第39話 一万時間の法則
『珍しいな。お前の方から電話をかけてくれるなんて』
ディスプレイ越しに聞く兄の声は、半年前に帰省したときと変わらなかった。
いつだってそうだ。
この兄は、自分のことをただの妹としてしか見ていない。どんなに実力をつけ、幾度となくゲームで勝利しても、彼は自分のことを妹として扱う。
だからこそ、龍宮ハクアは、意地でも張るようにぶっきらぼうになる。
「別に、兄さんと話したいわけじゃないから。ただ用があるだけよ」
『そうか。その用ってのは、鏑木のことだろ?』
「…………」
相変わらず、妙な所で鋭い。
ノートパソコンの画面から目をそらし、ハクアは白昼の空を見上げる。
ロンドンの空は透き通るように青い。
今座っているカフェテラスからは、往来を歩く人の姿を眺め見ることが出来る。日本から遠く離れたこの場所でも、言語や文化が違っても、同じように人々は生活している。そしてそれは日本においても同じで、そこにいる『彼』にしても、彼の時間を過ごしているのだ。
今は夜である日本を思い、ハクアは少しだけ心細くなる。
その気持ちを見ないふりをして、彼女はテレビ通話をしている兄へそっけなく返す。
「聞いたわ。明日、予選で当たるそうね」
『なんだ。それなら話は早いな。俺も聞きたかったんだ』
くく、と楽しげに笑う声が響く。
その愉快げな様子に、ハクアは少しだけ胸がすく思いだった。ハクアには分かるのだ。クロアが次に口にする言葉は、きっと『彼』を認める言葉だ。
『鏑木コウヤ。強いな、あいつ』
予想通りの言葉に、嬉しさと同時に、微かな嫉妬を覚える。
その気持ちを隠しながら、ハクアは胸を張って言った。
「当然よ。この私がつきっきりで教えたんだもの。強くなくっちゃ困るわ」
『ああ、そりゃあ手強いわけだ』
軽口を叩くようにサラリと流される。意図的にしているのか、はたまた素なのか。この兄の態度からは、相手にされていないという事実を強く意識させられる。
そのことに思うところが無いわけではないが、今はとにかくコウヤのことだ。
「一応言っておくけれど、シューターズに関しては、今では私よりあいつの方がうわてよ」
その事実を、誇らしげに口にする。
ハクアの言葉を、クロアは意外そうに聞いた。顔の見えないハクアにはわからないが、おそらく驚きに目を丸くしていることだろう。龍宮ハクアという負けず嫌いの少女が、なんの衒いもなしに人を称賛したのだ。事情を知らない人からすれば驚くはずだ。
けれど、ハクアにとってコウヤの成長は、本当に誇らしいことだった。
「あいつはとにかく『負けない』戦いがうまいの。十戦やって六回負けても合計得点では勝ってる。コウヤはそういう戦い方が出来る人よ」
『なんだ? ハクア、俺のためにアドバイスしてくれてるのか?』
「違うわ。弟子の自慢をしてるのよ」
照れ隠しにぶっきらぼうに言う。
弟子、とは言われたものの、ハクアがコウヤに出来たことはそう多くない。せいぜい、プレイヤーとして必要な基礎訓練や基本戦術を指導したくらいだ。試合での立ち回りについては、彼が自分で身に付けたものだ。
アマチュアの大会にエントリーして、傷だらけになりながら得た、彼だけのドクトリン。
ハクアにしても、世界中を転々として様々な魔法士たちと手合わせし、その技術を学んできた。積み重ねたものはコウヤとは比べ物にならないと自負しているが、それでも、彼の成長速度には目を見張るものがあった。
「私が効率のいいやり方を教えたってのもあるけど、コウヤの修練度は私から見ても異常だったわ。場数を踏むって、言うほど簡単じゃないってこと、兄さんならわかるでしょ? 有意義な経験は、相応の場に出会って、ベストなコンディションで挑まないと出来ないものだから」
『ああ、そうだな』
クロアは少し考えるように間をおく。
『お前から聞いた話だと、実戦経験を積んだのは一年くらいなんだろう? 確かに実践に勝る修練は無いが、一年程度でプロ顔負けの技術を身につけているのは、どういうことだ』
「そこはある意味、コウヤの才能かもしれないわ。ううん、才能なんて言うとあいつに失礼か……あいつは多分、一度やってきたことをもう一度やっているだけなのよ」
『やってきたこと? なんの話だ』
