親切な人

タンたろー

親切な人

川原祥子は、会社の女子トイレで化粧を直していた。


入ってきた先輩の女性社員が

「お、なんかめかしこんでるね。その感じは男だな?いいなあ。うーらやましー」

とひやかしていく。


おっしゃる通り、今日の祥子は気合が違う。


祥子は入社2年目の24才、中堅の繊維専門商社で事務をしている。

1年目の昨年は何もわからず辛い思いをしたが、今年になって随分楽になった。質量的に仕事が増えて忙しくはなったが、使えないヤツだと思われないようにと、そればかりに気を張っていた毎日に比べて、こんな自分でも役にたっていると感じられる今は気持ちに余裕がもてる。上司や先輩社員とも普通に会話ができるようになったし、少しずつ仕事がおもしろくなってきた。


(よしっ)


祥子は、全身が映る鏡の前で最終確認を終えると、意気揚々と会社を出た。


今夜は異業種意見交換会、いわゆる合コンだ。お相手は大手都市銀行の独身男性様。

学生時代の友人、真奈と夕香も来る。

それも楽しみだった。

昨年は、たまに集まってもお互い愚痴や泣き言ばかりで、楽しい話などほとんどなかった。合コンなんて話題にも登らなかった。学生時代にも合コンはあったけれど、社会人になってからは初だ。是非ともこの機会に大人の恋を手にいれたい。


丸ノ内から程近いカジュアルフレンチ。祥子は、少し無理のあるヒールで、所々継ぎ目や歪みのあるアンティークな木材の床を不安定に歩いていく。

店内は、スーツ姿の男女で混雑していた。若い人ばかりではなく、祥子から見たら父親のような年配の紳士や外国人も混じっている。場所柄もあって、祥子にはその全員がエリートに見える。店員が厨房に向かって時折投げかける言葉もフランス語のようだ。


(やばい、ちょっと緊張してきた)


腕時計を見ると、待ち合わせの時間にはまだ10分も早かったが、店の奥、数段の階段を上がったテラスみたいな席に夕香も真奈も揃っていた。


(よかった)

手を振るふたりを見て、少しほっとする。


男性はまだ、一人しか来ていなくて、今回の男性側幹事だというその人は、すごく大人に見えて、実際32才だと言った。


「祥子、真ん中ね。私は一応幹事だから」

真奈が席を端に移る。

「じゃあ、俺、祥子ちゃんの前にと」

「何言っちゃってるかな。窪田さんも幹事でしょー?端っこ端っこ」


携帯が鳴って窪田さんが席を外すと真奈は

「あの人はバツイチ」

と夕香と祥子に耳打ちした。

頭数に入れなくて大丈夫。あと3人来るから、心配しないで。

女子3人に対して男子4人で取り付けるのは大変だったのよ。と。

「窪田さん、私を狙ってくると思うから、そこフォローよろしくね」

真奈は、ぷっくりと形のいい唇を、本当にバラの花みたいに丸くすぼめた。


真奈は美人だ。客観的に見て絶対に美人。

10人中少なくとも7人は美人と評価するはずだ。大人っぽくて、というより本当に大人で、ファッションも会話もセンスがいい。いつもキラキラした輪の中心にいるセンター。祥子だってキラキラの輪の中にいるけれど、いつも後ろの方。別に嫌じゃない。むしろ気に入っている。

夕香は2列目。小動物系。愛くるしい顔立ちと細くて白くて折れそうな身体、そういうビジュアルに不似合いな、少し勝ち気でいたずらっぽい性格。もし祥子が男子だったら、絶対に好きになってると思う。貧乳だけど。


(この面子だと私、見劣りするなぁ)


自然な感じに仕上げたメイクも、大人っぽさを意識したシンプルなコーディネートも、がっつり大人の真奈と元祖ナチュラル系夕香に挟まれて、中途半端なだけに思えてきた。


「ごめん、1人、遅れるって」

電話を終えて戻った窪田さんが言った。


それから10分も経たないうちに他の2人が来て、先に始めることになった。

沖田さん27才と藤野さん25才。二人とも真面目そうで気さくでいい感じだ。お料理も美味しくて、テーブルはすぐに盛り上がった。おかげで、自信をなくして落ち込みかけていた祥子も、すぐに楽しくなった。


