【序】Ⅴ『守るべき者』


〇 〇 〇


 必死に逃げる人々が濁流のように押し寄せては陽介の行く手を阻む。同時に《アンノウン》が地上に舞い降りて多くの人間を襲い始めていた。


 増え続ける人の波を避けるために陽介は建物と建物の間を縫うように自転車を操りながら無我夢中でペダルを漕いだ。


 絹を裂くような悲鳴が鼓膜を突き刺した。

 助けを乞う声を聴覚が捉えた。

 何かが引き裂かれて潰れる嫌な音が耳に張り付いた。


 食堂へと向かう中、顔の知らない他者が身も心も傷付き命を奪われていく。それを憐れむ余裕は今の陽介には持てなかった。

 僅かな余裕があれば、きっと『あの【青】のように戦えるのに』『気にしてあげられなくてゴメン』という想いで胸が張り裂けんばかりになっていたであろう。

 

 だが陽介は目の前のことで頭がいっぱいになっている。死に物狂いで距離を縮めているのには理由があった。

 明美の安否である。記憶喪失な上に身元不明の自身を傍に置いてくれた彼女の命が何よりも最優先事項だった。

 

 あの夜、逃げ続けた疲労と空腹に堪え兼ねて行き倒れになった自身を助けてくれた。名前も居場所も与えてくれた。それだけで十分。だから、


「今度は!」


 俺が助ける番だ。何もかも消えかけていた自身を救ってくれた。例え、それが波風立たないように付かれていた『嘘』でも構わない。

 陽介はペダルを漕ぐ足に力を入れる。何処かで爆発音が聞こえても、建物が倒壊する音が響いても彼は一心不乱になって目的地であるレインボウ商店街を目指した。


〇 〇 〇


「おばちゃん!」


 レインボウ商店街に辿り着くと陽介は自転車から飛び降りて乗り捨てた。ガシャンと大きな金属音を立てて倒れる自転車を無視して彼は急いで食堂の正面玄関を開ける。

 

 店内には誰もいなかった。食べ途中の拉麺からは仄かな湯気が立ち、定食の上には箸が投げ捨てられている。

 お冷がテーブルや床を濡らし、注がれていたグラスは物悲しく床で横たわっていた。

 《アンノウン》が侵入した形跡はないことを知ると陽介は安堵する。突然の警報に驚き、慌ててシェルターに避難したということが店内の様子から窺える。


 明美や商店街の人々の無事を祈りながら陽介は食堂の裏口から外に出た。《アンノウン》がいないことを確認し、最寄りのシェルターに避難しようと駆け出した。

 直後、女性の悲鳴が陽介の鼓膜を突き刺した。その声に彼は聞き覚えがある。

 

 陽介は悲鳴が聞こえた方向へと走った。周囲を忙しなく見回しながら辿り着いた先はレインボウ商店街から少し離れた場所にある花屋だ。

 色取り取りの花が飾られた店の正面では店主の老婆と明美が力なく座り込んでいた。

 恐怖で顔を歪めて震える彼女達を三体の《アンノウン》がじわりじわりと追い詰めている。


 心臓が強く脈打つ。

 目の前が真っ赤に染まる。

 全身がわなわなと震え出す。


 これは恐怖、ではない。『怒り』だ。その矛先は《アンノウン》ではなく、無抵抗の人間が無慈悲に殺されることを赦している現実に対してだ。

 

「離れろ、化け物どもおおおおおおっ!」


 陽介は地面を強く蹴った。居ても立ってもいられず彼は突進するが如く向かうと近くにあったゴミ箱を抱える。

 そのゴミ箱を《アンノウン》の一体に目掛けて思い切り投げ付けた。

 

 ゴミ箱は見事に命中し、《アンノウン》は体勢を崩して転倒する。他の《アンノウン》は攻撃を仕掛けてきた陽介を殺戮対象として優先順位を変更、瞬時に向きを変える。


 そして何の迷いもなく一直線に襲い掛かってきた。陽介は《アンノウン》の注意を自身に向けられたと確信するや否や直ぐに走り出した。

 看板や標識、武器になりそうな物を手当たり次第投げて《アンノウン》を引き寄せる。


「陽ちゃん!」


 叫ぶ明美に陽介は応えられなかった。彼女の呼び掛けに応えられない代わりに手を振ってウインクをした。

 明美は陽介の行動に驚く。まるで朝の出勤時に見せる顔だった。夕方には帰宅し、「ただいま」と言いながらその日の出来事を話してくれることを約束された証明だ。

 

 今は、どうだ?


