カフェ・トゥリナエストで会いましょう
氷月
第1話 42.3で会いましょう
今日もまた、この場所に来てしまった。
長い長い階段を昇らなければ日の光を浴びることができないくらいに深いところだからか、はたまた電車が駆け抜けるときの微風が心地よいからか。
とにかく、この場所は落ち着くのだ。
悩んでいるときや迷っているときはいつもここに来てしまう。
今日もまた、そんな日だった。
目の前に電車が滑り込んでくる。
気が付けばここに来てから30分が経っていた。
(これ以上ここにいたら変な人だと思われちゃうよね…)
帰路につくために流れてきた人の後ろに隠れるようにして歩く。
いつもなら5分や10分でいいのに、今日は、いつもより心が軽くならなかった。
ここでは軽くならないほど、今日の傷は深いみたいだ。
ホームに聞きなれた音楽が流れ、電車が動き始める。
最初は弱かった風がだんだん強くなっていく。
このまま私の心を吹き飛ばすくらいに強くなればいい。
そんなふうに思い始めたとき、
「うわっ」
目の前を歩いていた男性が声を上げた。
そして、バサバサという音とともに小さな紙がホームに散った。
今日ツイてないのはわたしだけじゃないのね、と同情する。
都会の怖いところは、困っていても誰も振り向いてくれないところだ。
その痛みを、私は誰より知っているから。
「大丈夫ですか?」
そう、声をかけた。
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おしゃれなカウンターに、一人腰かける。
「改めまして。ようこそ、カフェ・トゥリナエストへ。
それと、先ほどはどうもありがとうございました」
向かいに立った男性、もとい、このカフェのマスターは微笑んだ。
人の良さそうな端正な顔立ちで、細身に黒いエプロンが似合う、とても素敵な人だった。
マスターと出会ったのは本当にさっきだ。
私の目の前で小さな紙を散らしていたところに私が声をかけたのが、マスターだった。
かき集めた小さな紙はカタカナがおしゃれに並ぶショップカードだった。
名前に『カフェ』とあるから、きっとこの人がやっているお店なんだろう。勝手に思い込んで聞いた。
「カフェ、やられてるんですか?」
私の問いかけに、彼は苦笑いをしながら、はい、と答えた。そして、
「お礼がしたいので都合の良いときに私の店にいらっしゃってください」
と、落としていないショップカードを私にくれた。
それが15分くらい前の話。
特に予定のなかった私は、彼についてきた、というわけである。
そのときも、不思議とこの人ならついていっても大丈夫、という安心感があったし、今もなんだか彼の向かいがとても落ち着く。
とても初対面だとは思えないくらいには。
「今はコーヒーくらいしか出せないのですが、お嫌いではないですか?」
そう言って差し出されたカップから溢れたいい香りがふわっと私を包む。
「コーヒー、大好きなんです」
そう告げると彼は安心したように、それは良かった、と微笑んだ。
いただきます、と言っていい香りを放つカップに口をつける。
「ブラジル、という豆を使用しています。コクの深さと香りの良さが特徴なんで す」
「ほんとだ。甘いお菓子とかといっしょだとよりおいしいかも。マシュマロフォン ダントとかだと見た目も華やかになるかなぁ」
「なるほど。甘いお菓子、ですか」
マスターが顎に手を当てる。
そこで自分がとんでもないことを言ってしまったことに気づいた。
「あ!いやその、お菓子を要求しているわけではなく、ですねっ!仕事でお菓子を 扱っているので、職業病と言いますか、なんというか、その…すみません」
何を言っているんだろう、私。
ますます怪しいではないか。
恥ずかしすぎて、語尾を消しながらうつむくので精一杯だった。
「いえいえ、お気になさらず。甘いお菓子があった方がよさが引き立つなんて、私 はそこまで考えがまわっていませんでした。なぜ思いつかなかったのでしょう。 謝らせるよりむしろ、思い出させてくれたあなたに感謝しなくては」
「へ?」
お菓子が思いつかなかった?