あっという間に一時間ほどが過ぎて、ようやく最後の1人が到着した。石原さん、26才。特にイケメンでもおしゃれでもないけど、すごくさらっとした感じのする人で、あ、いいな、この人。祥子はそう思った。


「なんだよ、来られちゃったの?無理して来なくてもいいのに」

「そんなこと言わないで混ぜてくださいよ」

「じゃあ、おまえはお誕生日席ね」

「はい、もうどこでも。補助席でもいいですよ。混ぜてもらえるなら」

窪田さんの少し意地悪な冗談をサクサク返しながら、真奈の斜めに腰を落ち着けた。


その後、ドリンクの注文を取りにきたウェイターに、石原さんはソフトドリンクを頼んで、お酒じゃないのがいい人、他にはいませんか?と祥子のほうを見た。


「あ、じゃあ、私も」

「何がいい?」

ですか、がつかない聞き方にドキッとする。

「じゃあ、ジンジャエール」

石原さんはにこっと笑って、ウェイターにジンジャエールを頼んでくれた。


「なによ、飲まないの?」

「飲まないの?って誰のせいだと思ってるんですか?窪田主任のせいですよ」

「ええ!なんで俺?」

「ここに来る前に、◯◯興産に寄ってこいって言ったの誰ですか?」

「はい、俺です。すいません」

「取引先に寄ってきたからって、どうして飲めないんですか?」

聞いたのは真奈だが、祥子も(?)の顔をして石原さんを見ていた。

「預り書類を持っているときは、飲んじゃいけないって、社内規定なんです。酔って個人情報を紛失したら大変でしょ?」

石原さんは、祥子のほうを見て答えた。

「そうなんだー!かわいそう。窪田さん、ひどーい!」

真奈が言って、遅れたのも窪田さんのせいだとか、パワハラだとか、ワイワイしている間中、祥子は石原さんが自分のことを気にしてくれていることにドキドキしていた。


ボトルでオーダーした赤ワインは、お酒に弱い祥子にはきつくてしぶくて、舐めるようにチビチビしつつ、お水ばかり飲んでいた。空っぽになったお水のグラスとほとんど残ったままのワイングラスに、石原さんは気づいてくれていたのだ。


当たり前のように全員で行った二軒目は、落ち着いたバーの個室のソファ席だった。

奥に3人掛け、その向かいに2人掛け、左右にそれぞれ1人掛けがふたつ……。


(こういうのは苦手だ)


石原さんは奥の3人掛けの端にさっさと座ってしまっていた。その隣に真奈が座る。祥子は、石原さん側の1人掛けにえいっと座った。自分にしては、すごく頑張ったつもりだ。それなのに。


石原さんは「荷物、向こうに置けるよ」って手を出して、祥子のバッグだけでなく、他のみんなのバッグや鞄を集めて、壁際の細いテーブルまで運んで、そうしているうちに自然な流れで沖田さんがそこに座ってしまう。真奈の隣は競争率が高い。当然だ。結局、石原さんは祥子の向かい側、一番遠い1人掛けになってしまった。


(残念)


そう思ったのが、顔に出てしまったようだ。気がつくと、石原さんがこっちを見ていて、くすっと笑った。恥ずかしさに顔が赤くなる。赤くなるとわかるから、余計に赤くなる。石原さんはもう一度くくっと笑って、それから、堪えるように下を向いた。


落ち着いた静かな店で、話す声は自ずと小さくなる。1人掛けに腰かけた祥子がちょっと手持ち無沙汰になった頃、石原さんが向こう側から聞いてきた。


「家、◯◯駅?」

声は聞こえないけど、分かりやすく口を大きく動かして。

祥子は、驚いた顔で頷いて

「どうして?」

と口を動かす。

「セキュリティ低すぎ。定期、丸見え」

今度は、少し大きな声で言った。

さっきバッグを預けたとき、持ち手に繋いだパスケースが外に出ていて、定期券が見えていたらしい。

石原さんは、祥子の側まで歩いて来て

「ICカードなんだから、裏返すでしょ、普通」

それから少し腰を屈めて小声で続けた。

「僕、×××なんだ。一緒に帰ろうよ」

隣駅だった。

目の前がぱあっと明るくなるみたいだった。

「はい。是非」

「よかった。書類入りの鞄を僕が忘れないように見張ってもらえる」

そう言って立ち去りかけて、再び腰を屈め、

「いろいろしがらみがありそうだから、万一の場合は改札で」

と耳元で囁いた。


(ああ、早く帰りたいっ!!)


