日神の魂へと変え分離し、その魂を瀬織津姫(せおりつひめ)として静めたとされています」


「天照大神は四つも魂を持ってたのか?」

 どんな生き物でも魂は一つしかない。

 それが世の中の常識であり真人ももちろんそう思っていた。

「高天原(たかまがはら)や高天原から天降った天津神(あまつかみ)の神々には二つの魂があり天照大神は四つの魂を持っていたと云われています。人間は死ぬと魂が死後の世界に送られ別人として生まれ変わりますが、魂を複数持つ神は死んで魂が死後の世界に送られても魂が二つあるため同じ神として時には記憶も引き継いで生まれ変わる事ができます」

「それで抓津姫命(つまつひめのみこと)は生まれ変われるのか」

 言いながら真人は抓津姫命の事を思い出した。

「おそらく前世の真人さまも月読尊さまが作ったとされる神代(かみよ)の時代に活動した神殺しの力を持つ尊月一族(たかつきいちぞく)の一人だったのでしょう。一族の一人として月読尊さまの指示により国を陰から支えてきましたが抓津姫命さまと恋仲になった事で使命を忘れてしまい戦で命を落とされてしまったのでしょう」


 真人は神域での大家津姫命との会話を思い出していた。

『自分が神である事も忘れてその男性と過ごしていたのですが、その時代の現世は戦乱の時代であり戦いに駆り出された男性は戦いに敗れ若い命を失い』

 自分を忘れていたのは抓津姫命だけじゃなくて前世の自分も使命を忘れていたのだと。


「それにしても神殺しはその血筋や固有の能力とかじゃなくて、特定の条件を満たした人間がするものだと思ってたが」

「神殺しとは神を殺した者やそれを行える能力を有する者を指してそういいます。神殺しの話はいくつもありますが、尊月一族のように神を殺すために存在している一族は知れ渡れば周囲の人間たちに畏れられる可能性もある為、あまり公にはされていなかったのでしょう」


 そう言うと宇迦は御饌の入れたお茶を一口飲み一息入れると会話を続ける。

「真人さまが誰かにご自分の名前を名乗られる時に名字ではなく名前で名乗られるのはなぜですか?」

「………いや、特に理由はないが、なんとなく名字より名前の方がいいと思って」

「恐らく、真人さま自身に名字を伏せようという意識はなく、一族の名前を隠して活動していた尊月一族のしきたりの名残が潜在的に残っているのではないかと」

「一族の名前を隠すしきたりが使命がなくなった後もその影響だけが俺にまで潜在的に残っていたと?」

 真人の先祖である尊月一族は月読尊が直接作り出し国を陰から支えるよう使命を与えた人間たちだった。姓など素性を隠しながら活動し、それが当たり前だったため、その事に疑問を抱く事はあり得なかった。


「しかし、いくら神だからって人間を直接作り出す事なんてできるのか?」

「直接とは言っても人間を直接作り出したわけではありません。母体で胎児の肉体が成長する時に何かしらのきっかけを与え成長と共に力に適応させていく方法などご存じだったかと、月読尊さまは三貴子(みはしらのうずのみこ)の中でも謎が多い神です。女王を勤めた天照大神さまと戦神の建速須佐之男命さまに対して月読尊さまは表には一切出てきていませんが国の政を取り仕切り禁厭(きんえん)など技術的な事も心得ていたと思われます」


 禁厭(まじない・きんえん)とは、日本在来の呪術の事である。神道では、大国主神(おおくにぬしのかみ)と少彦名神(すくなひこなのかみ)を禁厭の祖神としている。 『日本書紀』では、鳥獣や昆虫の害を払うためにそれ除去する呪いを定めた旨の記述があり、農耕に関わる禁厭であった事が分かる。


「その俺の前世が生きた神代(かみよ)の時代というのはいつなんだ? 戦いで命を落としたと言うが神が現世(うつしよ)にいた時代なら戦国時代(せんごくじだい)なんかよりもっと昔なんだろ?」


「神代とはこの世を神々が統治していた時代の事です。この世の始まりから天地が別れ、人の手で現世を治める事ができるまでの間の事ですから今から二千三百年ほど前でしょうか」


 神代(かみよ)。

 古事記や日本書紀等の日本神話において、神々が支配していた時代という意味。

 天地開闢(てんちかいびゃく)から神武天皇(じんむてんのう)が即位(紀元前六六〇年)するまでの時代の事を指す。

 神世七代(かみのよななよ)・地神五代(ちじんごだい)(日向三代)が含まれる。

 歴史学的に対照させるならば、弥生時代後期以前に相当する。


 神世七代(かみのよななよ)・天神七代(てんじんしちだい)

 天地開闢の時、生成した七代の神の総称、またはその時代。

 最初の二代は一柱で一代

 国之常立神(くにのとこたちのかみ)

 豊雲野神(とよぐもぬのかみ)

 その後は男神と女神の二柱で一代

 宇比地邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ)

 角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)

 意富斗能地神(おおとのぢのかみ)・大斗乃弁神(おおとのべのかみ)

 淤母陀琉神(おもだるのかみ)・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)

 伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)の十二柱七代で神世七代とする。


 地神五代(ちじんごだい)

 五柱の神々およびそれらの神々の時代

 天照大神(あまてらすおおみかみ)

 天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)

 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)

 火折尊(ほおりのみこと)

 鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)

 神世七代と人皇の間に位置する。『地神』とは地の神の事で、天の神を意味する『天神』と対称をなす語である。


 神代に続く、神武天皇(じんむてんのう)から大化(たいか)の改新(かいしん)までの時代、歴史学的には弥生時代末期(やよいじだいまっき)~古墳時代(こふんじだい)~飛鳥時代中期(あすかじだい)は、上古(じょうこ)と呼ばれる。


