蜂蜜とスパイス

川上桃園

メイドはお嬢様と出会う

 名古屋の大須にあるメイド喫茶『エウロペ』では大勢のメイドたちが「旦那様」と「お嬢様」を出迎える。彼女たちは黒のロングスカートに白いエプロンを身に着け、白いキャップを頭に載せて、「おかえりなさいませ」と楚々とした仕草でお辞儀をする。


 『エウロペ』は本格英国メイド喫茶をうたいあげていた。

 あざとさのある「萌え」を押し出さず、あくまで紅茶とお菓子の味、そして第一次世界大戦前の「英国の古き良き時代」の雰囲気で勝負する。


 そのためか、『エウロペ』にはメイド目当ての男性客ばかりでなく、アンティークに囲まれたシックな内装と幸せなティータイムを目当てに女性客も集まる。年代物の蓄音機が洋楽を奏でる中、心地の良い静かなざわめきがいつも店内を満たしていた。


「ねえ、今店内にものすごくきれいな女の子がいたよ!」


 シフト交代の午後三時。休憩に入るメイドの同僚とすれ違おうとしていたナオミは腕を軽くぴしぴしと叩かれた。


「きれいな女の子? そんなに興奮するほどのこと?」

「だって、本当に尋常じゃない美人だったんだよ! お姫様とかお人形さんみたいにきれいな女の子だった。どこかの撮影帰りのモデルさんかな」

「そうなんじゃないの」

「あー、ナオミさん、反応が薄いよー。共有してよ、このきもちぃ。旦那様やお嬢様の前ではあんなに愛想がいいのに、バックルームの扉をくぐった途端にクールになるんだからぁ」


 完全に素に戻って甘えた喋り方をする年下の同僚に、ナオミは軽い苛立ちを覚える。これだからお気楽な大学生は。


「仕事とプライベートではキャラ変することにしているから。ほら、もうホールに出ないと。そこをどいて」


 フリーターのナオミには生活がかかっているから、『きれいな女の子』だろうと『醜い男』だろうと同じように『ご主人様方』のお世話をするだけだ。それがメイドを演じるスタッフのプロ意識だ。


「あー、そうですよね、すみません。あ、ナオミさんの担当テーブル、あの女の子のところですからー。あとお願いしますねー」


 やたら文頭に「あ」を連発することにも腹が立つ。

 ナオミは突発的にいじわるをしたい気持ちになって、ホールに出る木製の扉の前で振り返る。


 黒のワンピースの裾が優雅に翻る。その内側には夢のような白いパニエ。軽やかに音を立てるブーツのヒール。


 平凡な少女の目に焼き付いたのは、日本人に滅多に表れない真っ白な肌。高い鼻梁。薄闇の中でも爛々と輝くようなヘーゼルアイ。下ろしたら巻き毛となるだろう、セピア色の髪。


 シンプルなメイドの服に細い腰と豊かな胸部を収めた背の高い美女。まるでミュシャが描いたポスターに出てくる繊細で優美な理想の女性像がそのまま抜け出たようだった。

 流ちょうに日本語を操っているが、明らかに彼女の顔の造作には外国の血が混じる。


 ナオミは同僚に向き直って自分の顔を指さした。


「その『きれいな女の子』って――私よりも美人なんだ?」

「え、えっと、ナオミさんも美人ですよ!」

「お世辞をどうも。じゃあ、休憩ごゆっくり」


 今度こそナオミは扉の外に出た。



 外のテラス席を含めて九割方埋まっている『お屋敷』にて、彼女は扉を背にしたまま背筋をぴんと伸ばした。


 左足を引き、右足を少し曲げ、少し腰を落とす。白いキャップをつけた頭はうつむきがちに。


 カーテシーとも呼ばれるこの作法は女性特有のもので、今もヨーロッパの王室が関わる式典などでこの動作が行われているのがニュース映像でも流れる。


 しかし、欧米ならいざ知らず、ごく平均的な日本人がいきなりやれと言われても、一朝一夕で身に着くものではなかった。戸惑いや、不安、羞恥。そんなものが滑らかな動きを制限する。


 その点、ナオミのカーテシーは完璧だった。メイド喫茶『エウロペ』の空気を一瞬にして、イギリスのマナーハウスの居間に塗り替える。それはただ日本人離れした美貌だけでなせることではなかった。


 凛とした立ち姿。モナリザのような微笑み。手足の動きはゆったりとしているようでいて、無駄がない。


 その場に立つだけで周囲は「ああ、メイドだ」とわかる存在感があるのがナオミだ。しかし、それは侮りを呼ぶものではなく、不思議と気高さや誇りを感じさせるもの。さながら、本当の貴族に仕えているがごとく。彼女がいるだけで、「旦那様」や「お嬢様」はタイムスリップしたような気分になり、彼女と釣り合うよき主人になろうと微笑ましく背筋を伸ばしたくなるもの。


