熾天使たちの聖造物

デン助

第一章 魔法使いの左手

第1話 御使いの訪れ

 その日、天使を見た。

 炎に焼け落ちていく孤児院のなかで、息をしているのは自分ともうひとりの少女だけ。

 床に倒れ、壊れた壁にもたれ、あるいは炎のくすぶる木材に押し潰された子供たちは、その全てが物言わぬ屍。

 理由も前兆も何もなく、なす術なく命を奪われた、惨劇の痕。

「兄さん、姉さん……こんなの、嘘だ……!」

 やったのは、あの空に浮かぶ黒い天使。ぽっかりと満天の星空を映すようになった屋根の破壊跡から、その姿を見上げる。

 何もかもが突然だった。あいつが現れてから一瞬のうちに、穏やかに過ごしていた自分たちの世界が奪われた。

「クソッ、あの黒いの! ――シスター! どこにいるの! アンジーが怪我をしたんだ!」

 少年、リチャードは怪我をしてぐったりした少女を抱えながら、みんなの母親代わりである修道女の姿を求めた。

 答える声はない。そのうち建物を焼く煙に巻かれ、炎の熱で炙られて意識が朦朧としていく。

 そこで、天使は彼の前に降り立った。

「ボウヤが、そうか。世界に産み落とされた〈異分子イレギュラー〉は」

「何だよ、お前……! お前がみんなを!」

 少年はきっと、生涯その姿を忘れないだろう。

「異分子は、排除する」

 艶美に嗤う天使。真っ黒なドレスに身を包んだ、女性の姿を。

「……リッチ。私を置いて、逃げて……」

 出来るわけがない。足に怪我を負ったせいで歩くことも出来ず、息も絶え絶えの少女を置いて自分だけ逃げるなど。

 ――怖い。自分もみんなのようになってしまうなんて、どうしようもなく怖い。

 でも、今は泣いてなんかいられない。

 せめて、この子だけでも助けなければ。

「……母さま……ッ!」

 少女が呻く。痛みと熱に浮かされて、自分を捨てた母親を呼んでいる――涙。

 守らなければ。だけど、足が震えて動かない。

 いろんなものが混じって焼ける、厭なにおい。

「動け、動けよ!」

 つっかえ棒のような足を必死に動かし、何度も転びそうになりながら、少年は燃える孤児院から飛び出していく。

 けれど、空を自由に飛ぶ黒い天使はそれを見逃さない。

 ついに転ぶ少年。抱えられていた少女が勢いのまま野原に投げ出される。いつも子供たちの遊ぶ声が絶えなかった場所が、今となっては死地。

わらしは素直にせぬと、叱られるものだぞ」

 言い聞かせるような闇色の天使。しかして超越的な眼差しが少年を射貫く。

「う、う……!」

 目の前で殺気を放たれ、家族を殺されたという憎悪、逃げなければいけないという悔しさが、恐怖によって塗り潰される。

 今まで体験したことのない感情ーーそうか、これが恐怖。

 ただ、どうしようもなく怖い、怖い、怖い――!

「リッチ、逃げて……!」

 ――異変。

 少女が総身から放ち始めた金色の光が、立ち込める夜の闇を、昼のように眩く照らしていく。

「な、何だ……!?」

 それは、背に二対六枚の翼を持つ神々しいまでの姿。

「まさか、わらわと同じ……〈天使アイオーン〉なのか!?」

 黒い天使のものと対を為す、それは黄金を宿した御使いの出で立ち。

 ――時にして、共暦九八九年。

 その日、天使を見た――


    *    *    *


 一〇年後。

 共和国家ユーフォリアの首都、ブレイダブリクは建国祭の準備で賑わっていた。

 魔法が普及した現代において、この都は〈魔導都市〉とまで呼ばれるようになった、魔法と器械の集大成〈魔導器アーティファクト〉の街である。

 戦前に栄えた蒸気機関の姿は今や一掃され、車輪をもたずに宙を滑る車輌が行き交うのも珍しくない。上を見れば飛行便船の類もそこかしこに見受けられる。

 そのなかに今、ゆったりと走り出した路面鉄道の車輌へと駆け寄る二人の学生の姿があった。

 満杯に詰め込まれた人々の姿はみな制服。この時間は学生の登校で毎度の風景だ。

 見れば車輌の後部乗降用に空いたスペースにまで学生が満載。駆け寄ってきた二人の学生のうち、少年のほうがそこへどうにか飛び乗って足をかけると、片手で支柱をつかみ、あいた手を相方の少女へと伸ばした。

「アンジー!」

 応じた少女がその手を掴む。もうほとんどスペースがなかったのもあって、少年の腕へと抱きつくようにしての乗車。引っ張りあげられ、かろうじてステップに足をかける。

「おっと。大丈夫か?」

 少女は一度大きく息を吐く。これに乗り遅れれば遅刻確定の危ないところだった。少年がその細い腰に手をまわして支える。ふわりとシャンプーの匂いが鼻孔をくすぐった。白いワンピースに似た制服が風にはためく。