「想像もつかないくらい古い時代だな……。そもそもなぜわざわざ人間に荒ぶる神を殺させたんだ? 例え神殺しの力を持っていたとしても荒ぶる神なんてそう簡単に人間が殺せる相手じゃないだろう?」

「同じ神でも荒ぶる神を殺す事は容易ではありません。故に人に神を殺す事に特化した力を与え荒ぶる神々を殺させたのではないかと」


「まさか神奈(かんな)は俺がその尊月一族の子孫だとわかっていたのか?」

「いえ、もしわかっていたのなら初めにそうおっしゃっていたはずです。真人さまの力は神に関わった事で先祖返りによって目覚めたものなので神奈さまも気づいてはおられないかと、大家津姫命さまのご様子から前世の真人さまは抓津姫命さまにもご自分が尊月一族だとは打ち明けてなかったようですので」


 先祖返(せんぞかえ)り

 間歇遺伝(かんけついでん)・隔世遺伝(かくせいいでん)ともいう。

 何代も前の先祖がもっていた遺伝上の形質が、突然その子孫のある個体に現れる事。

 人間に尾が生じたり異常に毛が生えたりする類。

 帰先遺伝(きせんいでん)。


 翌日。

 真人は神域と現世を繋ぐ社を通って現世にきていた。

「うちの先祖?」

 真人は尊月一族について何かわからないかと伯母の家まで話を聞きに来ると、伯母は真人に飲み物を用意しようと台所にある電気ポットでお湯を沸かし始める。

「カフェオレでいい?」

「うん、神社の仕事で氏神(うじがみ)っていう同じ氏名(うじな)の一族の人たちだけが祀った先祖神の話を聞いて、うちはどうなのかなってちょっと興味が湧いて」

 真人は返事をしながら居間の炬燵に足を入れると、伯母に神域や前世の事を話さなくて済むよう別の理由(わけ)を説明した。

「確かお爺さん、あんたの曽祖父(ひいおじい)さんの時に一族でこっちに越してきたって聞いた事はあるけど、氏神とか先祖神というのについては聞いた事ないね」

 伯母は粉末のカフェオレと砂糖をカップに入れると電気ポットからカップにお湯を注ぎスプーンで混ぜて真人の前に差し出す。

「ありがと。曽祖父さんの代からここに住んでるって事?」

 真人はカフェオレを一口飲んでから聞いた。

「いや、なんか親族みんなでこっちに越してきて高月村というのを作ったらしいけど、その後の市町村合併とかで村の名前も消えてから、みんな散り散りになったって言ってたね。この家を建てたのも私のお父さん、あんたのお爺さんだから」

 伯母は尊月一族やその使命については知らない様子だった。


 伯母からは尊月一族について何も情報を得る事が出来なかった真人は、駄目元で古事記や日本書紀に詳しい乙舳(おつとも)なら尊月一族について何か知っていないかと横浜市内にある神社の社務所まで来ていた。

「……尊月一族ですか」

 乙舳に今までの経緯を説明すると少し驚いた様子を見せたものの、すぐに平静を取り戻し何かを考え初める。

「少し驚きましたが、それよりも今まで真人さんがなぜそれほどまでの力を持っているのか考えると、これで納得できる部分もあります」

「……そうですか」

 真人は乙舳の意外な反応に戸惑う。

「……真人さんにとってはすでに日常になってしまってるのかもしれませんが、神さまの姿が見えてその神さまの住む神域の管理人をしているなんて普通なら考えられない事ですよ?」

 乙舳は真人の反応を見ると社務所内の本棚に移動し何かを探しながら答えた。

「そうですか……、いや、確かにそうですね」

 真人は自身に言い聞かせるように呟くと神奈に出会ってからの今までの出来事を思い返した。


 きっかけは神奈に出会った事だが、前世で抓津姫命と関わり加護を与えられていたり、尊月一族という神殺しの一族の子孫だったりと、かなり稀有な事象なのだろう。


「尊月一族の事はわかりませんが神社庁の管理する資料によれば明治(めいじ)二十二年まで神奈川県南多摩郡(かながわけんみなみたまぐん)に高月村(たかつきむら)という村が存在していたとあります」

 乙舳は本棚からか持ってきたファイルをパラパラと捲りながら説明する。

「そんな資料が神社庁にあるんですか?」

「各神社の名前にはその鎮座地(ちんざち)の地名がつけられていますので、社名が変更になった記録を調べていけば、昔の地名を調べる事も出来ます」


 社名と社号。

 神社の名称は鎮座地の地名や祭神名(さいじんめい)からなる社名と神社の由緒や社格に由来する社号から出来ている。


 社格は古事記や日本書紀などの神話に登場する神や天皇を祀る神社につけられる。元々は伊勢神宮(いせじんぐう)の事を指している神宮と菅原道真(すがわらのみちざね)や徳川家康(とくがわいえやす)などの親王や人間神、天皇以外の神を祭神とする神社につけられる事が多い宮と出雲大社(いずもおおやしろ)など、由緒正しく有力な神社につけられる。戦前は出雲大社のみが名乗っていた大社とそれ以外の神社で、大きな神社から祭神を勧請している。『○○社』という略称で呼ばれる事もある神社などに別れている。


「神奈川県南多摩郡にあった高月村は明治二十二年(一八八九年)四月一日の町村制施行(ちょうそんせいしこう)により、留所村(とめどむら)、北大沢村(きたおおさわむら)、本丹木村(ほんたんぎむら)、中丹木村(なかたんぎむら)、八日市村(ようかいちむら)、横山村(よこやまむら)、左入村(さにゅうむら)、滝山村(たきやまむら)、梅坪村(うめつぼむら)、谷野村(やのむら)、宮下村(みやしたむら)、戸吹村(とぶきむら)と合併し加住村(かすみむら)となり、昭和三十年(一九五五年)四月一日に加住村が八王子市へ編入。その後、昭和三十一年(一九五六年)十月一日に旧加住村大字高月(きゅうかすみむらおおあざたかつき)と同大字滝山(どうおおあざたきやま)の一部が高月町(たかつきまち)となっています」