 ……ナオミが姿勢を戻した時。『お屋敷』の視線がほとんど彼女のものとなっていた。これもまたいつものこと。


 まろやかな放物線を描く胸元に手を置いて、出しゃばっていると思われない程度にそれぞれの視線を受け止めて顎を引く。


「遅れて申し訳ありません、ご主人様方。メイドのナオミでございます。何なりとお申し付けくださいませ」


 その日初めてフロアに入ったメイドが最初に告げる常套句として教育された台詞なのに、ナオミが言えばまるで本物のメイドが「主人」に告げているように聞こえる。


 彼女がテーブルやソファーの隙間を縫うようにコツコツ、と歩き始めても、その一挙手一投足はほとんどの客の視線を誘う。


 しっとりとしつつも、気持ちのいい歩き方は、どんなに彼女を見慣れている「ご主人様方」をも惚れ惚れさせた。


 たまたま蓄音機前にいた執事(店長)と目が合った。丸眼鏡の老人は一つ頷いて新しいレコードに取り換えた。ピアノのソナタが終わり、始まるのはアルゼンチンタンゴ。


『君は、ピアソラだねえ』


 選曲は店長である執事の裁量一つ。店のコンセプトは古き良き英国であるのに、BGMだけは雰囲気に合えば何でもいいとばかりに、簡単に時代や国を越えていく。



 昔は音楽を志していたという彼は、時折選曲に遊びを含ませる。


 彼から言わせれば、ナオミにはバンドネオンの音色が似合うという。物寂しくて、影がある。だけれど曲の調子で人を楽しませるのに長けている。だからピアソラ。ナオミがメイドとなるとき、ピアソラの曲は切り離せなかった。


 バンドネオンによる主旋律が始まる。アストル・ピアソラの曲は「踊れないタンゴ」と呼ばれるが、この部分に至る時、ナオミはいつもタンゴを踊る自分を思い浮かべる。


 魅せろ。全身の隅々まで意識を張り巡らせろ。


 仕事はじまりによく流されているためか、まるで一呼吸ごとに『曲』に浸食され、『曲』に命じられているようだった。


 これを知りながらピアソラの曲を流しているのなら、執事長の選曲は本人の意図よりも大きな効果を挙げている。


 ナオミは手が空いた同僚たちと口々に挨拶を交わし、連絡事項などを引き継ぐ。今日の担当は、店の奥の窓際と壁際の席らしい。


 最後に話しかけた同僚はナオミの耳元に小声でこんなことを吹き込んだ。


「マリアが言っていたかもしれませんが……窓際の、一番奥。黄色い薔薇を飾ってある席に、すっごく可愛い子がいるんです。まるで日本人形みたい……」


 うっとりとある一点を見つめるマリア。

 同僚の視線を辿ると、ひとり掛けソファーの背から赤い花の髪飾りをつけた黒髪がある。もちろんそれだけしか見えないから美醜などどうでもいい。


「今日初めて来られたお嬢様ですね……。そうなかったら絶対に噂になりますし……。玄関でお迎えした瞬間に『ああ、きれいな子だな』って……。ナオミさんを初めて見たときのことを思い出します」


 マリアだけでなく、おとなしいアリサまで夢見る乙女のように悩ましい息を零すのだから、今までフロアが浮ついていたのは想像に難くない。

 彼女は同僚の肩に触れる。


「アリサも余計なおしゃべりが過ぎますね。その顔ではお嬢様にご不快な思いをさせたのではありませんか」

「そ、そうですね……。申し訳ありませんでした」


 思い出したようにアリサは軽く一礼してから自分の持ち場に戻っていった。


 さて。


 『エウロペ』内にはまだピアソラの曲が流れている。

 呼び出し用の小さなベルがちりり、と鳴り、ついで一番奥の席に座るお嬢様がすっと手を上げた。花模様がついた白い着物の袖を別の手で押さえる。


 珍しく和装のお嬢様が一人で来店されたから目立つのか。

 『お嬢様』のところへ真っすぐ向かえば、顔一つ分の大きさの窓の外に広がる無機質な現実を眺めていた。アスファルトに雨粒が叩きつけられ、向かいには人気のない灰色のマンションがある。