驚いて顔を上げると、何やら考え事をしているようだったマスターは手元のコーヒー豆に視線を落とした。
「実はこのカフェ、まだ開店していないんです。来月のあたま、ちょうど7日後の4 月1日に開店予定なんです。だから何かと準備不足で」
端正な顔立ちが素敵だとは思っていたが、目を伏せている姿も絵になるなぁ、なんて思っていると、伏せられた目が突然戻され目が合った。ドキリ、と心臓が高鳴る。
「あなたに助言いただけて助かりました。ありがとうございます」
ありがとう、なんて、久しぶりに言われた気がする。
仕事ではいつも失敗ばかり、怒られてばかりだったから。
そう告げるとマスターは不思議そうな、でもどこか弱音を吐いてもいいと促してくれるような目で私を見つめた。
後者は私が勝手にそう思っただけかもしれないけど、今は話が聞いて欲しかった。
マスターになら、なんでも話せる気がした。
「私、お菓子のお店に勤めているんです」
そう言って、私はとつとつと話し始めた。
パティシエールになるために専門学校に進学したこと。
腕を認めてもらえて今のお店に勤め始めたこと。
今のお店はかなり有名で、大きなお店だ。
だけど新人だから雑用と接客しかさせてもらえないこと。
それは仕方ないにしても、その2つがまともにできなくて、いっこうにお菓子作りに携われないこと。
そして、そのまま3年が経ち、今日、私より遅くに入ってきた後輩に先を越されてしまったこと。
話始めると止まらなくなって、時々言葉に詰まりながら話した。
マスターは、そんな私を止めることなく、静かに聞いてくれた。
「だからつらくなってあの場所にいたんです。あの場所、なぜかとても落ち着くん ですよね。気が付くとあそこに足が向かっているんです」
自嘲気味にあはは、と笑ってみる。
そうですか、とマスターは言った。
「話したら少し気持ちが軽くなりました。すみません、聞いてもらっちゃって」
なんだかマスターの雰囲気が話しやすくていろいろ話してしまった気がする。
「いえ。大変だったのですね」
「まあ」
「でも、頑張っていらっしゃる。私も見習わなければ」
「……私、いつか一人立ちしたいんです。だからもう少し頑張ろうかな、なんて」
マスターと話をしていて思い出した。昔描いた夢は、自分の店を持って人々を笑顔にすることだったということを。
私は今の今まで、そのことを忘れて生きていた。
本当にやりたかったことが、精一杯の現実に隠されて消えかけていたことに、気づいてあげられていなかった。
「いつか、ですか」
マスターはそういうと、また顎に手を当てた。
きっと何かを考えるときにそうするのが彼の癖なのだろう。
心が軽くなったおかげで、そんなことを考える余裕が出てきていた。
さっきとは打って変わってほほえましい気持ちで彼を見ていると、彼は顎から手を離し私の方を向き直った。
「あなたさえよければ、なのですが…。
いつか、などと言わず、飛び出してきてはくれませんか?」
「え?」
彼は恥ずかしそうに、でもしっかりとした声でいった。
「このカフェ・トゥリナエストでパティシエールとして働きませんか、ということ です。
さっきもお伝えした通り、私はお菓子の存在をすっかり忘れていました。
仕入れるにしても、当然、発注先も決まっていませんし、今からではなんともな りません。
ですから、私にあなたのちからを貸していただきたいのです」
どううでしょう、と言った彼の目はまっすぐで、本気なんだということが伝わってくる。
「でも、私の作るお菓子の味とかそういうの、いいんですか?」
「ええ。あなたの腕を信じます」
この人は変な人だ。
会って間もない見知らぬ新米パティシエールに、そもそも本当にパティシエールかもわからないようなヤツに、腕を信じる、だなんて。
でも…とても嬉しい。
今のお店にはお世話になったし、制作に携わることができなかったという未練もある。
だけど私は、私の腕を信じてくれたこのおかしなマスターを信じたい。
だから、答えはひとつだけ。
「ぜひ、私をここで働かせてくださいっ!」
「…本当、ですか?」
彼は驚いたように目をパチクリさせている。
それもそうだろう。
出会ったばかりの人間の誘いに、しかも仕事を辞めてきてほしいなんていう突飛な誘いにノコノコとついて行く人はなかなかいない。
マスターが変な人なら、私もつくづく変な人だ。
「ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
「ふふっ。それでは結婚するみたいですね」
「あっ」
彼は今日1番の笑顔を見せた。
恥ずかしい。
そう思ったのと同時に、綺麗だ。そう思った。
男の人に、綺麗だなんて失礼かも知れないけど、本当に綺麗だった。
「そうだ。あなたのお名前を伺ってもよろしいですか?」
「マリー…。朝倉マリーです。よろしくお願いします!」
「マリーさん。素敵なお名前ですね。
私は
トクン、と胸が高鳴った。
マスターと目が合った時とは違う、やさしい音。
きっとこれは、新しい人生が始まる音なのだろう。
To be continue…
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