時の回廊

YUMEZ(ゆめぜっと)

     

 壊れた秒針が音だけを通過させてゆく。ひとつ目のメモリに捕らわれた細長の針はみっつ音を刻んではメモリのそばに右、左へ行きつ戻りつ首を振らせてよっつ目の音で大きくゼロの淵へと飲まれゆく。よっつのビートが15の繰り返しを経て展開がなされてゆく。


 いいえ。それは間違っているわ、展開というけど分針は進まないのよ。だから15のサイクルなんて無意味なまやかしでしかないわ。それに秒針が1のメモリでうろうろしているのは大抵3のリズムで戻されているし時々4のこともある。この時計は時間が進んでいかない時計だから。

 未練は何色だかわかる? 未練に色なんてないわ、透明だから。未練は極細の強靭な糸、それが壊れた時計の秒針に固くくくられているわ。過去に頓着し過ぎたせいかもしれないわね、時計は、未来を忘れてしまったのよ。


 未練の糸、それは髭力ひげりょくと呼ばれるエネルギー。髭力が高いということは密度の薄い顔髭であるということ。伸ばしたり縮めたりが自由自在な力それが髭力、髭力が高ければ薄い顔髭をしているというのは剃るのがとても面倒だということで。


 じゃああの人もそうなるわね田之上正蔵。


 田之上は髭力が高い訳ではなく単純に髭が薄いだけだった。


 その日はとても清々しい始まりだったわ、授業で使われるくらいのみんなが普通に持ってるような何の変哲もないような絵の具チューブ、そんなとても小さな容れ物からその朝の世界は絞り出され途端に広がっていったわ。ビリジアンとレモンイエローが混じりあった顔料は飛びだして野原に変容したのよ。


 芋虫は巣を目指し野原を歩んでいた。恰好の的がある、柔らかな金属製の容れ物で、出入り口が体躯と比べて僅かなパーセントしかない狭さだ。構わず芋虫は巣に向けて出入り口へと頭部より直進する、ゆったりしずしずした中にも、弓を射るように全身をくねらせ繰り出されるバネのエネルギーは強靭だった。数パーセントの面積の金属の穿孔せんこうを通過するために凄まじい威力で衝突していた。金属の縁に肉の弾力を突き破って頭部より裂けていく、自らの生む重みににゅるにゅる潰れていき亀裂が深まりいかずちのフォルムに走らせていく、ビリジアンとレモンイエローの縞模様をそのまま溶かしたような鮮烈な色彩の体液がえぐ穿うがたれたみぞを伝ってこぼれ落ちていく。どろどろミキサにかけられたように溶けてしまってまだ、ねちょねちょと体液は自走するのだった。

 容れ物にはすっぽりと収まって。どろどろの芋虫と容れ物の容積はちょうど釣り合っていたようだ、どろどろの芋虫は、紙幣の中で二千円札を愛していた。


 二千円札。いずれ価値が上がると思ってわざわざ使わずにいたこともあったっけ、多い時で10枚くらいかな、だけど使っちゃった。そう云えば最近見かけないわねって思ってたんだけど実は消されちゃったらしいわね二千円札。ご近所付きあいで失敗しちゃってさ、こないだ引っ越したんだけど、ほんと目と鼻の先なんだけどね、たった1丁目違えただけなのに中東系の外国人がウロウロしているからびっくりしちゃって。こんなんだったっけ、とか、ちょっと目線が変わるだけでこんなにまるっきり違っちゃうんだ、とかとにかく色々考えちゃったんだ。だけどしばらくしてぱたっと見かけなくなっちゃったんだよ、まったく触れたことない人たちだったから正直異質だったしちょっぴり怖いと思ってたからほっとしたような気分もあったんだけどね、でもそのうちもっと怖い心地に囚われてしまったのよ。ずっと見かけていたあれは白昼夢かもしくはパラノイアかで実際は実在しないんじゃないかっていうとっても恐ろしい疑念を抱いてしまったの。すぐに氷解したからほっとしたけれどね、じつは中東の大金持ちが訪れていてしばらく滞在していたそうなの。それで二千円札をいたく気に入ったらしくて国じゅう集めまわっていたらしいよ。ほとんど回収できたらしいんだけどその途上で亡くなっちゃたらしくて頓挫、だけどね、祖国で火葬した時棺にはぎっしりと集められた二千円札が敷き詰められていたんだって。火葬場は異国の紙幣の灰が風に舞ったというからなんとも云いがたい不気味な情景よね。現地の民はこぞってちょっと触れれば壊れそうな紙幣の灰を奪い合ったというじゃない。どうせ集めても現地じゃ使えないのにね。だから二千円札はもうほとんど残っていないだろうって話なのよ。


 世界動物愛護団体が一斉にわが国を糾弾した。二千円札独自の風合いを醸し出すために必要とされているビリジアンとレモンイエローの混じり合う美しい色彩の顔料の原料が、生きながら絞られたとみなされる大量の芋虫ではないか、という推測に従って二千円札の発行を禁ずると共に膨大な賠償金を請求する、という内容だった。わが国は主張を全面的に否定している。


 中身が無くなりかけているチューブを幾重にも折り曲げて必死で絞り出す、ようやく飛び出た緑がかった白いペーストを口に含んだら甘苦い体液と鉄の混じった味がするの。それから爽やかな芳香が立ち上がる。