 つたない旋律が聞こえてきた。バンドネオンの音を拾っては口ずさんでいる。


 テーブルには黄薔薇が一輪挿しになったガラス製の花瓶と、湯気が立ったままの紅茶に、クリームを添えたシフォンケーキが一切れ。一口分だけ失われている。


 窓ガラス越しにうっすらと見えるその顔は確かに作り物のような美貌だった。彼女は人の気配に気づいて顔の向きを変える。


 肩に付かないほどに切りそろえられた黒髪は絹糸のようにさらりと清々しい音を立てるよう。


 棗型の目には黒くて長い睫毛がびっしりと覆っている。同じく黒い瞳は見る人を招くように時折星が瞬くように光る。鼻と唇は控えめな日本人らしく小作りだが、一つ一つがバランスよく配置され、特に唇は桜の花びらのように淡い。


 抒情画家、蕗谷虹児が描いた和装の女学生が絵そのままに座って喫茶店『エウロペ』でティータイムを楽しんでいる。大正の少女雑誌の表紙か口絵に収まりそうな光景だ。



 ただし、彼女は微笑むわけでもなく、曲の音程を追うのをやめて青ざめた顔でナオミを見つめた。


「お待たせいたしました、お嬢様。ナオミでございます。何か御用でしょうか」


 対してナオミは春の女神のようににこりと笑顔を作り、両膝をつく。

 二人用のテーブルは低めに作られている。だからメイドはワンピースの裾からのぞくレースが汚れるのも構わないで、『ご主人様』を見上げながらお話するのだ。


 無表情なお嬢様はゆっくりと目を細め、耳触りの良いアルトの声で、


「……今の曲名を知っていますか。いい曲だから気になって」


 ナオミはよどみなく答えた。


「《ブエノスアイレス午前零時》と言う曲です。なんでもアルゼンチンタンゴの曲だとかで」

「楽器はアコーディオン?」

「いえ、バンドネオンです。形は似ていますが、鍵盤はピアノのようなキーではなく、ボタンです。低音には独特の渋みが出ます。この曲の作曲者はアストル・ピアソラと言うのですよ」


 アストル・ピアソラ、と二枚の花びらのような唇が反復する。そのまま何をするわけでもなく、ナオミの瞳の底を探るような視線を送る。ぱちり、と見えない火花が散ったことだろう。ナオミも同様のことを考えていたものだから。


「音楽には詳しい? 何か楽器などは?」

「とくに何か秀でているということもありませんが、『お屋敷』で流す曲の概要ぐらいは諳んじることぐらいはできます」

「自分を有能だと思いますか」

「有能という評価は他人からの客観で得られるものだと僭越ながら考えます」

「名前は?」


 ナオミは自分のエプロンの胸元についた小さなプレートを両手で持ち、相手にも見えるように上向きにした。


「ナオミと申します」

「ナオミ?」

「はい、何なりとご命令くださいませ、お嬢様」


 和装美人は名札とナオミの顔の間で視線を行ったり来たり。顔に血の気がないので心中は推し量れない。


「私の名前は三宮スズと言います。名前はカタカナです」

「スズお嬢様ですね。今後はそうお呼びいたします」

「うん……。大事なことだから覚えておいて」


 ナオミはその言い回しに違和感を抱く。


 その間にもお嬢様は唐突に手元のちりめんの巾着袋の口を開き、領収書の綴りのようなものを取り出して、同じく入っていたボールペンにさらさらと何かを書き込んだ。動きがおっとりとしている。


 書いたそれをびりりと一枚引きはがし、ナオミにわかるようにテーブルの端に置く。


 『一千万円』と書かれた小切手が。


 息を詰めたナオミに、スズお嬢様は星がきらめくような艶やかな髪を耳にかけつつ、ひたりと焦点を合わせた。


「ちょうど、私の世話をしてくれるメイドが欲しかったので。ナオミ、あなたに決めようと思います。報酬として一千万円を用意しました。当座には十分な額のつもりです」


 二人のやり取りを見守っていた人々がざわめく。

 片やヨーロッパ式の庭園の中央で華々しく咲く大輪のダリアのような美女に、一人は奥地の渓谷でひっそりと咲く笹百合のような美女の組み合わせは眺めるだけでも眼福であったが、話の内容はあっと驚かせるものだった。


 それはナオミにとっても同じであることは言うまでもない。音が無くなったような空間で一人、ゆっくりと息を吸い、吐く。自分よりも小柄で若いお嬢様を見上げ、きっぱりと言い放つ。