「コウヤはね。昔野球をやってたらしいの。それも、結構な結果を出したらしいわ」
『ほう』
電話越しの声が、興味深そうに響く。
コウヤは小学校時代、野球で成功を収めている。
もっとも、それは故障による引退という形で幕を下ろしているので、最終的には失敗といえるかもしれない。だが、小学校六年間という期間で、一つのスポーツをやりこんだという経験は残り続ける。
「シューターズの修行に役に立つかもしれないから、成功した理由に思い当たる所はないか、聞いてみたのよ。もし才能があったんなら、それが武器になるかもしれないし」
『そうだな。スポーツにおいて特出した能力というのは、多かれ少なかれ、他の競技にも活かすことが出来る。それで、鏑木にはどんな才能があったんだ?』
「それが、野球の才能って意味では、あんまりなかったみたいなの」
初めは冗談かと思ったが、本当にそうだったらしい。
実際、コーチや監督からも最初は見向きもされなかったという。
「ほら、子供の頃って、どうしても技術より体格が物を言う時代じゃない。コウヤは昔かなり背が低かったし、今でも筋肉がつきづらい骨格だって医者から言われているそうよ。そんな状態でありながら、最終的にあいつはリトルリーグのエースとしてマウンドに立ってた」
『ピッチャーとしての才能があったとか、そういう話ではないのか?』
「むしろなかったそうよ。体格が小さいから球速も伸びないし、足の速さもそれほどじゃなかったって言ってたわ。だからあいつは――コントロールだけを、ひたすら鍛え上げた」
何千、何万回と。
投げ続け、投げ続け、投げ続けた。
バッティングの練習も同じくらい行い、どういう球が打たれづらいのか研究した。そうして、攻守ともにピッチングのいろはを自分自身で追求していった。
やがて、コウヤが投げた球をチームの誰も打てなくなった時に、ようやくコーチが注目したのだそうだ。
「コントロールの才能があった、なんて話をし始めたらキリがないけど、シューターズに関して言えば、あいつの狙撃能力は大したことないわ。空間把握能力も、肉体操作能力も、数値で見たら一般人の枠を越えない」
才能とは、一種の『超越』であることをハクアは知っている。
プロの世界に入ってみると、上位ランカーは本当の意味で化物だらけであることを知ることになる。目をつむったまま的を射撃するガンナーや、五キロ離れた場所から的を狙撃するスナイパー。自身の肉体の動きをナノ単位で把握し、五感をフルに活用して動くプレイヤーたちを見た後では、多少の巧拙は話にならない。
けれどそれは、得てして修練の果てに得た能力であることが多い。
もちろん、その技術を得るための足がかりとして、才能があったかもしれない。しかし、才能とはただの足がかりに過ぎない。その『超越』が目に見える形で現れるには、相応の修練が必須となる。
才能がある、などとと言うのは簡単だが、それがはっきりとした差として現れるのは、限界の限界まで競り合った最後の最後であるとハクアは考える。
そうした意味で言うと、一つだけ、鏑木コウヤが『超越』しているものがある。
「それでもコウヤに才能があったとすれば、一つのことを継続出来ることだと思う」
『努力の才能、ってやつか』
「そんな風に言うと、努力している人たちに失礼かも知れないけどね」
努力という普遍的なワードの持つ陳腐さに苦笑しながら、ハクアはしみじみと言う。
「けど、やらなきゃいけないことを『やる』のって、言葉以上に難しい。それは兄さんも分かるでしょ? 自分を追い詰めるほどに何かを『続ける』ってのは、立派な超越だと私は思う」
例えばそれは、電話越しの兄や、自分にも言えることだ。
ハクアの場合、『無貌の理』というカニングフォークの影響で、他者との相互認識が希薄であるという障害がある。
他者から認識されないということは、自己の存在の失認につながる。
そんな彼女が自分を保つためには、とにかく何かしらの結果を出し続けなければならなかった。
その強迫観念じみた思いは、最終的に今の龍宮ハクアを作り上げている。他人からすれば、努力の果てに大成したと見えるかもしれないが、ハクアはただ、自分を保つためにがむしゃらに前に進み続けたに過ぎない。