よく聞こえないみんなの会話に曖昧な相槌を返しながら、祥子はその時を待った。


祥子は時間を見計らって、少し早めに化粧室に向かう。


丁寧に化粧を直す。髪も。それから、うがいも。


化粧室を出たとき、そこから見える祥子たちの部屋の前に、石原さんと真奈が見えた。

真奈はまっすぐこちらに向かって歩いてきて、その後ろから石原さんも、少しゆっくり歩いてきた。

真奈はすれ違う祥子にニコッとして、化粧室に入った。


扉が閉まったそのとき、石原さんが祥子の腕を取った。


(!!!)


心臓が止まるかと思った。

石原さんは、すぐにその手を離して、優しい微笑みを残して男性用のトイレに消えた。


びっくりした。少女コミックかと思った。

まだドキドキする胸を懸命に沈めながら、祥子は急いで部屋に戻った。だって、真奈が出てきたら、何か勘ぐられそうだと思ったから。


ビジネスの拠点だけあって、丸の内は交通の便がいい。少し歩けば、JRでも地下鉄でもなんでもありだ。ましてや、こんな会合の後となれば、どれで帰ろうかなあ=誰と帰れるかなあ、である。店を出るなり、探り合いだ。でも、今日の祥子に迷いはない。自宅最寄り駅まで乗り入れる直通電車がある線の駅へ、脇目も振らず。

「お先にー!」

とみんなに大きく手を振って。

振り向いたとき、石原さんは窪田さんに絡まれているみたいだった。


(パワハラ主任め)


祥子は、悪態をつきながらも、ウキウキと駅に向かった。


×××××


最終電車を知らせるアナウンスが、改札口に佇む祥子の耳に届く。


(もう行かなくちゃ。帰れなくなる……)


祥子は改札を抜け、階段を降りる。時折、後ろから聞こえてくる足音に振り返っては、肩を落とす。ホームに立ち、もう一度だけ階段を振り返り、滑り込んできた電車に乗った。


最終電車の扉は閉まった。


電車が走り出しても祥子は、息を切らせて階段をかけ降りてくる彼の姿を待ち望んだ。

コマーシャルみたいに、ドラマみたいに。

真っ暗な窓に自分の顔が映って、祥子は座席に座った。

泣きそうだった。


(あんなに……あんなに……期待させておいて。ひどい。あんまり、ひどい。いや、そんなはずはない。きっと窪田さんだ。窪田さんが何か無理を言ったのに決まってる。でも……)


涙がこぼれてしまいそうで、祥子は下を向いた。下を向いて、寝たふりをした。


何があったとしても、連絡の取れない女の子を、そのまま待たせたりするだろうか。直接連絡することはできなくたって、窪田さんと真奈を通せば連絡できるのだ。


気が変わったんじゃないだろうか。


祥子は、一番に帰ってきてしまった。

お先にと手を振ったあのとき、みんなはまだかたまってそこにいた。あのあと、何か話して、例えば酔いざましのお茶とか、次の企画とか、それで真奈や夕香と打ち解けて……。


(ああ、もう、どうしてIDを交換しておかなかったんだろう)


祥子は、この40分ほどの間に100回もした後悔をまた繰り返した。

真奈も夕香も、藤野さんや沖田さんとIDを交換していたのに。

一緒に帰ろうと約束していたから、その約束がすごく頑丈で揺るがないものに思えたから、祥子は安心してしまっていた。あとでゆっくり、IDでも電話番号でも交換できると思っていた。好きな音楽も嫌いな食べ物も、次の約束だって、何だって聞ける、話せると思っていたから。


×××××


社内アナウンスが、聞き覚えのない駅名を繰り返していた。

「次は△△、△△」

はっとした。

ぐるぐるといろんなことを考えているうちに眠っていた。


(ここ、どこ?!)


降りる駅は、既に過ぎていた。寝過ごした。祥子は、慌てて電車から降りた。


人影まばらな駅のホームで、走り去る最終電車を見送りながら、祥子は途方にくれた。


(どうすればいいんだろう?)