「思っていたより近いですね」

「宇迦さまの話から考えると、尊月一族は首都が移る度に自分たちもその近くに移り住み国を陰から支え続けてきたのかも知れませんね。そしていつしか人々から神さまへの信仰が薄れていくに連れて尊月一族の役目も減っていき一族は普通の暮らしを送るようになっていったのでは」


「という事はその高月町には他の尊月一族の子孫がいるかもしれないって事ですか?」

「かも知れませんが、当時の尊月一族の血はだいぶ薄れてしまっているでしょうから高月町で暮らしている人たちに真人さんと同じような力を持っている人はいないと思いますよ」

「そうですか……」

 真人はもしかしたら自分と同じ境遇の人がいるかもしれないと期待するが乙舳の言葉を聞くと語気落ちし落胆しながら肩を落とした。

「宇迦さまが仰っていた瀬織津姫(せおりつひめ)さまは神道の大祓詞(おおはらえ)に出てくる水神ですが、古事記や日本書紀には登場しない謎多き女神です。人々の罪や穢れを祓う浄化の神である一方で、正体については様々な考察がなされており天照大神さまとも同一視される事もあります」


 瀬織津姫命(せおりつひめ)

 瀬織津姫は、神道の大祓詞に登場する神である。

 瀬織津比咩・瀬織津比売・瀬織津媛とも表記される。

 古事記や日本書紀には記されていない神名である。

 清らかな早川の織りなす瀬にいらっしゃる瀬織津姫。

 六月末と十二月末に行われる大祓神事であげられる大祓詞に登場する祓戸四神の一柱で山に降り注いだ罪や穢を清めながら海へ運ぶ神様として知られている。


 瀬=川など水辺の瀬を表す。

 織=織る。重なりあう

 津=川などの水辺。

 姫=女神


 つまり、流れが折り合う川の瀬にいらっしゃる神となる。

 瀬織津姫は瀧や川など水辺の神さまであり川や瀧の近くで信仰される事が多い。


 真人の落胆した様子に乙舳は慌てて話題を変える。

「大祓詞?」

「大祓詞とは、神道の祭祀に用いられる祝詞の一つです。六月三十日に行われる夏越(なつごし)の祓(はらえ)、十二月に行われる大祓式(おおはらえしき)で全国の神社にてあげられ年の穢を祓うとされています。年に2度行うのは太古の日本は元々半年で1年と数えるとされており、その名残だと云われています」

 そう言うと乙舳は本棚から一冊の冊子を持ってきて開くと真人に見えるようにテーブルに置く。


 高山の末 短山の末より

(たかやまのすえ ひきやまのすえより)

 佐久那太理に落ち多岐つ

(さくなだりにおちたぎつ)

 速川の瀬に坐す

(はやかわのせにます)

 瀬織津比売と云ふ神

(せおりつひめというかみ)

 大海原に持ち出でなむ

(おおうなばらにもちいでなん)

 此く持ち出で往なば

(かくもちいでいなば)

 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百會に坐す

(あらしおのしおのやおじのやしおじのしおのやおあいにます)

 速開都比売と云ふ神

(はやあきつひめというかみ)

 持ち加加呑みてむ

(もちかかのみてん)

 此く加加呑みてば

(かくかかのみてば)

 氣吹戸に坐す氣吹戸主と云ふ神

(いぶきどにますいぶきどぬしというかみ)

 根國 底國に氣吹き放ちてむ

(ねのくにそこのくににいぶきはなちてん)

 此く氣吹き放ちてば

(かくいぶきはなちてば)

 根國 底國に坐す速佐須良比売と云ふ神

(ねのくにそこのくににますはやさすらひめというかみ)

 持ち佐須良ひ失ひてむ

(もちさすらいうしないてん)

 比く佐須良ひ失ひてば

(かくさすらいうしないてば)

 今日より始めて罪という罪は在らじと

(きょうよりはじめてつみというつみはあらじと)

 祓へ給ひ清め給ふ事を

(はらえたまいきよめたまうことを)

 天つ神 國つ神

(あまつかみ くにつかみ)

 平けく安けく聞こし食せと白す

(たいらけくやすらけくきこしめせともうす)


「ここに出てくる内容は神道において、祓をつかさどる神様として瀬織津姫さまと速開都比売(はやあきつひめ)さまと氣吹戸主(いぶきどぬしのかみ)さまと速佐須良比売(はやさすらひめ)さまという祓戸大神(はらえどのおおかみ)が、私たちの様々な罪や穢れを取り払ってくれるという意味です。瀬織津姫さまは私たちの祓い清められた罪や穢れを、高い山低い山の上から、谷間を勢いよく流れ落ちる早川(はやかわ)の瀬から大海原に流し去ってくれる神様としてとても重要な祓いを司る川の神様なのです」

 乙舳は冊子に記された大祓詞の瀬織津姫の文字の部分を指しながら説明する。

「宇迦からは瀬織津姫は天照大神の四つの魂の内の一つを荒神の禍津日神の魂へと変え分離し、その魂を瀬織津姫として月読尊が尊月一族と共に静めたと聞きました」

「もしかしたら当時の人々が天照大神さまに敬意を表して後の世で天照大神さまが貶されないように浄化の神としたのかも知れませんね。実際、瀬織津姫さまが祀られていた神社のご祭神が天照大御神之荒御魂(あまてらすおおみかみのあらみたま)という名前に代わっている事例が多くあります。天照大御神之荒御魂とは天照大神さまの荒々しい魂であるという意味で、この説は奈良時代(ならじだい)に編纂されたとも言われる『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』や伊勢神宮の宮司の作成した書物、瀬織津姫さまを祀っていた神社の社史にも見られます」

