色と恋と

きんか

朝の空気と林檎の香り

 うっすら目を開ける。酷く瞼が重かった。

「う…」

 すると、くりくりした金色の目が私を覗きこむ。

「お目覚めですか、お嬢様?今日は少し顔色がいいですよ、良い事です!」

 そう言ってぱたぱたと部屋を出て行く少女の肌は、私と違って淡い褐色をしていた。それは単純に産まれた土地の違いを表してもいたし、この国において私たち白い人の奴隷であるという事を示してもいた。

「なにかお召し上がりになりますか?昨夜もあまり口にされていませんし、何か固形物を摂らないとお身体に障りますよ」

 再びぱたぱたと戻ってきた少女はいくつかの果物と小さな白いパンを入れたバスケットを抱えている。歪なコントラストだ、と思った。私たちが同じパンを抱えていたら、病的な印象すら受けるだろうに。まあ、実際私は病気なのだけれど。

「……平気よ、メイ。私は平気。どうせ何か食べたところで、治るわけじゃないんだから」

 ゆっくり身を起こす。メイの瞳はこの家に引き取られてきた時から変わらずに、ずっと猫のような光を宿した金色だ。心配そうに揺らいでいたその瞳がきっと釣り上がり、ますます猫のようになる。

「お嬢様、いけません。病は気からと申しますし……」

「――メイ」

 ああ、またやってしまった。自分の事をこんなに案じてくれる少女の名を、こんなに冷たく高圧的に呼んでしまった。こうされたら、彼女は黙りこむしかないと分かっているのに。そんなこと、したくないのに。

「……お嬢様、私は外で待っていますから。なんなりとお申し付けくださいね」

 ――同い年の少女に、お嬢様だなんて呼ばれて。優しく、母親のように微笑まれて。まるで叱られた子供のように、私は内心項垂れていた。咄嗟に呼びとめる事もできずに、厭な顔をしたままベッドの上で凍りつく。心臓がじくじく痛んだ。枕元に置かれたバスケットから、僅かに香ばしい小麦の匂いと新鮮な果物の香りが漂ってくる。

「病は気から、ね」

 そんなことが文字通り気休めにしかならないことは、メイだって分かっているはずだ。心臓が痛み、慢性的に貧血状態。肺は炎症を起こしていると分かっているのに咳も出ない。

土の呪いと呼ばれる、不治の病だった。私たち白い人だけが稀に感染し、どんな薬を使っても治す事のできない――それこそ呪いのような病気。ある者は奴隷制度のせいだと言い、ある者は祈りによって祓えると言った。そのどちらもが、等しく呪われて死んでいったというのも有名な話だ。とにかく大切なのは、何をどうしたって治ることはないということ。そして――目を覚ますたびに、そいつがいることだ。

「――俺の事は、気にしなくていいんだぞ?」

 メイが立っていたのとは逆側に、そいつはいつもいた。真っ黒なフードをかぶり、私よりもっともっと白く、蒼の領域にまで淡い色の肌をした青年だ。時折こちらを窺う瞳は、澄み切って底の見えない紫をしていた。

「……貴方は死神なんでしょう?早く、私を連れて行きなさいよ」

 すると、彼は決まって首を振り、男性にしては長い黒髪がゆらゆらと不気味に揺らぐ。

「そいつは出来ない。俺はあんたを見届けて、その後で連れて行く。――あんたを決めるのはあんただけだ」

 そんな、意味の分からない事を言って。

「それじゃあ、私はいつ死ぬの?」

「……それも、俺の知った事じゃない。俺は死神であって、あんたじゃない」

 この通り、ろくに話が通じるわけでもない。どうして私だけに見えるのか、どうしていつも傍に居るのか。彼の声はメイに聞こえないようだったし、メイも彼が見えているわけじゃなさそうだった。私に取り憑いた、という事なのだろう。土の呪いが見せる幻覚だろうと最初は思ったが、いつまで経っても姿が鮮明なまま立ち尽くしているものだから信じざるを得なくなってしまったのだ。