このままここで待っていても、もう電車は来ない。仕方なく、祥子は改札に向かう。ふたつしかない自動改札の外で、駅員が一人、駅舎のシヤッターを下ろそうとしていた。

乗り越し分を精算して外に出た祥子は、改めて途方にくれる。

あまりに何もない。コーヒー店もファーストフード店もファミリーレストランも牛丼店も、コンビニすらなかった。もちろん、タクシーも。


(降りなきゃよかった)


乗り越したと思って、焦って降りてしまったが、もっと大きな駅まで乗って行くべきだった。

祥子は、スマートフォンを取り出してアドレス帳をスクロールする。こんな時間、こんな場所まで、迎えにきてくれそうな相手などいるはずもなかった。祥子は、諦めてマップを表示する。少し先にコンビニがあった。線路の位置と向きをマップと照らし合わせて、祥子は歩き始めた。


30分近く歩き続けてようやく到着したコンビニは、見慣れた大手フランチャイズ店ではなくて、看板こそ祥子も見知ってはいるが、店内には昭和の商店の残り香漂う小規模店舗だった。むろん、イートインスペースなどない。面する道路は一車線ずつの両通行ながら、それほど広い道ではない。だが、駐車場はやたら大きく、大型車もウェルカム。典型的な田舎の幹線道路だ。


華々しい来店チャイムを伴って祥子が入っていくと、学生バイトらしき店員は少し驚いた表情をして、上から下まで無遠慮に視線を走らせた。こんな時間に女子がひとり、徒歩で来店など珍しいに決まっている。何かトラブルを連想しているかもしれない。


「近くに、あ、少しくらい遠くてもいいんですけど、ネットカフェとかはありませんか?」

まっすぐレジカウンターに向かった祥子が尋ねた。


「あー」と一度天井を見てバイト店員は、

「え、歩いて行く?んです?よね?」

祥子は頷いた。

歩けるのかな……どんくらいかかるんだろ……とか、独り言みたいに呟いてから

「歩いて行けるかどうかはちょっとわかんないですけど、この道まーっすぐ行って、高速にぶつかったら、その辺で右行くと、大通りがあって、でかい看板とかいっぱいあるからわかると思うんですけど、そんなかにあるけど。え、でもめっちゃ遠いですよ」

と言った。


祥子は、ペットボトルのお水とチョコレート、それから分厚い靴下とヘンテコなサンダル、少し迷ってバカみたいなピンクのシュシュを買った。バイト店員に礼を言い、迷惑ついでに値札を外してもらった靴下とサンダルを履いて祥子はコンビニを後にした。

あと、バカみたいなピンクのシュシュで髪をきゅっと束ねて。


もう一晩中歩いてたっていい。そう思った。

地元の県立高校では、学校行事で一晩中歩かせるところだってあった。その学校に進学した中学時代の同級生は、辛かったけどめちゃめちゃ思い出になったと語っていた。テレビのチャリティー番組でも、運動とは縁の無さそうな30代のタレントが一晩中走ったりしているじゃないか。

誰に対して怒ればいいのか、もうわからなくなっているが、とにかくみんなに対する怒りと、かわいそうすぎる自分の被害者意識みたいな感情で、自暴自棄にもなっていて、


(もう、いいっ!なによ、みんなしてっ!!やってやろうじゃないの!!!)


憤慨しながら、祥子は歩き続けた。


どれくらい歩いていただろう。

祥子の横に一台の車が止まった。


吉田健一と名乗るその男性は、こんな時間に仕事帰りなのか、ワイシャツにネクタイ姿で、決して怪しい者ではないと、免許証や名刺を見せながら繰り返した。


祥子と反対方向に向かって車で走っていた吉田は、すれ違った祥子が気になってUターンしてきたのだと言う。


「何なら財布も携帯も君に預けるから、お願いだから載って」

吉田は言った。

こんな時間にこんな場所を、若い女の子が独り歩きなんて、何かあったら大変だから、寝覚めが悪いどころじゃ済まないからと、懸命に懇願した。


「この先は、もう両サイド林だよ。店どころか家もない。一体、何処に向かってるの?」

尻込みする祥子に吉田は聞いた。

ネットカフェがあるって、コンビニで教えてもらったと祥子は答えた。

どこのことだろう……と吉田は呟いて、

「どれくらい歩くって言ってた?」

「めちゃめちゃ遠いって……」

吉田は、ため息混じりに言った。

「家はどこなの?」


祥子の答えを聞いた吉田は、一度運転席に戻り、カーナビを操作して、助手席の窓を開けた。


「家まで歩く方が近いくらいなんだけど?」


(え……)


「だから、載っていきなさい」

吉田は呆れ顔で言った。


×××××


「本当にありがとうございました」


降りた車の横で、祥子は深々と頭を下げ、走り去る吉田の車を見送った。


家に帰ってすぐに、熱いシャワーを浴びる。


(ああ、よかった。家に帰れた。それにしても親切な人だった。終電まで改札口に立たせて平気でいる石原さんとは大違いだ。もしもまた会う機会でもあったら、絶対に文句言ってやる!)