 言いながら乙舳は真人の顔色を窺うようにじっと見つめる。

「……どうしました?」

「い、いえ……」

 乙舳の視線に真人が気づくと乙舳は誤魔化すように視線をそらし、その乙舳の様子で真人は乙舳が自分に気を遣ってくれていた事に気がついた。

「そういえば何で尊月一族なのに姓には尊(みこと)じゃなくて高(こう)の字を使ったんですかね?」

 真人は乙舳に気がついた事を悟られないように明るい声で話題を変える。

「国を陰から支えるには尊月一族の尊という字は目立つからではないでしょうか? 今と違って昔は尊に月ではすぐに月読尊さまを連想してしまいます。ですので、今の文字を使うようになった時に高に変えたのではないでしょうか」

 乙舳は真人の様子を見ると安堵しながら答える。

「今の文字の前というと、前に言っていた上代日本語ってやつですか?」

「いえ、上代日本語の文字は今とほとんど変わらないです。今使われている漢字が伝来する以前に古代の日本では固有の文字がなく神代文字(じんだいもじ)というものが使われていたといいます。主に神社の御神体や石碑や神事などの一部に使われているだけだったので目立たなかったのでしょう」

 その後も二人は会話を続け、外が暗くなってくると真人は乙舳に礼を言って神域へと戻っていった。


 数日後。

 横浜市にある天照大神が祀られた神社で一人の子供が遊んでいた。

 子供が神社の境内を探検していると、境内にある森の中で、生い茂った木々に隠され長い間立ち入るものが誰もおらず寂れてしまっている広場を偶然見つけた。

 その広場は子供の低い目線から見てやっと気づくか気づかないほどに隠れており、広場内に何かの形を表しているのか小さな古い石碑が規則正しく設置されていた。

 まるで秘密基地を発見したような気になった子供はその広場内に宝物がないかと探し回る。

 だが、いくら探しても宝物を見つけられず飽きてきた子供は長い間風雨にさらされ朽ちてしまい、ただの石と見分けがつかない小さな古い石碑を興味本意で持ち上げようとして倒してしまった。

 しかし、ただの石と思っている子供は石碑を倒してしまっても特に慌てる事はなかったのだが、倒れた石碑から黒い靄が立ち込めだすとその靄を見た子供は急に怖くなりその場を逃げ出した。


 黒い靄が立ち込めたその古い石碑には瀬織津姫之荒御霊鎮魂(せおりつひめのあらみたまちんこん)という文字が刻まれていた。


 数日後。

 突如、各地で人々による放火や強奪などの暴動が発生する。

 暴動を起こしているのはお年寄りから小さな子供まで老若男女問わず暴行・脅迫・破壊行為を行っていた。


「はっ? 暴動?」

「はい。神奈さまが師岡(もろおか)さまより現世で人々による暴動が起きている事を真人さまに伝えるように言付かったそうで」

 神域にある家の居間で師岡から神奈を通じて真人に現世で暴動が起きている事が宇迦から聞かされる。

「それは外国じゃなくて日本で暴動が起きてるって事なのか?」


 日本では人種や宗教の差別問題が大きくはないため、そもそも暴動を起こしてまで社会に対する不満を爆発させようという人が諸外国と比べて多くはない。

 諸外国で暴動を起こしやすい貧困層が日本では自分の意思決定の結果として貧困に陥ったともいえるため、社会に対する大きな不満を持ちにくいからと考えられている。


 聞きながら真人が神奈の顔を見ると、神奈は何も言わずに御饌の入れたお茶を飲んでいた。


「師岡さまは荒神が関係しているのではないかと仰っていたようですが、暴動が落ち着くまでしばらく真人さまには現世に来ないようにと言付かったそうです」

 何も答えようとしない神奈を見て代わりに宇迦が答える。


 確かに暴動の原因が荒神であるなら真人しか解決する事が出来ないが、かと言って、そのために暴動が起きている今の現世に真人が行っても暴動に巻き込まれれば荒神に対応する事が出来なくなってしまうかもしれない。

 真人は苛立たしい気持ちを押さえながら暴動が落ち着き現世に行けるようになる時を待った。


 一週間後。

 暴動は警察の機動隊によって数日後には抑えられたが小規模な衝突は各所でいまだに続いてるらしく、真人は宇迦に頼まれ一週間様子を見てから、神奈と危険かもしれないと真人の身を案じた宇迦に連れていくよう言われた御饌を連れて現世に向かった。


 神域と現世を繋ぐ社を通って現世に着いた真人は街を見て愕然とした。


 見慣れていたはずの街は見る影もなく、そこら中に様々なものが散乱し、所々から黒煙が上がり道路に止まった数台の車は金属バットや鉄パイプで叩かれたのか、すべての窓は割られ原形がわからないほど形が変わってしまったものや、中には火炎瓶でも投げつけられたのか路肩に止まった数台の車は燃えて車体の元の色がわからないほど黒焦げになってしまっているものもあり、まるで映画やニュースで出てくる外国の暴動によって荒廃した街にでも迷い込んだのではないかと勘違いするほどだった。