「………あんたは」

 けれど、今日は珍しく彼から話しかけてきた。紫の眼もこちらをじっと見つめている。

「あんたは、恋をしたことがあるか」

 あまりに突拍子のない質問に、私は思わず彼の眼を見つめ返してしまった。どう答えたものかと考える一瞬も与えず、死神は言った。

「俺はある。俺は、死にゆく者に恋をした。彼女の寝顔があまりに美しく、彼女の命があまりに儚いからだ」

 私は何も言えなくなっていた。彼が酷く真剣で、その話が真実だと確信させる重みに満ちた口調だったから。

「だが――俺は、誰かに見える存在ではないからな。これも、独り言のようなものだ。俺は結局、彼女を見送ることしか出来ない。連れて行くなんて大仰な事を言っても、俺がどうにかするわけじゃない。正しく天へ召されるか、それを見送るのが俺の役目だ」

 ようやく一言、私は言った。

「貴方はいつか死ぬの?」

 バカげた質問だ。死神にそんな概念があるわけない。でも、何故かどうしても聞いておきたかった。

「…………俺は俺だ。だから、俺については知り尽くしている。俺は……実のところ、もう死んでいるんだろう。それも、碌な死に方じゃなかったはずだ。だからこうして、届きもしない相手の死に顔を見極めなきゃならないんだ」

 そしてひと際はっきりと私の眼を見て、こう言った。

「そう――呪いみたいなものさ。俺の命ってのはな」

 突然視界が眩み、私はふらりと枕に倒れ込んだ。私を覗きこんでいるのは、金色の目じゃない。どこまでも深く昏い、邪悪すら想起させるような、紫の――




「……!……さま!………」

 誰かが呼んでいる。私を呼んでいる。どこまでも続く冥界の淵をぼんやりと歩く私を――

「お嬢様!お嬢様っ!」

 真っ先に視界に飛び込んできたのは金色だった。ゆらめく蝋燭を映して煌く黄金色。それが妙に私を安心させるものだから、思わず彼女の名前を呼んでいた。

「メイ…」

 ぎゅっと手が握られる。温かい、生命の鼓動を感じる手だ。お互いに黙りこんで手を握っていると、心臓の音が聞こえてくる。とくん、とくん、とくん……どちらのものか分からなくなる、柔らかい音。優しい音。

「……とても、冷たくなっていらっしゃいました」

 ふとメイが零した。ぽつり、握り締めた手を見つめて。

「陽が傾いてもお呼びにならないので、眠ってしまわれたと思って……私、お洗濯を干して、夕餉の支度をしていたんです。そうしたら、凄く嫌な予感がしました。誰かが耳元で囁くような感じです。冷たい声と吐息が首筋にかかって、いてもたってもいられなくなって――そうしたら、とても。ええ、まるで氷のように冷たくて」

 その時初めて、メイの金色が潤んでいる事に私は気付いた。握られた手に力が籠る。

「朝の事もありましたから、心配で心配で――」

「ねえ」

 酷い主人だ。涙ながらに安堵を零す少女を遮って、まるで関係ない事を訊こうとしている。それでも、そんな自分が少しだけ好きになりそうだった。

「メイ、突拍子もないことを訊いていいかしら」

 真っ直ぐ、金の眼を見る。

「あなた、恋をした事はある?」

 すると、メイはほんの少し考え込んで答えた。迷いなく笑む顔を、窓から差し込んだ月光が照らす。

「はい、もちろんです――私は、ずっとお嬢様と一緒でした。たった一人の肉親だった父が死んで、お嬢様のお父様に引き取っていただきました。今でも、その時の事は忘れません――恥ずかしいことですけど、私、あの日――」

 不意に、背筋が粟立つのを覚えた。あんなに恋しかった金色の瞳が、何故かとても恐ろしく見える。私を見透かすような、まるで何も映していないかのような、その目が。

「一目惚れ、でした。ええ。――お嬢様の後ろにいらっしゃった、青白い肌の男性に」

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色と恋と きんか @iori96

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