やらなければいけなかった。
何より、それをやることが出来た。
何かをやり遂げた人というのは、多かれ少なかれ、そうした原動力があるはずだ。
自己の目的、他者からの評価、意地、プライド、願望、狂気、苦悩――自分から湧き上がったものか、他者から与えられたものか、そこは問題ではない。
大切なことは、それが噛み合うかどうかだ。
原動力となる原因と、自身が行った行動が噛み合った時、人は成功するまで自分を追い込むことが出来る。
ハクアにしても、兄にしても――そして、コウヤにしても。
「コウヤにとってのそれが、何なのかはわからない。けど、あいつは単純に、成長するために今何をやるべきかを分かっている。それこそ、野球で経験したことを、そのままやっているんじゃないかって思うの。そうね……」
適切な言葉を探すように、ハクアは少し考える。
そして、ためらいがちにその言葉を口にした。
「一万時間の法則ってあるでしょ?」
『継続は力なり、だな。だがハクア。それは少し無理がある』
ハクアの言葉を否定するように、クロアは言う。
『鏑木が本格的にシューターズに取り組んだのは、アメリカに居た二年間なんだろう? 野球は六年やった成果だろうが、シューターズはそうではない。あいつが日本に居た時は、大した訓練もしていなかったはずだし、どんなに優秀なコーチングがあったとしても、さすがに急成長すぎないか?』
「……やっぱりそう思うよね」
兄の返答に、ハクアは小さく息を吐く。
そう。コウヤが大きく伸びたのは、ここ二年――それどころか、まともに修行を始めたのは、左腕が完治してからなので一年半に満たない。
そんな短い期間で、ズブの素人だった彼が、アマチュアの大会で優勝するほどになった。
シューターズという競技に絞って修行したのも良かったのだろう。けれど、何よりも大きな理由が一つだけある。
「毎日、三十回」
『……ん?』
「コウヤがシューターズの模擬戦をした回数。霊子体を作って、霊子庭園も毎回作り直して、なおかつ対戦相手にAIエネミーまで作成して――そうやって、三十回。半年間くらいは、毎日それをやっていたわ。一万時間にはとうてい満たないけど、それでもとんでもない回数なのは分かるでしょう?」
『……………』
さすがのクロアも、その事実には言葉を失った。
おそらく彼は今、その修行を自分ができるかを考えているだろう。一回に使う魔力量と、一戦ごとに集中するだけの精神的負担。そして何より、毎日行えるだけの体力が続くかを。
しばらく考え込んだ後、クロアは疑わしげに言った。
『冗談だろ?』
「本当の話。私は何度もやめろと言ったわ」
ハクアが止めるほど、その練習法は常軌を逸していた。
そもそも、魔力とは生命力の余剰分だ。それは成長して体力が増えれば単純に増えるが、その容量には限界がある。
その限界を増やす方法は、とにかく魔力を使い続けて生命力の総量を上げることが必要だ。
そういった意味で、コウヤがやった練習法は理にかなっている。
模擬戦という形で魔力を使い、そしてシューターズにおける立ち回りも同時に研究する。本来なら加減しても十回くらいが限度の霊子体の作成を、三十回もやれば嫌でも魔力は枯渇する。
そう――魔力が枯渇するのだ。
魔力が生命力の余剰分である以上、それが枯渇するほど消費された場合、衰弱しきって最低限の生命維持すら難しくなる。食物を嚥下することすらできなくなる、と言えばわかりやすいだろうか。下手をすれば、体内で栄養素を分解する機能すら停止するので、魔法士は魔力の枯渇にだけは注意しながら魔法を扱う。
コウヤはそれを、毎日ためらいなく行っていた。
「もちろん、魔力回復促進のドリンクや、即時補給の魔力結晶なんかは常に用意していたわ。なけなしのお金でね。でも、そうやって無理に回復させた魔力なんて、マナほどじゃないけれど体には毒でしか無い。いつもコウヤは、気絶するように眠りについていた」
『……その修業は、意味があるのか?』
さすがに訝しげな様子を見せつつ、クロアは尋ねた。
『確かに、そんなことを続けたなら魔力は増えるだろう。実際、俺も似たようなことを試したことはある。だが、肝心のシューターズの技術はどうなる。そんなボロボロの状態で練習した所で、身につくとは思えない』