 真人は伯母の安否が気になりすぐにスマホを取り出し電話をかける。

「真人! あんた無事なの⁉」

 伯母は真人からの連絡を待ちわびていたのか、呼び出し音が鳴る前に電話に出ると開口一番大声で真人の安否を確認してくる。

「ああ、大丈夫だよ。伯母さんは?」

「こっちは住宅街だから、それほど被害は出てないけど、ずっと警察がパトカーから拡声器で住人に外出しないよう呼び掛けながら回ってるよ」

「そっか……」

 真人が伯母の無事を確認すると、自分も気をつけるよう伯母から釘を刺され真人は電話を切った。

「ふう……」

 伯母の安否を確認し一安心した真人がスマホをポケットにしまい振り返ると、その様子を見ていた御饌が口元を着物の袖で隠しながら真人の顔を見て笑っていた。

「……取り合えず秋葉(あきば)さんに会いに警察署に向かおう」

 その御饌の様子を見て真人はばつが悪くなり、二人にぎこちなく声をかけると早々に警察署に向かった。


「あの……」

 警察署に着くと真人は目の前を慌ただしく行き交う警官たちを避けながら受付で難しい顔をしながら作業をしている婦人警官に声をかけた。

「すいません。今一般の受付は……」

 婦人警官は真人の顔を一瞥すると目の下に隈ができるほど疲れきった表情でそう言うと再び作業に戻る。

「あっ、いえ、秋葉さんはいますか?」

「……あっ、……ちょっ、ちょっと待って下さい!」

 婦人警官は疲れた表情で再び真人の顔を見たかと思うと、すぐに慌てた様子で目の前の受話器を取り内線で誰かと話をする。

「……はい、わかりました。奥の第二会議室へどうぞ」

 婦人警官は電話を切ると急に態度を変え丁寧に第二会議室の場所を案内する。

 真人が第二会議室の扉を開くと中に並べられた長机の中の一つに秋葉と師岡がパイプ椅子に座り真人たちを待ち構えていた。

「お待ちしてました」

「お久しぶりです」

 秋葉が立ち上がり軽く頭を下げながら挨拶すると師岡もゆっくり立ち上がりやわらかく微笑みながら挨拶をしてくる。

「……お久しぶりでございます」

 真人が驚き言葉を失っていると師岡はすぐに真人の横にいる御饌に向かって深々と頭を下げ挨拶をする。

 真人は師岡に御饌が見えている事に驚くが元々神奈が見えているのだから御饌が見えていても不思議ではないとすぐに納得する。


「……お久しぶりです」

 真人はやっと師岡に挨拶を返すと秋葉に座るよう促され近くのパイプ椅子に座った。

「暴動に荒神が関係してるかもしれないという事ですが」

「確証はありませんが、この日本でこれほどまでの暴動が起こる事はあり得ません。真人さんも最初に聞いた時は信じられなかったんじゃないですか?」

「それは……」

 師岡に言われ真人は神域で宇迦と話していた時に外国の話だと思い信じなかった事を思い出した。

「そうだとしてもあんな……、まるで映画やニュースで見る外国の暴動のような状態になるまで激しい暴動が起こるなんて、そもそもその暴動を起こしている人たちは何を訴えているんですか?」

 真人は見慣れた街の変わり果てた惨状を思い出しながらも、未だにその現実を受け入れる事が出来なかった。

「明確に何かを訴えてるのではなく対応した警官や機動隊によると一人一人が個々の不満やストレスを口にしていたようで」

 秋葉が師岡に代わって答える。

「今この現代社会では、年々激しくなる競争社会や管理社会の中で現代人は多くのストレスを抱えています。そしてそれが原因で怒り、憎しみ、恨み、妬み、嫉み、悲しみ、苦しみ、攻撃性などの負の感情やストレスといった心の病にかかる人が増えてしまい、現世はそういった穢れで溢れてしまっているのです。おそらく、暴動を起こしている人たちは元々心の内にそうした負の感情やストレスを抱えていた人たちです」

 秋葉の答えに付け加えるように師岡が説明する。

「実際、最近は真人さんのお陰で神様が関わる事件もすぐに解決できていますが、本来、神様が関わる事件は起きても数年に一度か多くても一年に一つ起きるくらいで、その事件も数年かけて解決していたくらいで、現在のように一年の間に何度も起きる事は異常なのですよ」

「……もしかして最初の頃、正式に神域の管理を任せてもらう時に言っていた。いい加減で気に入らないというだけで災厄を起こしたり、直接人間に危害を加え恐れられた荒ぶる神とはこういう事を想定して言ったんですか?」

 真人は正式に神域の管理を任された時の師岡との会話を思い出した。

「もちろん今まで真人さんが関わってきた荒ぶる神々もそうですが、この暴動の原因が荒ぶる神なら暴動はやがて国中に広がりやがては世界中に広がる恐れがあります」

「……取り合えず、まずは暴動が荒神と関係があるか真人さんに確認していただいて、後の話はそれから話していただくという事でいかがですか?」

 二人の様子が少しずつ険悪な雰囲気になってきたと感じたのか、秋葉は居心地が悪くなり師岡が言い終わると同時に二人を落ち着かせるために穏やかな口調で二人の間に割って入り二人の会話を遮った。

