苦難

@Nadja

一話

 砂漠は灼熱に魘される男の身体を喰らっており、頭部だけが地上に残っていた、そうしてどうも離す気が毛頭ないらしい、男は諦めた様子で遠くに揺らぐ地平線を眺めていた。

 熱気が身体を蝕み、死が口元から侵入しようと試みていた。しかし彼は薄く細い息で、瘴気を追い払っていた。

 頭は沸騰していてもおかしくないはずなのに、何故か彼は冷静であった。そうして自分がどうしてこんな立場に置かれているのか模索しているのであった。しかし思い浮かぶ記憶は壊れた木馬が川縁を埋め尽くしている情景や、赤黒い瞳を持った野良犬が自身の尻尾を食いちぎり、谷底に投げ捨てている情景であったりと、異様なものばかりであり、自分は狂人になったからこそ砂漠に捨てられてしまっているのではないかという結論しか導けなくなってしまった。だがこの結論は彼を精気に漲らせた、その瞳には自分の正義を、自分の信念に映る像の中に真理を見出したのであった。

 この状況を打破できれば全て……真実を究明するにはここから抜け出すしか方法はないのだろう、彼の中に意志が芽生えた。腕さえ抜ければどうにかここから脱出出来るのに……と腕に力を入れるが、全く手ごたえがない。

 仕方がないから息を目の前の砂に吹きかけて、少しでも腕の重量となる砂を減らそうと努めたが、粒子の軽い砂は減少した部分を埋めてしまい、結局無駄に終わるのであった。砂の均等性は彼の絶望を尖鋭化させた、どうしてこんな必死に生きようとしているのだろう、自分の命が砂よりも軽い気がした。

 彼はただ死を待つ存在になった、だが決して平常心を失うことがなかった。それが絶望故か、はたまた他の人々も死を待つことには変わりないと考えている故かも分からないが、判然としない意識が彼の表情に微笑みをもたらしていた。

 死刑執行は他者の手に裁かれて、他者の手によって実行されるだろう、自殺は自身の手によって実行されるだろう、寿命は時間の手によって実行されるだろう、しかしどれも自然による裁きに比べればなんと醜いことだろうか……。彼は自身の死が最も崇高で最も人道的たる道であることを自身に説いた、そうして涙を流してこの境遇を喜ぶのであった。

 しかし太陽の光は、砂漠の砂は彼を殺すことに手間取っているようであった。彼は自身をここに埋めたであろう人々を恨んだ、もし鼻頭まで砂で覆ってくれれば、すぐに死ぬことが出来たであろう。しかしそれでは他者の手で殺されたことになってしまうのではないだろうかと不安になって、次の瞬間にはその人々に感謝していた。

 彼は段々と混乱していた、それは熱さというよりも彼の恐怖と不安が束縛された身体によって肥大されていき、救命の種から生えた自己弁護の芽すら押しつぶしてしまったからであった。

 古来より神に喩えられた太陽も自分を殺せないのであれば、自分も神の一部で、それを自覚していないから砂漠に囚われて折檻されているのかもしれない、いやいや、太陽は序列で言えば一番上の位だろう、それならば私はそれと同列かそれ以上でなければならないはずである、では私はなんだろう、太陽と別種の恒星、それならば十分説明はつくはずである……いや、何を言っているのだ、私はただの一人間に過ぎず、ゴミ屑にように這いつくばった末に砂漠の果てまで来たはずである……いや、違う!

 乾ききった口内から絞り集めた唾液を、砂に向かって吐いた。そうして目を瞑って無意識の中へ潜り込もうとするのであった。彼は何も考えたくなかった、浮かんでくる思案は苦痛ばかり、妄想の雨すら浴びることが出来ないことは耐え切れなかったのである。


 もう何時間たっただろう、不変的な砂漠は時間感覚を奪ってしまい、過去も未来も存在しないようであった。そしてその空間はまるで宇宙の全てを表現しているような傲慢さであった。

 彼の意識も遠のいてしまい、漠然たる意識が彼の身体を覆っているようであった。

 そんな中、地平線の奥深くに一つの影が現れた。この変化は彼の意識を歴然とさせた、目を凝らしてその得体の知れぬモノの正体を暴こうとした。

 それは駱駝の群れ、それらを連れて歩く人……。

 恐らくキャラバンの一味であろうか……なんて連中だろう、彼にはこの不変な世界を踏み荒らす破壊者のように思われて、不快感が芽生えた。

 彼は唾を吐いてやろうと思ったが、やめた。自分の唾もこの世界を冒涜するようで、連中と同等の人間になってしまうのは嫌だったからである。しかしこの理由も彼の弱さが生み出した自己の正義の一つに過ぎないのであった。

 そうして観察しているとあのキャラバンはこちらへ向かってくるようだ、彼は自分が彼らに気付かれてしまうことを恐れた。ここで気付かれてしまっては自然による崇高な導きを妨害されてしまい、その幸福を味わうまでのここまでの苦難が水の泡になってしまう、また他人の手によって生を見出すのは堪らなかったのである。

 駱駝の足が目前まで迫ってきた、すると彼の思考は変化し、先ほどまでとは別物となっていた。

 彼は切実に生きたいと思った、それは今まで感じたどんな欲求よりも聡明で明快で純粋であった。生きるためならばその先に広がる侮辱も苦痛も何もかもを透明にしてしまうのだ、そうして首を切断された塵のような虫、名も知らぬ虫さえも蠢いて、この世への別れを惜しむように、人間も死を目前としてしまえば、哀れな虫よりも貪欲に生を望むのである。

 どんな思想も、どんな状況も、生の前では紙屑になってしまうのだ。彼の思考の模様替えは嵐に部屋ごと吹き飛ばされてしまうようなもので、それは外部からの圧力のように彼の思考を圧迫するのであった。

 生きたい! 生きたい! なんとしてでもここから出て、生きたい!

 彼は声を張り上げようとした、しかしその時、彼の首は石へと変わってしまった! 彼は叫んだ、石になったことも気付かず、ただひたすら、駱駝にまで!

 しかしキャラバンは石など見ない、彼の石は先ほどまでの道のりとなんら変わらない道を構成する一つに過ぎなかった。そうして彼らは歩みを止めずに彼の横を通り過ぎていくのであった。

 彼は泣いた、すすり泣いた、夜が来て、昼が来て、幾日も、幾年も経って彼は砂となった。何よりも重い砂となったのである。

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