「その疑問はもっともな話よ。でも、現実にコウヤは実力をつけている」
『何をどうやったんだ?』
「単純な話よ。一日三十回なんてやれば、一回に使える魔力は限られる。だから――その限られた魔力で一つのことを延々とやり続けたの」
例えば、フラッグ射撃を。
例えば、クレー射撃を。
例えば、エネミー射撃を。
一つのテーマを決めて、それをシューターズの試合時間である十分間で区切り、延々とやり続けた。
時には対戦相手を用意して、時には自分だけで状況設定を決めて、その状況での立ち回りを何度も繰り返した。毎日毎日、飽きること無く、体が動かなくなるまで、自分が決めた回数をやり続けた。
それは、彼が小学生の頃に、毎日ボールを投げ続けたのと同じだった。
『……継続の才能、か』
それを聞いたクロアは、苦々しそうにそうつぶやいた。
努力に関して言えば、クロア自身も人に負けないだけの積み重ねをしてきた自負がある。しかしそれは、家柄という環境に恵まれ、効率的な教育を与えられたからこそでもある。クロアには基礎を積み重ねるだけの土台があったが、鏑木コウヤにはそれがなかった。
だから、コウヤは自分で土台を作ったのだ。
地道な反復練習という、これ以上無い程の土台を作った。
「私もその間、いろいろ口出しをしたけど、まともにコウヤにシューターズのいろはを教えたのは半年の基礎づくりが終わったあとの事よ。去年の五月くらいかな。そこからの上達は早かったわ。そもそも、シューターズのみに特化したプレイヤーなんてそうそう居ないから、アマチュアでは圧倒的だった」
コウヤがそんな無茶をやり始めたのは、國見キリエとの確執や、両親との不和など、色んな理由があった。行けるはずだったオリエントへの入学が白紙になりかけて、自暴自棄になったのもあっただろう。
けれど、彼の練習への集中度は、そんな理由付けが些細に見えるほど常軌を逸していた。
「あとは簡単よ。あいつは、毎日の基礎練習を試合に変えただけ。回数は減ったけど、その分今度は密度が濃くなった」
『なるほどな。実戦経験がそのまま修練になるというわけか』
それは脅威だと、クロアは真剣にうなずく。
実践に勝る経験無しというが、練習の時点でそれだけ自分を追い込める人間なら、実戦での伸びしろはかなりのものになるだろう。
「それとね。あいつはとにかく、駆け引き上手だったわ」
ゲームにおいて、コウヤはとても柔軟だった。
自分に出来ることと出来ないことを正確に判断し、幾つもの技術を組み合わせて、問題に対応しようとする。
特に、不利な状態からの逆転が得意だった。
「その場を凌ぐのがうまい、って言うのかしら。とにかく、ピンチにおいて最善の行動を取ってくるのよ。これも経験則による技術なんだろうけれど、はっきり言って、相手からするとかなり厄介なタイプね」
『確かに、言われてみるとあいつの戦い方には、受け身での手数が多いな』
ディスプレイ越しで、何かを操作している様子が見えた。学内で行われた試合のデータでも見ているのだろう。研究熱心な所も相変わらずといったところか。
龍宮クロアの強みは、この油断することのない勤勉さにある。
昔から彼は、どんなことでも気を抜いて取り組むということがなかった。特に魔法に関して言えば、彼の努力のあり方は鏑木コウヤのそれと似ている。
だからこそ――ハクアは、その事実を兄に伝えたかった。
「それにしても」
データの参照を続けながら、クロアはなんとなしに言う。
「随分といろいろ教えてくれるんだな。どうした? 鏑木はお前の彼氏じゃなかったのか」
「……今は距離を置いてるし、別に良いでしょ」
からかい気味の言葉に、ハクアはハッと我に返って目をそらした。
確かに、思ったよりも喋りすぎてしまった。
最初はコウヤのことを警戒して欲しいくらいの気持ちだったのだが、いつの間にか、話すのが楽しくなってしまったのだ。
別に、コウヤに負けて欲しいわけじゃないし、兄の味方をするつもりでもない。
それなのに、こんなにもコウヤの情報を喋ってしまったのは。
ただ――少しでも会話が続けばと。
あえて自覚しないでいる想いを胸に秘めたまま、彼女は不敵に言う。