 二人は無言で席を立ち会議室を出ると秋葉が手配した制服警官の運転するパトカーで現在暴動が発生している現場に向かった。


 暴動が発生している現場に着くと機動隊と少数の暴徒と化した一般人が衝突していた。

 様々なものを機動隊に向かって投げつけながら騒ぐ暴徒たちに対し機動隊は防御盾で身を守りながら対応していた。

「いかがですか?」

 助手席に座った秋葉は後部座席に座る真人に向かって聞く。

 秋葉に聞かれ真人が暴動を起こしている人たちを見つめると暴徒たちから出る穢れが空中に漂う黒い玉と繋がっている事が確認できる。

 その黒い玉はよく見ると中央に無表情な瞼を閉じた青白い女性の顔があった。

「あれは……禍津日神か?」

 真人が女性の顔のある禍津日神に似た黒い玉を確認すると、突然その黒い玉と暴徒たちを繋ぐ穢れが太くなったかと思うと暴徒たちが凶暴化し雄叫びを上げる。

「これ以上は危険です。一旦戻りましょう」

 突然の事態に危険を感じた秋葉が言うと、それを聞いた運転手の制服警官は慌ててパトカーのハンドルを切り返し三人は警察署に戻った。


 黒い玉は禍津日神に似ているが禍津日神特有の禍々しさが感じられなかった。


 黒い玉は禍津日神に似ているが穢れを司る違う神だと考えた真人は乙舳に詳しい話を聞きに行くため市内のとある山の中にある神社に来ていた。

 神社の外観を見た真人はここまで暴動の被害がきていない事を確認して安心すると神社の社務所へと入っていく。

 この社務所では壁中にガラス扉がついたアンティーク調の本棚や家具が並んだ社務所で古事記や日本書紀の写本など、日本の神に関する資料を管理している。

 いつも本が山積みにされたテーブルには一層本が積まれ、さらには横にある二つの二人掛けソファーにも、ところ狭しと本が置かれ、そのソファーのやっと人一人座れるほどのスペースに線の細い眼鏡をかけた男が座って手に持った何かの紙の資料を読んでいた。

「今日は一段と荒れてますね」

 その惨状を見た真人は何事かと乙舳に声をかける。

「ああ、真人さん。ちょっと発見がありまして」

 乙舳は真人に気づくと資料を真人に見えるように持ち上げる。

「……ちょっと今起きている暴動について急いでお聞きしたい事があるんですが」

 何を発見したのか気にはなったが、今は暴動を治めるのが先決だと自分の質問を優先した。

「そういえば、どこかで暴動が起きているとは聞いてましたが……」

 乙舳は世間で暴動が起きている事を知ってはいたが、いつもこの社務所に引きこもっているためか、はっきりとは事態を理解していない様子だった。

 真人はソファーに置かれた本を整理して座れる場所を確保するとソファーに座り暴動を起こしている暴徒たちに禍津日神に似た神が憑いていた事を乙舳に説明した。


「……そうですか、ですが禍津日神については以前にも説明した通りで私にはそれ以上の事は教えて差し上げる事はできませんが、……何かありましたか?」

 乙舳は途中まで言いかけて真人の様子から何か以前の禍津日神と違い対応に苦慮するような不可解な事態が起きたのではないかと推察した。

「実は……」

 真人は暴徒たちと繋がった禍津日神の中央に無表情な青白い瞼を閉じた女性の顔があった事を話した。


「女性の顔を持った禍津日神ですか……」

 そう言うと乙舳は話すためにテーブルの端に置いておいた先程まで読んでいた資料を真人に向けて差し出す。

「実は数日前、市内にある天照大神さまを祀る神社の境内で瀬織津姫之荒御霊鎮魂と刻まれた古い石碑が見つかりました。そこは先日お話しした瀬織津姫さまが祀られていたご祭神が天照大御神之荒御魂に代わっていた神社の一つです」

 そう言いながら乙舳は資料に記された神社の境内の地図の端にある森を指差す。

「瀬織津姫って……確か人々の罪や穢れを祓う浄化の神である一方で、天照大神と同一視される事もある……でしたか。宇迦の話では天照大神が荒神である禍津日神になったため、四つある魂の一つを分離し瀬織津姫と名付け静めたという事でしたが」

 真人は乙舳と宇迦から聞いた瀬織津姫についての記憶を頭の中から引き出しながら語る。

「瀬織津姫さまは祓戸大神(はらえどのおおかみ)として神道の大祓詞に出てくる水神であり、古事記や日本書紀には登場しないため素性のよくわからない女神さまです。私たちの祓い清められた罪や穢れを、大海原に流し去ってくれる瀬織津姫さまがどうして荒ぶる神の禍津日神となり国に災いを招いたのかは解っていません」

 乙舳は説明しながら本棚から、以前、真人に見せた冊子を持ってきて大祓詞が記された箇所を開き真人に見えるようにテーブルに置いた。


 高山の末 短山の末より

(たかやまのすえ ひきやまのすえより)

 佐久那太理に落ち多岐つ

(さくなだりにおちたぎつ)

 速川の瀬に坐す

(はやかわのせにます)

 瀬織津比売と云ふ神

(せおりつひめというかみ)

 大海原に持ち出でなむ

(おおうなばらにもちいでなん)

 此く持ち出で往なば

(かくもちいでいなば)

 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百會に坐す

(あらしおのしおのやおじのやしおじのしおのやおあいにます)

 速開都比売と云ふ神

(はやあきつひめというかみ)

 持ち加加呑みてむ

(もちかかのみてん)

 此く加加呑みてば

(かくかかのみてば)

 氣吹戸に坐す氣吹戸主と云ふ神

(いぶきどにますいぶきどぬしというかみ)

 根國 底國に氣吹き放ちてむ

(ねのくにそこのくににいぶきはなちてん)

 此く氣吹き放ちてば

(かくいぶきはなちてば)

 根國 底國に坐す速佐須良比売と云ふ神

(ねのくにそこのくににますはやさすらひめというかみ)

 持ち佐須良ひ失ひてむ

(もちさすらいうしないてん)

 比く佐須良ひ失ひてば

(かくさすらいうしないてば)

 今日より始めて罪という罪は在らじと

(きょうよりはじめてつみというつみはあらじと)

 祓へ給ひ清め給ふ事を

(はらえたまいきよめたまうことを)

 天つ神 國つ神

(あまつかみ くにつかみ)

 平けく安けく聞こし食せと白す

(たいらけくやすらけくきこしめせともうす)


「宇迦さまが仰った天照大神さまが禍津日神となって国に災いを招いた原因が罪や穢れに染まりやすい人間だとしたら……」

 乙舳は真剣な表情で言う。

「それは……」

「天照大神さまの持つ四つの魂の内の一つとして分離され瀬織津姫さまとして静められた後に、いくら罪や穢れを海原に流しても、またすぐに人間は罪や穢れに染まってしまい、そんな人間が本当に救う価値があるのか思い悩み、次第に瀬織津姫さまの精神は壊れていったのでは……。そして後に天照大御神之荒御魂と名を代えられ、救ってきた人間から祀られる事もなくなった事で瀬織津姫さまの精神は完全に壊れ禍津日神となってしまったのではないかと」