そう思いながら、テーブルの上のスマートフォンを手に取る。夕香や真奈からでも、何か連絡がきているかもしれない。


(あれ?私、スマホ、テーブルに置いたっけ?)


特に連絡はきていなかった。誰からも、何も。

祥子は、灯りを消し、ベッドに潜り込んだ。


×××××


白み始めた空の淡い光が、カーテン越しに差し込んで、ベッドの上で仰向けに横たわる祥子の腕を照らしていた。

その腕には一本の傷が走っている。大学のとき、みんなで行ったバーベキューでケガをした。それほど大したケガではなかったが、山の中での出来事だ。応急処置だけを施し、病院へ行ったのは翌日だった。縫合するには、時間が経過しすぎていた。化膿などなく治ったが、痕は残った。ぴいっと一筋、まるでリストカットしたみたいに。


昨夜、石原さんが、突然、祥子の腕を強く握ったあの少し前、化粧室を出た祥子が見たワンシーン。真奈は、自分の手首をなぞっていた。そう、ちょうど、リストカットするみたいに。

薄れていく意識とは反対に冴えわたっていく記憶の中の映像。聞こえていなかったはずの真奈の言葉が、混沌とした脳内に再生される。


「あの子、やったことあるの。うん、そう、リストカット」

「男の人のことで。二人きりで会ったことは一度か二度だったって、聞いたけど」

「そういう、ちょっと思い詰めるタイプって言うか、うん、そうだね、危ない子」


×××××


昼近くなってベッドから這い出た夕香は、冷蔵庫のミネラルウォーターを飲みながら、スマートフォンを開いた。

祥子からLINEが届いている。


『昨夜は大変だった』

終電車で寝過ごした祥子は、寂れた田舎駅で降りてしまい、独りぼっちで夜道をさんざん歩いたらしい。


(え?なんで最終?)


祥子はいち早く帰っていったはずである。

夕香の疑問はそのままに、祥子からのLINEは続く。


『通りすがりの親切な男の人が車で家まで送ってくれた』

『親切な男の人って……なに、それ?怖くない?』

夕香が返信したのとほとんど同時に真奈からのLINEが入る。

『よかったね。親切な人がいて』と。

『ホントそれ。自分の家を通り越して送ってくれたんだよ』

『いい人だったからよかったようなものの、危ないじゃない!』

夕香はそう送ったが、ふたりの性善説はお気楽に続いた。

『ええーーっ!超いい人!!祥子、ちゃんとお礼した?』


真奈の他人事感がはんぱない。

だいたい昨夜、祥子が終電になったのは、真奈のさしがねではないだろうか。石原さんと祥子は明らかにいい感じだった。でも真奈は、石原さんの後に続いて、すぐにトイレに立ったり、帰り際に窪田さんを使って石原さんを引き留めたりしていた。


(お礼とか、なんか、気持ち悪い)


夕香は、スマートフォンを閉じた。


×××××


すっかり高くなった太陽の光は、薄いカーテンを引いたままの祥子の部屋を隅々まで照らしている。祥子のスマートフォンにはLINEのトークが続いていた。


『そうだね、親切な人にはお礼をしないと。

機会があったら、真奈からもお礼してね』

『らじゃー』っと敬礼するウサギのスタンプが即効で届いた。




祥子のスマートフォンに、ツイッター、フェイスブック、インスタグラムと次々に画面が開き、スクロールされていく。

『◯◯線、人身事故で止まってるー!最悪かよ!』

『今日は中秋の名月』の言葉に添えて、バルコニーから見える月をとらえた風景写真。

駅前のパン屋の話、近くの小学校の運動会、届いたコンサートチケットの写真には封筒の郵便番号の上二桁が写りこんでいる。

画面に映し出される写真の数々は、その都度、引き延ばされ、また閉じられる。




吉田は立ち上がり、伸びをして、祥子の部屋を出ていく。

大型スーパーの駐車場につくと、祥子のスマートフォンをゴミ箱に投げ入れた。そして車に乗り込むと、ポケットからピンクのシュシュを取り出して、自分の手首に着けた。


×××××


ピンポーン!