「コウヤは強いわよ。バディ戦だからってファントム頼りでいたら、痛い目見るかもね」
『おう。肝に銘じておくよ。ありがとな、ハクア』
「……べ、別に」
礼がほしいわけじゃない、と。
言葉にならない声で、ハクアはモゴモゴと口を動かした。
ハクアが言いよどんでいる間に、兄は軽く笑って、
『それで。お前の目から見て、俺と鏑木、どっちが勝つと思う?』
非常に意地の悪い質問をしてきた。
そっと目を閉じる。
自身の知る兄と鏑木コウヤ。二人を比べたことがないと言えば嘘になる。
特に、シューターズに関しては、急成長を遂げたコウヤを見ていると、嫌でも比較してしまう自分がいた。
「試合はバディ戦でしょ。なら、はっきり言って未知数ね。兄さんのバディ、センリはかなり強力だから、それだけでアドバンテージだし。それに対して、コウヤのバディは、一度因子分化を経験しているって聞いているから、今どうなっているかわからない」
『ああ、そうだな』
「そもそも私は、アメリカにいたときは、コウヤがバディ戦をする所を見たことなかったからね。だから、バディ戦は未知数とだけ言って置くわ」
そう言ったあと、わずかに間をとる。
画面越しの兄の様子を盗み見る。ディスプレイは高解像度だが、ハクアの眼には兄の顔が認識できない。そこにあるのは分かっていても、彼がどんな表情をしているのかわからないので、その間から想像するしか無い。
返答がないのを確認して、ハクアはそっと息を吐く。
そして、はっきりとその事実を口にする。
「シューターズに限って言えば、コウヤは本当に強い。少なくとも、シングル戦で私が勝負したとしても、一回の勝負で絶対に勝てると言い切る自信がないわ」
『そうか』
スピーカーから響く兄の声は、あくまで自然体だった。
その泰然としたぶれない態度に、もどかしさに似た憤りを覚える。しかし、ハクアはその感情を表に出すすべを持たない。
黙り込んでしまったハクアに、兄は吹っ切れたように笑いながら、
『助かった。ありがとな』
と言って、あっさりと通話を切ってしまった。
「待って」という暇もない。
海外通話は高いので、用が済んだのなら切るのが当然ではあるが、本当に、自分のことをまったく相手にしてくれない男である。
「ほんっと、勝手な人なんだから」
暗くなったノートパソコンを前に、ハクアはまた外の景色を眺める。
兄――龍宮クロアは、ハクアにとっての目標だ。彼の持つ圧倒的な自信は、積み重ねてきた努力に裏付けられたものである。
幼い頃のハクアは、そんな兄を見て、自分も彼のようになれば、誰からも忘れられずに済むのではないかと思った。
がむしゃらに武者修行し、あちこちに顔を出しては無理な練習を行ったのは、そんな兄に近づきたかったからだ。そうして実力をつけるたびに、兄に挑む。それはいつしか、兄に認められることが目的になっていた。
今では、実力としては大差ないものを手に入れたと思っている。むしろ、一部の競技では勝ち越しているくらいだ。
しかし兄は、どんなに妹に負けても、楽しそうに笑うだけだった。「強くなったな」や「もう敵わないな」と言った言葉を簡単に言ってくる。
手を抜いているわけじゃないし、ちゃんと全力で勝負してくれるのだが、あくまで真剣なだけで本気ではない。だから、負けてもそんなヘラヘラとした態度を取ることが出来る。
ふざけるなと思う。
本当に負けたくない相手には、どんな搦め手でも使おうとするくせに。きっとコウヤとの試合では、僅かな勝機を得るために手を尽くすくせに。敵わないとわかった上で、どうやれば勝てるかを泥臭く考えるくせに。
兄は、ハクアに対してだけはそれをしない。
そのことを嫌というほど分かっている。
だから、相手にされていないのだ。
妹だからなのか、女だからなのか、何が原因なのかはわからない。
ただ一つ言えることは、ハクアが憧れた背中は、永遠に届かないものだという事実だけだ。
「似てると言えば似てるけど……でも、そこは違うんだよね」
ぼやきながら考えるのは、件の少年のことである。
冷めてしまったコーヒーを一口含み、九時間先に時間が進む地へと思いを馳せる。
鏑木コウヤ――一時期は深い仲になり、今でも気の置けない異性。
龍宮ハクアは、人の顔が認識できない。