「ええ。ありがとう、リッチ」

 その美貌に息をのむ。

 たおやかな金髪を後頭部で結い、白いリボンで纏めた姿がトレードマークの少女。

 容姿の幼さが抜けてからは気の強そうな碧眼がいっそう持ち主の凛冽な佇まいを強調するようになり、理性と知性によって磨かれた面差しは解語の花のごとき佳人。

 芸術品のように端正な目鼻立ちと陶器のような白い肌に、可憐さと気品が同居した類い希な艶姿。

 少年、リチャード・カルヴァンの同級生にして四大名門貴族スキーブラズニル家に名を連ねる、アンジェリーナ。学院のなかでも成績優秀、品行方正にして一際有名である法学科のエリートが、よもや遅刻寸前だとはおかしな話である。

 対してリチャードは黒髪黒瞳、それなりに整った眉目は少年から青年へと移る際の精悍さの兆しを覗かせる。ある意味ではフレームレスの細い眼鏡をかけているところが、視力を補う魔法に困ることのない今の社会にとっては珍しい部分かも知れない。

「……ああ、その。苦しくないか?」

 リチャードはアンジェリーナを抱き寄せる形になったのに我ながら戸惑いつつ、彼女が息苦しくないよう気遣って腕の力を少し緩めた。

 柔らかさを主張して止まない豊かな双丘には知らないふりを決め込む。さすがに意識はするものの、リチャードは気合いで表情を崩さない。

 幼馴染みに動揺なんて弱みを見せるのは、男としての沽券に関わるのだろう。

「あら。優しいのね」

「いやなに。お嬢様は怒ると後が怖いからな。あとお前、こういうの乗ったことないだろ?」

「バカにしてるの? 導力トラムくらい……その、あるわよ」

 これには機嫌を損ねたようで、勝気な眉がつりあがる。頬を染めているあたりは年相応に可愛らしいところだ。対してリチャードは涼しい顔を気取る。いよいよスピードをあげていく車輌に巻き上げられた風で、彼と彼女の髪は煽られた。

「学校につくまで辛抱してくれ。ああ、しかしいい天気だな。こういう日はサボりたくなる」

 見上げれば飛行船の定期便が頭上を横断していくところだった。逆光。飛行船によって遮られていた陽の光が、徐々にその顔を覗かせる。

「あなた、中間期考査の結果、芳しくなかったんでしょう? 大丈夫なの?」

 雑踏に紛れるハーモニカの玄妙な調べ。建国一〇〇〇年の節目に催されるイルベール・フェスタが近いからか、路上の演奏家もあちこちで張り切っているようだ。

 鼻孔を過ぎる潮の香。海に面しているおかげで、海産物を内陸地に送る玄関口としての役割を持つのもブレイダブリクの特徴である。

「まあなんとかなるって。お前は心配しすぎなんだよ、アンジー」

 付き合いが長いだけあり、お互いのことはよく知っていた。ちなみに彼女を愛称で呼ぶ人間は、まずいない。

 色々と理由はあるのだが、一概に言うのならそれだけ偉い立場と語るべきか。幼馴染みという関係上、リチャードは許されているだけの話だ。

「何度同じようなことを聞いたかしら。追試になって泣きついてくるのが見えるようだわ」

 悪戯っぽく笑う彼女に、過去を思い出して苦い表情をするリチャード。

 学科は違えど、勉強を教えてくれと頼んだのは一度や二度ではない。

 付き合いが長いということは、それだけ弱い部分も知られているということで。

「う、うるせえよ! 今度は大丈夫だって。もうお前に迷惑かけねえから!」

「どうかしら。まあ? あなたのようなちょっと頭の足りてない人に手を差し伸べてあげるのも貴族の務めでもあるし。だからまあ、いよいよとなったら力を貸してあげてもよくてよ」

 居丈高にのたまうアンジェリーナの得意げな表情に腹が立ったリチャードは、口の中だけでつぶやく。

「……おっぱいだけじゃなくて態度もでけえな。この高慢ちき」

 途端に頬をつねる手があった。

「聞こえてるわよ、リッチ!」

「イテェッ! やめろ、落ちる!」

「少しはデリカシーというものがないの! 女性の身体的特徴をけなすなんて、紳士として恥ずべき言動よ!」

「わかった、悪かったから!」

 とはいえ本気でつねったり、暴れだしたりはしないのがアンジェリーナの配慮である。彼も落とさないよう腕に力を込める。そこまでは良かったが。途中「ぷちっ」という何かの外れた音がしたのは、事故としか言いようがない。

「あっ……何の音だ?」

 よくは解らなかったが、何かまずいと思った時には遅かった。次第にアンジェリーナは顔を赤く染め、怒りに震える瞳で見上げてくる。

「し、信じられない……!」

「いや、今のは! 待て、俺は無実だ!」

「この、おバカ!」

 何故彼女が怒り出したのか、皆目見当のつかないリチャードだったが、よもや少し触れただけで下着のホックが外れたとは思うまい。まあそれも、最近少し下着のサイズが小さく感じてきたアンジェリーナにも原因の一端はあるのだろうが。

 そんなじゃれあいは学院に到着してからもちょっとだけ続く。彼女とは学科が違うので、下駄箱で履き替えたら別れる短い間だが――どうやら昼に食堂でランチを振る舞えば、許してもらえるとのこと。

 去り際、少しだけ寂しそうに振り返った彼女の顔が妙に印象深かった。

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