夕香の部屋の呼び鈴が鳴った。

一体、誰だろう。ここ一週間、通販で買い物はしていない。MAXの警戒体制でインターフォンの受話器を上げる。


「夜分に申し訳ありません。板橋警察署の者ですが」


小さなディスプレイいっぱいに、警察手帳が映っていた。


マンションの一階エントランスにある粗末な応接セットで、夕香はガタガタと身体を震わせた。


祥子が殺された。

自分の部屋で、乱暴されて。

部屋の鍵はピッキングで開けられていたと刑事は言った。


「ドアチェーンが切られていたことから、おそらく在宅中に侵入されています」

「祥子は眠ってて気づかなかったってことですか?」

「さあ、髪にタオルが巻かれていましてね。入浴中だった可能性が高いです」

「川原さんの会社関係の方から、昨夜は加藤さん山本さんとご一緒されていたと伺いましてね。何か、お心当たりはありませんか?」


夕香は、自分のスマートフォンにLINEの画面を開いて、刑事に見せた。


それを見た刑事たちは、顔を見合わせ、困惑する。


「死亡推定時刻は今日未明です」


夕香の全身に鳥肌が立つ。


「じゃ、じゃあ、このLINE、もしかして犯人が?」

「まあ、まだわかりませんが、被害者宅でスマートフォンは見つかっていません」


吐き気がした。


×××××


加藤夕香の話を聞いたふたりの刑事は、山本真奈宅に向かう車中にあった。


「つまり犯人は、終電で寝過ごして帰宅できなくなっていた川原祥子を、親切ごかして車に載せ、実際に家まで送り届け、一旦引き揚げたと見せて、こっそり侵入したと」


「週末とはいえ、ド深夜だ。他に灯りのついた部屋の一つもなきゃ、ちょうど灯りのついた部屋がそうだと、すぐにわかるし、玄関扉を突破している間、被害者がちょうどよく入浴してたのも、頷けるわな」


若い刑事が整理する事実関係を、年配のベテラン刑事が燻し銀よろしく裏付けていく。


「で、川原祥子を襲って殺害したあと、そのまま被害者宅に居座り、車中で聞いたその晩の顛末を使って被害者に成りすましてLINEを送った。ってことですね?」


「うむ……。何のためにそんなことしたのかねえ?」


「死亡推定時刻を狂わせる、とか」


「うむ……。スマートフォンってのは、普通、画面をロックしてるんだろう?」


「まあ、そうですけど。みんな意外と簡単なコードだったりして、ちょっと覗けば、指の動きなんかでわかりますよ。あ、それに、指紋認証なら殺してからでも開けます」


「あー、そうだな、うむ」


「ああっ!!」


「なんだよ、びっくりするから」


「あわよくば川原祥子の友だちも襲っちゃおうって、そういう理由じゃないですか?」


「今、気がついたのかよ。遅いんだよ」


「急ぎましょう!パトライト出しますか?」


「いやいや、いいよ。害者の携帯番号で追跡、指示ってあるし、山本真奈の携帯にも自宅にも所轄から接触させてるから」


「あ、そうなんですか?え、いつの間に?」


「それよりな。俺は、なんとなく、あのLINEのやり取りは害者本人なんじゃねえかって、思うんだよ」


「科捜研に殴り込みっすか?」


「そういうことでもないんだけどもよ」


「何なんですか?いったい」


「会社の人の話じゃ、川原祥子はいよいよこれからって様子だったらしいじゃねえか」


「ええ。ずいぶんかわいそうだって言ってましたよね」


「そういう人間の死に顔にしては、清々しくなかったか?なんかこう、一仕事終えたみたいな、充実した顔してたように思えてよ」


加藤夕香の示したLINEのやり取りを思い起こし、そこにある人間の微妙な感情の機微を感じ取る。


(こりゃあ、先に山本真奈を訪ねるべきだったかもしれねえな)

燻し銀は額に手を当てた。


×××××


真奈は、コンビニの袋を片手に提げ、財布とスマホを脇に挟んで、鍵を開ける。

スマホが振動する。

鍵を引き抜いて扉を開け、中に入りながら、スマホを手に取ろうとしたとき


「お礼、してくれるんだよね?」


薄気味悪い男の声が耳元に聞こえた。


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