 これって共食いじゃないのかしら、目覚めのひと時にいつもそう思うんだ。壁に囲まれて窓一つない部屋へと閉ざされて、外の世界とつながっているのは小さな通気孔だけなの。あとは下水に通じてるこのおんぼろで汚い手荒い場だけか。トイレさえ備わっていないの。厳めしい面構えをしたあの男がほんのり顔つきを綻ばせて、待ちわびたように私のオムツを取り換えにくるわ。もう慣れちゃったのよ、臭かったのは始めのころだけで、今では少しだけすえた臭いがするミントの香りしか出てこない。食事はわざわざ皿に乗せられているミントタブレットだけよ。こんなの腹の足しにもならないじゃないって思ったわ、あの男はミントタブレットに関してだけは優しくて、欲しがれば欲しがっただけいくらでもお代わりをくれるの。だけどもう、それすら欲しくなくなったわ。体重が減ってしまってむしろそれに安定してしまったの、だから、前みたいに欲しいと思わなくなった、あの男がそのことを残念がっているのがわかるの。だけど、おかげで食事の時間をより愛おしく感じているのがわかる。もとから白い肌をしていたけど、陽にも当たらなければ食べられるのは小さな白い錠剤だけ。錠剤に緑色の粒が混じっているからなのか、肌には緑の色素が日を追うごとに細かく散らばっていくのがとっても不思議だった。


 体長2mを超す巨大なブラシクリーチャーが大軍をなして一挙に世界を駆逐してしまった。もはや人類は、細かな毛のビッシリ被われたように頭部へまざまざと密集している、ブラシクリーチャーの無機的なほどに純白で、反面狂ったようにせわしなくうごめく触手の、生け贄に過ぎなかった。

 大気を越したあたりに停泊する世界上空をふさいだ巨大な播種船はしゅせんから下ろされた、超高層エレベータが地上の架橋となって、触手の毒牙に昏睡こんすいするおびただしい人類の大群がリズムマシンのような機械的なビートを刻んで天へと駆け上ってゆく。

 播種船内、大規模な施設からなる工場には生け贄の瞬間を順番待ちする活けられた人体が。巨大なミキサで攪拌かくはんされ人肉はペースト状までミンチにされていく。


 あの子が信じられないペースでチューブを減らすようになったころ、ようやくペースト状のそれを食していると初めて気づいた時には、一体どれくらいの量が胃に収められていたのだろう。

 一枚すら売れたことのなかった画家である彼女の父の代わりに、大手ハミガキメーカーの工場のパートの少ない給料でやりくりする生活は厳しいものがあった。格安で購入できるという理由だけで歯ブラシや歯磨き粉が無駄に大量にストックされていく状態は今考えてみたらあのころの私自身の心の隙間を埋めるためのものだったかしら。それでも私は彼を愛していたわ。たとえいつまでも売れないとしても、私は彼には絵だけ描いていてほしくて。

 あの子の食欲が失せ始めたことに気づいた時にはすでにあの子はアレ以外口に含むことはなかったのよね。あの子と食事を共にすることは週の半分くらいしかなかったわ、今思えばそういったことがあの子の心を寂しくさせていたのよね。なにも気づいてあげられなかった。私と食事をする時「昨日食べ過ぎたんだ」とか「給食を食べ過ぎたんだ」とか云うばかりだった。それでも痩せていたり体調が悪そうな気配だったりがなくて。確かにせめてもの償いと思って私が夜勤の日の夕食は何人いても困らないくらいの量を作って自分をごまかしていた、あの子はそれを不思議と食べきっているものだと信じ込んでしまって。

 ある日彼が居なくなった。ショックでしばらく仕事ができなくなったわ。そうしてあの子との密な日々が。あれほどの量を平らげていたはずなのに毎晩何も食べることはなかった。あの子もショックなんだと考えたわ。それでもおかしい、とようやく考えるようになった。

 庭掃除をしている時やっとのことで真実を知った、庭には干からびた残飯がはびこっていたから。そしてあの子を密かに監視するように。

 後悔してるの。あの子はチューブ歯磨き粉だけ食べていた。止めさせるために一切職場から買わなくなった。みるみるあの子は生気を失い痩せていった。

 誰もいないアトリエであの子は大量の絵の具を嚥下えんげして中毒死したのよ。あの子は金属製のそのチューブへと取り込まれてようやく永遠の王国を見つけたの。


 回廊の中央には巨大な『時の柱』とそれを守る『時の番人』がいた。

 時を逸脱した世界であるがゆえそこには迷い込んだ霊魂でひしめいていた。『時の番人』の湛える大きな剣は霊魂を斬るためのものではない。霊魂を一太刀かざしてみてもスルリと抜けてしまうだけだから。

 『時の番人』は透明な糸で絡まった『時の柱』の秒針を斬るのである。すると行き場を失っていた時が再び正常に動いていく。

 彼はその迷い込んだ時を永遠であるとも一瞬であるとも告げるのである。それはどちらも正しかった。迷い込んだ者たちからすれば永遠のようでもあり、外部者からすれば気づくこともないほどの一瞬の出来事に過ぎないからだった。

 またひとつ、『時の番人』は糸を断ち切り、永遠は一瞬のもとへと取り込まれていくのだ…………

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