「伊豆能売神(いづのめのかみ)のように埋没神にされたと?」

「ええ、伊豆能売神さまは禍を鎮めるため人身御供(ひとみごくう)として神への生贄とされた元人間の巫女ですが、瀬織津姫さまは元々天照大神さまの四つある魂の一つが荒ぶる神となり分離された神様です。高い自尊心をお持ちだったはずです」


「何か瀬織津姫を止める方法か解決策のようなものはないんですか?」

「天照大神さまから分離された魂という以外にも、瀬織津姫さまは神話の中のたくさんの神様と同一であると考えられているのですが、その中に菊理姫神(くくりひめ)さまと同一という説があります」

「菊理姫神?」

 乙舳は立ち上がり、本棚から一冊の本をパラパラと頁を捲りながら持ってくると菊理姫神の詳細が書かれた頁を開いて真人に向けてテーブルの上に置く。


 菊理姫神(くくりひめのかみ)

 菊理媛尊(くくりひめのみこと)、菊理比咩神(くくりひめのかみ)、菊理比売神(くくりひめのかみ)、白山比咩大神(しらやまひめのおおかみ)。


 神仏習合においては白山大権現(はくさんだいごんげん)、白山妙理権現(はくさんみょうりごんげん)、白山妙理菩薩(はくさんみょうりぼさつ)という名前で語られる事もある。


 日本書紀に一度だけ出て来る謎の神。


 菊理媛神が神話に出てくるのは、日本書紀の一書の「菊理媛神亦有白事」この八文字だけである。

 どのような神格や系譜を持っているか、全く語られていない。


 この八文字が出て来る場面は、死者である伊邪那美と生者である伊邪那岐が言い争う泉平坂(よもつひらさか)である。

 神産みで火の神、迦具土(かぐつち)を産んだ伊邪那美は女陰に怪我をしてやがて神避(かむさ)る。

 伊邪那美に一目会いたいと伊邪那岐は黄泉の国まで行くが、その変わり果てた醜い姿を恐れ逃げ帰ってしまう。

 姿を見られた事を恥じた伊邪那美は逃げる伊邪那岐を追いかける。

 そして泉平坂で二人は言い争うのだが、そこに泉守道者(よもつちもりびと)が現れ伊邪那岐に対し、伊邪那美の言葉を取り次ぐ。

 この時に、菊理媛神が「何か」言ったところ、伊邪那岐はそれを褒め素直に帰るのである。

 何を言ったかは書かれていない。

 ただ、伊邪那岐に対してもの言える神様であるという事は、伊邪那岐と同等の神格を持つか近しい血筋の神格を持つ神なのかもしれない。


『くくり』は物事を『くくってとりまとめる』が語源である。

 つまり、死者である伊邪那美と生者である伊邪那岐の間をとりまとめた事に由来するというのが一般的である。


 イタコとしての神格。

 イタコとは霊を自分の身体に憑依させて代わりにその霊の意思などを語る事ができるとされる口寄せという術を行う巫女であり、菊理媛神は死者と生者の仲を取り持った事からイタコの始祖だと考えられている。


 山中他界という思想がある。

 山は祖霊の宿る神聖な場所であり、みだりに踏み込んではならないとする考え方である。

 つまり、山は異界、この世ではない場所である。

 菊理媛神は神避り、異界の住人となった伊邪那美の言葉を伊邪那岐に取り次ぎ二人の仲を取り持った。

 この事から縁結びの神として知られている。


「菊理姫神さまは泉平坂(よもつひらさか)で伊邪那岐さまと伊邪那美さまの仲裁をしたとして縁結びの神様として祀られていますが、人の運命は時の理、人の理によって人生は大きく変わるとし、それを予測して試練を与えたり縁を切ったりと一般の人には少し厳し目の試練を与える神様とも云われています」

「あの暴動も試練だと?」

「確証はありませんが、瀬織津姫さまが天照大御神之荒御魂と名を代えられ人間から祀られる事がなくなった事で精神が壊れてしまい禍津日神となってしまったのなら、いくら穢れを浄化しても正気に戻させる事はできないかもしれません。ですが、もし菊理姫神さまとして人間への厳しい試練を与えているのであれば瀬織津姫さまが祀られていた神社の広場に菊理姫神さまを誘い込みその荒御霊を神奈さまのお力で再び鎮める事ができるかもしれません」

「もし禍津日神となってしまっていて瀬織津姫に正気を取り戻させる事ができなければ?」

「もし正気に戻せなければ、穢れを浄化し暴徒をおとなしくさせてから琥珀の刀で瀬織津姫さまの神格を断ち瀬織津姫さまには生まれ変わっていただく事しかできません」

 乙舳は真人の問いに真剣な表情で答える。

「……仕方ない事かもしれませんが、自分たちの所為で穢れに染まった神を生まれ変わらせるためとはいえ殺すなんて俺たち人間は傲慢ですね」

 そう言いながら乙舳の顔を見た真人は覚悟を決めると悲しそうな表情をしながらどこか遠くを見つめる。

「ですが、瀬織津姫さまも精神が壊れたままでいるよりも生まれ変われた方が救われるのではないでしょうか」

 真人の表情を見た乙舳は咄嗟に真人を気遣う。

「……そうですね」

 言いながら真人は抓津姫命の最後の言葉を思い出した。

 抓津姫命も神格を断たれる事で解放され救われた。


 乙舳に話を聞いた真人は神奈と御饌を連れて乙舳から聞いた瀬織津姫之荒御霊鎮魂と刻まれた古い石碑が境内で見つかった天照大神を祀る神社に来ていた。


 乙舳に見せられた地図の記憶を頼りに神社の境内の端にある森の中に入っていくとすぐに広場が見えてくる。

 その広場の中にはいくつかの古い石碑が規則正しく設置されていた。


「もしかしてこの石碑は神社の建物と同じ配置になってるのか?」

 朽ちていてよく見ないとわからないが詳しく調べていくと配置された石碑の位置は入ってきた周囲の森を鎮守の森と見立て、それぞれの石碑が二の鳥居や狛犬や拝殿など簡易的な神社の建物の配置になっており、本殿の役割を果たす石碑が倒されている事に気づいた。