「恐れながらお引き受けいたしかねます、スズお嬢様」




一月後。からりとした春の風と、鈍重な雲の隙間からオレンジ色の光が漏れるころ、メイド喫茶『エウロペ』の扉についたベルがカランカラン、と音を立てた。


 背が高い外国人モデルのような女性が出てきた。

 黒いワンピースに白いエプロン、白いキャップ、赤い革張りのトランク。

 かつかつ、とブーツのヒールの音を響かせ、颯爽と古巣を後にしようとして。


「ナオミさんっ」


 声に振り返ると、扉に寄りかかるようにして、これまで一緒に働いていた同僚が立っていた。


「お嬢様に見初められたからって、私を置いていくんですかぁー! ひどいですぅー!」


 その悲壮感に欠けた叫びは元同僚のマリアのものだ。


「一度は断ったじゃないですかぁー! それでいいじゃないですかぁー! ナオミさんの裏切り者ぉー! 美人にほだされるなんてーっ。そんなの自分を鏡で見れば十分じゃないですかぁ!」


 ナオミは唇の前に人差し指を立てる。


「静かに。ご主人様方がいらっしゃるところで大声を出してはいけないでしょう」

「で、でもナオミさんがいなくなっちゃうなんて嫌です……」


 怒られたマリアはしゅんと落ち込んで、手元をいじる。そしてちらっ、ちらっ、とナオミを見て今にも立ち去りそうな顔色に出会ったので、ぱっと顔を上げたと思ったら。


「だってナオミさんがいなくなっちゃったら、わ、私がほかの子たちをまとめなくちゃいけないじゃないですかーっ! さっき執事(店長)に言われてしまったんですよ、『バッハ君。次は君がリーダーです』って!」


 バッハなんて嫌です、とマリアのマシンガントークは止まらない。


「バッハなんて白もじゃ鬘のおじさんだってことぐらいしか知らないし、執事長の独特の感性について行けたのはナオミさんだけだよ! 自分の曲だからってバッハの《小フーガ》を流されても、ひたすらに迷路に迷い込んだ気分になるだけですっ。アリサだってグレゴリオ聖歌じゃないですか、執事長はきっとアリサを昇天させようとしているんです、ハラスメント事案ですっ。ナオミさんがいなかったら誰がストッパーをしてくれるんですか、やめないでー! ナオミさんがいなくなっちゃったら、私、マリアナ海溝に沈んじゃいますぅー!」

「マリアがマリアナ海溝に……。だじゃれ?」

「はっ。ち、ちがいますーっ!」


 マリアは泡を食って否定しているところに、一台の黒塗りの高級車が店の前で止まる。スーツ姿のスキンヘッドの男性が降りてきて、ナオミの前で車のドアを開けた。


「お待たせしました、唐崎さん。これから家の方に向かいますのでこちらに乗ってください。トランクは私が」

「ありがとうございます……じゃあね、マリア」

「え、ナオミさん? もう行っちゃうんですか、まだだめですっ。せめて最後に連絡先ぐらい教えてくれても……!」

「むり」


 一刀両断しないでくださいよぉー、とマリアは悔しがる。


「なぜですか!」

「なぜと言われても。とくに連絡する用事はないから」

「ありますよぉ! 『おはよういい天気だね』から、『おやすみ。明日もいい日になりますように』まで色々と!」

「むり」

「でも!」


 マリアはまだ食い下がる気らしいが、運転手がトランクを車に積み終えたところだ。タイムアップ。


 右手を軽く挙げて、ひらひらと振った。


「お元気で」


ふっ、と口角も少し上げてみせる。すると、真正面のマリアの顔が一瞬でぼんっ、と赤くなった。ふわあああっ、とマリアが手をわたわたと振った。


「ナ、ナオミさん、その顔はずるいよぉ……」


 構わずナオミはマリアに背を向けた。後部座席に座ろうと中を覗き込んだところで、奥にきれいな日本人形のような女性がいることに気付く。黄色を基調にした振袖に深緑の袴をつけていて、膝には紫の風呂敷包みをのせていた。ナオミが中に入るのをじっと見守っている。


「こんにちは、スズお嬢様。こちらにおいでになっていたのですね」

「うん……。大学帰りだったから、それで」


 青白い顔がそらされた。


「田畑さん。車を出して」

「かしこまりました」


 田畑と呼ばれたスキンヘッドの男性はゆっくりと車を発進させる。黒い車はあっという間に角を曲がって、『エウロペ』は見えなくなる。


 『エウロペ』の前に残されたのはむぅ、と不満そうに頬を膨らませたマリアだけ。


「なんなの、あれっ! くそう、お嬢様め!」


 大きな独り言を呟きながら、恨めしげに車が消えた方向を見ていた。

 店内の曲がピアソラの《ブエノスアイレス午前零時》から切り替わった。


 バッハの《小フーガ》だった。

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