 このまま帰って来ないのではないか?

 もしかしたら死んでしまうのでは?

 泡を浴びて《アンノウン》になってしまうのでは?


 次から次へと湧き上がる不安に明美は堪えられずに涙を流していた。


「陽ちゃん!」


 明美は立ち上がる。


「陽介!陽介っ!」


 遠ざかる陽介を追い掛けようとした時、花屋を営む市村に袖を強く掴まれる。


「明美ちゃん、行っちゃいかん。」

「放してください!陽介が、息子が!」

「行っちゃいかんっ!」


 あの子が変えてくれた未来を、作ってくれた時間を無駄にする気か?と力強く訴えるように真剣な面持ちで制止する市村に明美は言葉を失う。

 赤の他人であるはずの自分達を命懸けで助けてくれた陽介に明美は動揺を隠せなかった。


 皆、自分が可愛い。それは明美も同じである。避難先のシェルターで《アンノウン》が去るのを待ちたかった。

 しかしシェルターを前にして花屋の店主である市村の姿がないことに気付き、慌てて迎えに行ったのだ。


 市村は高齢のため足が悪くなっていた。「あの気味悪い化け物が来ても逃れられる自信はないよ」と常にぼやいていた。

 見捨てるわけにはいかなかった。彼女には旦那と一人娘がいた。しかし旦那との仲は悪く、彼が亡くなるまで喧嘩が絶えなかった。

 

 そんな両親の姿を見続けた一人娘は我慢の限界を迎え、縁を切って遠方の惑星に移住してしまった。両親の代から続く花屋だけが市村の存在意義となっていた。

 町ではとっくに化け物が徘徊している。そのような状況にも関わらず、助けに行きたいと明美が行動に出られたのは以前見た彼女の笑顔を思い出したからである。


(あの子、明美ちゃんの知り合い?)


 とても、とても嬉しそうな顔だった。話を聞けば陽介が花屋の手伝いをしてくれたと言うのだ。

 

(一丁前に何でもやろうとするんだよ。口煩く教えたらさ、ちゃあんと応えてくれたのさ。綺麗な花だと褒めてくれてさ、ばあちゃんが優しいからだなんてね。こんな老いぼれを褒めたって何も出ないのに。でも、良い子だね。)


 その時、初めて陽介に心を開いたのは市村だった。陽介は見た目や謎に包まれた身辺が原因で他者から怖がられ、職を転々とする羽目になった。心無い人間からは酷いことも言われたりした。

 

 レインボウ商店街の住人達も例外じゃない。最初は気味悪く思っていたが、気付けば昔の話になりつつある。

 自身の道を切り開こうと努め、他者との繋がりを大事にする陽介の直向きさに心を動かされ、希望を与えられたのは自分や市村だけでない。


 彼が来てから閑古鳥が鳴いていたレインボウ商店街は活気と笑顔に溢れていったのだ。

 まだ不安を抱く住人はいる。それでも陽介は少しでも彼らを安心させたくて笑顔で手を差し出し続けている。

 誰かのために努力してきた陽介が今も誰かのために命懸けで戦っていることに明美は耐えられなかった。


 もう十分だよ、と陽介を助けに行きたいが足手まといになる。彼が作った時間を無駄にしてしまう。

 陽介の無事を祈ることしか出来ない自分を歯痒く思いながら、明美は市村と支えながらレインボウ商店街の人々が待つシェルターへと向かった。


〇 〇 〇


「死にたくないなぁ。」


 陽介は弱音を吐くと後ろを振り向く。自身を狙って後を追う《アンノウン》の数は徐々に増えていた。

 