 真人はすぐに秋葉に電話してその事を伝えた。


 数日後。

 真人が秋葉に天照大神神社の石碑の事を話すと師岡の手配で神社の森の中の広場はきれいに整備され朽ちてしまっていた石碑は石工職人の手により新しい石碑に代わり倒されていた石碑も元の位置に新しい石碑が置かれていた。

 その天照大神を祀る神社の前まで機動隊が暴徒たちの気を引いて誘導すると、その場に身を隠して潜んでいた他の機動隊によって暴徒たちは一気に検挙されていく。

 暴徒たちがすべて捕まり暴動が収まると瀬織津姫から暴徒たちに繋がっていた穢れが途切れ、今度は機動隊へと向かっていく。

 広場から見ていた真人が機動隊へ向かう瀬織津姫の穢れに持っていた御神札を両手で突き出すように構えると、瀬織津姫から黒い穢れが御神札に吸い込まれていき真人の身体を黒く侵食していく。


「ぐっ……神奈!」


 真人が神奈の名を呼ぶと、先ほどまで吹いていた風が止まり森の草木が揺れる音が止むと辺りは静寂に包まれ、周囲から神奈を中心に精霊が光の靄となって集まり段々と数人の人の形を成していく。


 人の形になった精霊は横笛や鼓などの楽器を持ち、神奈が立ち上がると一斉に演奏を始める。

 演奏に合わせて神奈がしばらく舞い続けると真人の身体の穢れによって黒く侵食された箇所が次第にゆっくりとだが浄化されていく。

 ――だが、穢れが浄化され真人が身体の痛みが和らいでいく事に安心すると。

「……痛い」「……苦しい」「……殺さないで!」

 突然、真人の頭の中に事故や病気、誰かに殺された人たちの死ぬ瞬間の痛みや苦しみが一気に流れ込んでくる。

「……なん、だ! これは?」

 真人は御神札を手放し、頭を抱えてうずくまる。

 何事かと御饌が真人に駆け寄ってくる。

「……頼む! 止めてくれ!」

 真人は恐怖に身体を震わせ大声を上げて苦しみだす。

 何が起きたのかと御饌が瀬織津姫を見ると瀬織津姫の黒い玉が真っ赤に染まっていく。

「……愛しい私のい………。こんな事をするのならば、貴方の……を毎日千人を締め殺して……いましょう」

「……⁉」

 流れ込んでくる死者たちの声に混ざり一際強く伝わってくる痛みと苦しみがあった。


 すると、どこからか女性の奇妙な笑い声が聞こえてくる。

 その笑い声はまるで真人の様子を見て楽しんでいるような無邪気な笑い声に思えた。


 笑い声が収まると禍津日神に似た赤い玉は青白い女性の顔だけを残し硝子のように割れて砕け散り消えていくと、一人の女神が姿を現し無表情だった青白い女性の顔は生気を取り戻したように赤みを帯びていき、閉じていた瞼を開くと瀬織津姫は真人たちを見て優しく微笑んだ。

 神奈がその場にゆっくりと正座をすると精霊たちの演奏する曲が変わり神奈がその曲に合わせて先ほどまでと違う神楽を舞い始めると広場にある石碑が神奈の神楽舞いに呼応するように輝きだした。

 瀬織津姫が広場に入り本殿の役割の石碑の上に移動すると瀬織津姫の姿はその光の中に消えていった。


 瀬織津姫を鎮められた事に安堵した真人は地べたに座り込むと流れ込んできた一際強い声の事を考えていた。

「……毎日千人を締め殺して」

 確かにそう言っていた。

 戦争ともなれば一日に千人や一万人が死んだ時もあったかもしれないが、戦争兵器だろうか、それとももっと古い時代の呪いや呪術といった類いか。

 毎日千人もの人を殺そうと思うほどの感情とはどれ程のものか。


 そんな事を考えながらふと横を見ると御饌が心配そうな顔をしながら真人を支えようと手を差し出す。

「……ありがとう。大丈夫だ」

 真人はばつが悪くなり御饌から視線を反らしながら軽く手を上げて御饌の助けを断りながら瀬織津姫が消えていった石碑を見つめる。

「無事に鎮められたのか?」


「はい」

 舞を終えた神奈が近づいてきて同じように石碑を見つめながら答える。

「……なんだかとても疲れた。師岡さんたちへの報告は後にして今日は帰ろう」


 現世と神域を繋ぐ出入口である社を通って神域まで戻り神域にある家に向かって歩いていると真人は体調の異変に気づく。

 初めは疲れの所為だろうと思っていたが、次第に視界が歪みだし前を歩く御饌と神奈に着いて歩くのがやっとの状態で神域の家までなんとかたどり着いた。

「お帰りなさいませ」

 玄関に入ると同時に真人たちの帰りを待ち構えていた宇迦が出迎える。

 すると、その声に安心した真人は玄関に入った途端に全身から力が抜けてしまいその場に倒れた。

「……真人さま!」

 宇迦たちが慌てて真人に駆け寄ると倒れた真人の身体から穢れが発生し真人の身体を黒く侵食していた。

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