だからこそ、その人の持つ雰囲気や、性質というものに強く惹かれる。
コウヤの持つ魔力の形は、硬い日本刀。
かつては形の定まらない鉄でしかなかったが、二年間の海外生活で見事にその精神は鋳造された。
折れず、曲がらず、砕けず、まっすぐに――ひとたび目的という名の担い手に握られれば、そのパフォーマンスを最大限に発揮する、強い意志の持ち主。
そのストイックな姿に、兄の姿を重ねなかったかと言えば、嘘になる。
けれど、兄が永遠に届かない幻想であるのに対して、コウヤは、自分の隣にいてくれた少年だった。今は自分が前を走っているが、彼は常に隣にいようと努力してくれる。それが、ハクアにとってどれほど救いだったことか。
今はまだ、実力で言えば自分のほうが上だと自負している。
コウヤはシューターズを専門にしていたのに対して、ハクアはオールラウンダーを目指している。二年程度で追い抜かれるほど、やわな鍛え方はしていない。
しかし――鏑木コウヤのストイックさで、もし本気で取り組まれたら、いつ追いつかれるかわかったものでないと思う。
「そういう所、ほんとかっこいいんだよね、あいつ」
微かに未練を匂わせながら、その余韻に身を浸す。
自分と並び立とうとしてくれる同年代の男の子は、彼女にとって、おそらく二度とはない出会いだろう。
そして。
彼のことを思うごとに、自然と浮かんでくる一人の少女の姿がある。
國見キリエ。
これも、おそらくは二度とはありえない宿敵である。
「私達とドンパチやらかした後に、ちゃっかりオリエントの入試も受けてたなんて……ほんと抜け目ない女ね」
コウヤに対して何度も嫌がらせを行い、はてには命のやり取りにまで発展した、慇懃無礼な少女。
その常軌を逸した行動と価値観には、何度も手を焼かされたものだ。
國見キリエの魔力の形は、透明な泥だった。
どうしようもないくらいに汚らしく、ベタベタとまとわりついてくるのに、その色はあまりにも透き通っている。そんなアンバランスで矛盾したような形が、彼女の本質だった。
彼女は何だってした。
人を扇動したし、裏で糸を引いたし、罠にはめたし、妨害をした。
そのひとつひとつに、コウヤは傷つけられた。海外での活動の内、トラブルの半数近くはキリエに起因したものであると言っても過言ではない。ある意味、二年間かけてコウヤが戦い続けた宿敵であるとも言える。
しかし、その本心に触れたことがあるのは、自分だけであるとハクアは思う。
「心配は心配……だけど」
思い出す。
人生で初めて殺し合うほど憎み合った少女の言葉を、思い出す。
――顔なしが、イライラするんですよ。
――なんで、なんで人の顔もわからないのに、そんなに平気なんですか。
スラム街の薄汚れた路地裏で、過去に生きる少女は怨嗟の言葉を漏らした。
その鬼気迫る表情と対峙した時、ハクアは敵意よりも共感を覚えた。
――過去になりたくなかった。
その絞り出すような声を、覚えている。
おそらく、一生忘れない。
「多分もう、大丈夫だから」
ポツリと、ハクアはそうつぶやいた。
キリエは相変わらず暗躍するだろうが――それでも、スラム街で見せたあの涙の後では、その行動の意味はまるで変わってくるから。
けれど。
「やりすぎないように、一度くらいは釘を刺しに行かないとかな……そうね。どうせならキサキにも会いたいし、ちょっと長めの休みでも作って……」
スケジュールを調整しながら、ハクアはそんなことをぼやく。
スラム街での決闘からもう半年は経つ。
あの時の憎しみや怒りは今も鮮明に覚えているが、それでも、今ならば少しは腹を割って話せるのではないかと思う。
例えば、そう。
普通の女の子らしく、恋バナなんかも、出来るのではないかと――
「なんて、馬鹿な話か」
苦笑を漏らして、ハクアはノートパソコンを閉じる。
それを待っていたかのように、対面に座っていた風見ジュンが声をかけてきた。
「お嬢。そろそろ時間だ」
「うん。わかってる」
風見ジュンからの言葉に応じて、ハクアは席を立つ。
さて。人の予定を気にするのもいいが、自分の予定に戻ろう。
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