ひと月前ほど仕えていた武家様より暇を出された。

お館様直々に屋敷内にいる使用人全ての前で言われた言葉。

それで「ああ、もうこの地は危ないのだな」と自覚した。

耳に入るのはきな臭い話ばかりだったから、いつかこうなると思っていた。

奥方付きだった私は、お館様に加え奥方様からも暇を告げられた。

屋敷内の物も出ていく人々に渡し、金に換えろと言う。その商人も紹介してもらった。

出ていかない人もいた。お館様はお優しい人だから家がない人や身寄りのない人を使用人として家に置いていた。私も、そう。

幼い頃、前ご当主に拾われ、寺で勉学までさせて貰った。所謂『お館様』の幼馴染という立場で。使用人というよりも家族に近く思っていた。

『奥方様』も同じだ。私とは違って武家で同じ寺で過ごした友。

だからこそ、私は出ていかないつもりだった。槍ぐらいは扱えるし、大御所様もいるこの家を最期まで護れるくらいの力はある。

そう自負していたというのに。


目の前には『お館様』と『奥方様』、そして一つ歳を重ねられた――様。

この人たちは『使用人』ではなく友として私へ頭を下げていた。

「……やめて」

おやめください、と言うつもりだったのに、こう言葉を崩したのは何時ぶりだろう。

さてはて言葉は届かなかった。

なぜなら私は合戦場で物売りをしている。負け戦と聞いて集まった見学者たちに心太を振舞いつつ、遠くで踊る砂煙幕を見ていた。

知っている兜が馬から落ちる。

刺される。

膝まづく。

首が飛ぶ。

掲げられた『それ』の表情は分からない。

分からないのは商売道具を投げ捨てて仕えていた屋敷へ駆け出したからだ。

ここから遠くない。運よく――の御父上が奮闘されて敵が屋敷へと入り込むのは先になる。

まだ時間はあった。だから、そうだから、やりたいことをすると決めた。


勝手口から入り土足で『奥方』の部屋まで進む。

「――」

先に名を呼んだのは――だった。そんなにも意外そうな顔もせず「そう、お館様は亡くなったのですね」まだ息も整わぬ内に呟かれては何も呟くことはない。

顔色だろうか、私はそんなに分かりやすい顔をしていただろうか。だって彼に対する気持ちをひた隠しにして彼女へのこんがらった気持ちに蓋をして生きてきたのに。

「同じ女ですから」

分かりやすかったらしい。

「本当、嫌な女になったわね――」

口から大きく息を吐く。そして私は服を脱いだ。

「やると思いました」

幸い、子が居ることについて敵は知らないはずだ。あとは運だが逃げ切れるか死ぬかは――次第。

「選べなかったから」

「何を?」

――も綺麗な反物を脱ぎ始め、私たちは服を交換した。私は――の綺麗な髪を櫛で乱れさせ、私は整える。

「あんたと――」

顔を拭き、――の顔には砂を擦り付ける。

「私はさ、この身の上を考えれば二人と一緒に過ごせただけで幸運だし」

どっちも大切だった。好きだったから心の中が苦しいし幸せだし痛いし嬉しい。今も。

「裏から出て右の獣道を行く。そうしたら小さな坂に出る。で上ると見学している馬鹿たちがいるの、その中で――という商人……ほら、辞めていった人たちから調度品を買い付けてくれた――っての。話は通してある。信用できる男じゃなさそうだったから金だけ貰って戦が終わる頃、そおっと国境に行って。そのあと峠を越えて隣まで行けば今の私の家……ても小さな家だけど。ああ、山賊とかは平気。ほら敵軍の何だっけ? 名前忘れたわ。山狩りをしたのよ、自分たちの物資を狙われてはかなわないって。ああ、村では縫物や草履とか作れる女職人で通っているから利用して。もう村の人には隣の国に夫と子供がいて近々こちらに来るって媚び売ってあるから」

いい? と顔を覗き込んだ。

小さい土地だし、――の顔なんぞ割れてないだろう。これでいい。

「ほんとはね、嫌われていると思ってたから――は来ないと思っていたの」

ぽつりと私になった――は悲しそうに笑った。

「駄目ね、私。嫌われているじゃないわ、嫌われていたかったのね。でないと大切な二人を大切なままにできなかったから」

――は昔から強くて羨ましい、そう言われるけれども。

「じゃあ、これから強くなって。強くならなきゃ――は守れない」

馬の嘶きが近くなっても二人の子は起きなかった。随分、胆が据わっている子。この戦が今後どう響くか分からない。決着次第では私も――も生きて名を名乗れるかもしれない。でも最悪な結果だけは許せなかった。

服を整え、入れ替わった私たちはお互いを見る。

似ていないのは顔だけのはず。――をおぶらせ汚い草履を履かせた。

これで、いい。

「外に出るの久しぶりだわ……いってきます、――」

ああ、こういうところが嫌いだ。嫌いになれない所だ。この友はいつだって諦めない。そんな子だからこそ――と結ばれたのだ。

私にも縁はあったのだ。断ったのは私だ。二番目とかではなく、亀裂が入ることが怖くて間に入らなかった弱い私。

「いってらっしゃい、――」


泣きそうなのはお互い様だ。大切にしていた三つのうち一つを喪い名を呼べなくなることがこんなにも恐ろしかったなんて。

小さくなる背を見ながら私は身なりを整え、呼吸を整え、元の場所に戻った。

屋敷に押し戻された家来たちが続々と入ってくる。

――の御父上は私を見るなり大きく目を見開いていたけれども。同時に「お館様はご立派に事を成された。ここは危ない逃げよ、――!」と己の子の名を呼んでくれた。

ああ、敵が流れ込んでくる。

世の常とはいえ無常な事だ。私は座る。家臣たちは皆、私だと分かっているのに――だの奥方などと言って笑ってしまう。

「――家、――はここにあります!」

声を張り上げ名乗りをあげれば庭に入ってきたのは――の首をとった敵の将だ。

薙刀を構えたいのを堪える。ああ、御父上が倒れてしまわれた。でも大丈夫です、――ならきっと生き延びてくれます、強い女だから。

かの将は私のように名乗ると、その刃をこちらに真っ直ぐ向けた。刀のように、その瞳のように真っ直ぐな人なのだろうな、この仇者は。

なら私は答えなければならない。武家の妻らしい最期にしようとしたのに。

重い羽織を脱いで背にある薙刀をとると同じに構える。

ねえ、――、貴女の足なら商人の所についている頃合いだといいな。屋敷内で怒号に悲鳴に残った者たちが奮闘している。

柄を握りしめ見据え、そして――遠くで鶫の声が聞こえた。

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