 人間を追っていた《アンノウン》。

 人間を殺していた《アンノウン》。

 数刻前は人間だった《アンノウン》。

 人間を求めて彷徨っていた《アンノウン》。


 陽介は恐怖を振り払うように走りながら初めて聞いたcolorsの歌を口遊んだ。呼吸が乱れて音程が狂おうとも彼は歌い続けた。


 この歌があったからこそ今日まで生き抜き、日々をより良くしようと努めることが出来た。悲しいことや苦しいことが遭ってもcolorsの歌が自身を癒してくれた。

 赤と白黒しかなかった自身に彩りを、真っ暗で見えない道を突き進むための勇気をくれた。


 恐怖を笑い飛ばすために歌う。

 最期の瞬間まで輝くために戦う。

 運命を変えるために走る。

 

 歌い続けた。戦い続けた。走り続けた。その先で陽介を待っていた結末は【行き止まり】であった。

 待ち伏せをしていたのか、それともまさかの偶然なのか。《アンノウン》が群れを成して彼に立ちはだかる。

 

 陽介は慌てて足を止めた。足は止まることを忘れたように縺れる。彼は体勢を崩して無抵抗のまま転倒する。

 舗装された地面の上で不格好に倒れる陽介の姿に《アンノウン》は嘲笑うように体を揺らしながら彼の周囲を取り囲んだ。


 死にたくない。

 死ぬのだけは嫌だ。

 痛いのも嫌だ。


 自身が現状を打破して生き延びるほどの奇跡など存在しないと悟るや否や彼は目蓋を静かに閉ざした。

 

 何もせずに死が訪れるのを気長に待てば良いのだ。死を望み、生を諦めてしまえば呆気ない幕切れを迎えられる。


 でも、


「諦めるわけには、いかない。」


 それは昔の話だ。


 闇色で塗り潰されそうになった意識を紅く染め上げる。生き延びることなど不可能なんて決めるものじゃない。

 重く閉ざされていた目蓋をこじ開ける。奇跡なんて存在しないと悟るものじゃない。


 何もせずに死が訪れるのを待とうとしていた全身に力を入れて立ち上がる。諦めてしまえるほどに自身の人生はちっぽけなものじゃない!

 

 陽介は鼻血を拭い、ズボンに付いた汚れを払うと今にも襲い掛かってきそうな大多数の《アンノウン》を強く睨み付ける。


「来いよ、化け物ども。全部倒してやる。」

「蛮勇に振る舞うのは勝手だが少し後ろに下がれ。死ぬぞ?」


 涼やかで不愛想な青い声が何処からか聞こえた。


 陽介は振り返るように一歩下がった途端、頭上から轟音とともに叩き付けるような突風が吹き荒れる。

 《アンノウン》を貫く青い光の眩しさと暴風雨のような衝撃に陽介は耐えられず体を屈めて目蓋を閉ざした。

 その刹那は陽介にとって長く感じた。水を打ったように静まり返る空間に恐る恐る目蓋を開ける。


 周囲を見渡すと襲い掛かろうとしていた《アンノウン》達は硬直していた。一時停止された映像のように微動だにしない大群に彼は現状を理解出来ずに戸惑う。

 何が起きたのだ?と首を傾げる陽介の瞳に入り込んだのは、《アンノウン》の胴体に突き刺さる複数の【青い剣】であった。


「【青】?」


 見覚えのある【青】に驚く陽介を余所に《アンノウン》の体が徐々に白く変色する。

 白に染まりきると粉々に砕け散った。一体、また一体と白に染まってはボロボロと砕けて粒子と化す。


 形成された白い砂山の上で【青い剣】は《アンノウン》の墓標のように刺さっていた。

 だが役割を終えたのか、ふわりと浮き上がると鳥の如く飛び立って陽介の頭上を通り過ぎた。 

 

 その行き先を青い瞳で必死に追い掛ける。辿り着いた先には青年の姿があった。【青】と白銀の鎧を身に纏い、対となる双剣を握る彼の傍へと剣の大群は帰還すると鎧の一部となって消滅した。


 鎧と言っても古い時代の装備ではない。《アンノウン》の殲滅だけに特化し、装着する人間を『戦闘兵器』として仕立てるための攻撃力と機動力に長けた装備だ。


「あなたは、」


 陽介は愕然とする。目の前にいる青年が何者なのか彼が一番よく知っている。否、知らない方がおかしいのだ。


 つい先ほどまで画面の中で歌っていた。それなのに何故、今は戦っているのか。訊きたいことは沢山あった。それを全て押し退けて陽介は青年の名前を口にする。


「シオン・アジュールさん?」

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