5

 市川の頭には、全身の血が、かっと昇っていた。目も眩む怒りに、すでに周りに気を回す心の余裕など完全に吹き飛んでいる。

 呼びかけられた王子──三村健介は見るも無残に今までの態度を急変させ、おろおろぶりは、見っともないほどであった。

 三村の視線が、睨みつける市川の目と合った。

 瞬間、三村の長い顎がだらりと下がり、両目が大きく見開かれた。さっと顔色が白くなり、まるで音を立てて血の気が引いていくようだった。

「すっ、すみませんっ! 僕が悪いんです! ご、御免なさいっ!」

 頭を抱え「ひいーっ!」と笛が鳴るような悲鳴を、長々と上げた。

 王子の急変ぶりに、パレードは凍りついた。蒸気自動車は急停止し、運転している兵士と周りを警護している騎馬隊全員が、何事かと厳しい表情で周囲を窺っている。

 遂に警備隊長の視線が、王子を睨みつけている市川の顔に止まった。さっと腰の指揮刀を抜き放ち、剣先を突きつける。

「そこの兵士っ! 何を騒いでおるっ?」

「へっ?」と、市川は我に帰った。きょろきょろと辺りを見回すと、演壇の顕官、王族、将軍たちが一斉に厳しい視線で睨みつけているのに気付く。

「いけねえっ!」

 市川は唇を噛みしめた。側にいた新庄プロデューサーは、必死にどこかへトンズラを決め込もうと、逃げ口を探している。

 洋子といえば……とっくの昔に姿は欠片もない。市川が叫んだ瞬間、雲を霞と逐電したのだ。

「その場を動くなよ!」

 指揮刀を振り翳した騎馬隊長は、さっと馬から降りると、猛然と演壇に駆け上がって、市川を目指して殺到する。

 市川には、何もできない。ただただ、自分を目掛け、怒りの炎を両目に燃え上がらせた騎馬隊長の顔を見詰めているだけだ。

 指揮刀の切っ先が、市川の喉元へ擬された。

「お前は誰だ! 所属は? 名前は?」

 真っ赤な顔で、騎馬隊長が矢継ぎ早に質問を重ねる。口許には真っ黒な髭を蓄え、髭先は念入りにポマードで固められて、ピンと両端に撥ね上げられていた。両目に、折角の閲兵式を台無しにされた怒りが、めらめらと燃えている。

 市川は、ぱくぱくと口を開くだけであった。答えようとするのだが、喉元に何か塊が込み上げてくるようで、一言も返答する余裕はない。

 隊長の視線が、市川の所属を現す肩章に止まった。表情が「意外なものを見る」とばかりに、一瞬ぽかんとした顔つきになる。

「近衛兵か! すると、シン中佐の指揮下にあるのだな?」

 シン中佐とは、新庄プロデューサーの現在の呼び名である。隊長の視線が、じろりと新庄に向けられる。

「中佐殿。これは、どういう騒ぎなのですかな?」

 隊長の階級は、大尉である。一応は上官だが、新庄の返答如何によっては、タダでは置かない意気込みが溢れている。

 新庄はどぎまぎとした態度で、身を強張らせている。やっと口が開いた。

「そ、それが、そのお……この暑さで、ちょっとおかしくなったのではないか、と」

「ふうむ。おかしく、ね!」

 隊長は皮肉たっぷりの表情になって、念入りに新庄の顔を、まじまじと見詰める。

 市川には隊長の胸の内で、中佐の階級を持つ新庄に対し、今にも舌なめずりしそうな内心を見てとった。

 騎馬隊と近衛兵は、すこぶる仲が悪い。

 王族に近侍する騎馬隊に対し、近衛兵は王宮全体を警護する。騎馬隊の隊長は階級は低く押さえつけられているのに対し、近衛兵の指揮官は少佐、中佐は当たり前。時には将軍までを輩出する仕組みに、癪に思っているのだ……とは、後で市川が新庄から知らされた内情である。

 新庄は背中を反らせ、高々と声を上げた。

「大尉!」

「はっ!」

 軍隊の規律に、隊長はかちんと音を立て踵を合わせると、背筋をピンと伸ばした。

「兵士の処分は、わたしが直に処理する! このような大事を招来させた責任を痛感し、念入りに調査を行うと約束しよう! 貴官は、即座に自分の本分に戻るよう、命令するっ!」

 騎馬隊長はピクピクと全身を震わせ、新庄への反感と、兵士としての規律に引き裂かれている。

 しかし、規律が勝り、渋々とではあるが、右手が挙がり、敬礼の形を取った。新庄は、さっと答礼を返す。

「行ってよろしい」

 くるりと背を向けると、隊長はしゃっちょこばった姿勢のまま、パレードに戻った。

 隊長が乗馬すると、やっと閲兵式は再開された。静々と列が動き、がっくりと背中を曲げた三村を乗せた蒸気自動車が動き出す。

 じろり、と新庄は市川を睨みつけた。

「市川君、ありゃ、超まずいぞ……超々……とにかく、こんな場面じゃ絶対あってはならん失態だ!」

 新庄は「ふーっ」と深々と息を吐く。歩き出し、ちょっと市川を振り向く。

 目には「なぜ従いてこない」と非難がありありと浮かんでいる。市川は、ぼけっと突っ立っていた。

 市川は慌てて新庄の背中を追いかける。

 背後を見ると、車から三村が、ぼんやりとした表情で、市川の動きを目で追っていた。

 演壇に居並ぶ全員は、反逆者を見る目で市川を睨んでいた。

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