第五十八章 衆 道

 虎千代さまの教育は、毎週の土・日に、お寺へ通っていた。最初の年は亜希子が主に教師となった。実母の代替として疑似母の役割が精神の安定さに寄与すると考えた。思いっきり甘える対象がおり、自分が愛されていると感ずることは自己肯定につながる。


 読み書きは僧の修行の一環でおこなわれているので、とくだん手をだすこともなかった。ただアラビア数字をつかい四則計算を教えると、意外に興味をもち上達が早い。九九もすぐ暗唱でき お経と一緒に暗誦している。読み書き算盤が江戸時代の寺子屋の必須科目だ。ソロバンを自作してみよう。


 加賀百万石、前田 利家は中国から輸入して来たばかりのソロバンに達者で、前田家の家計は当主がすべて管理していたという。愛用のソロバンが家宝として残っている。謙信がソロバンをはじくなどイメージからすると真逆の仰天であるが、領国の経営において数字が明るいのは望ましいことだ。


 年があけて妊娠が判明した。亜希子が虎千代さまに打ち明けると、自分の弟か妹ができるように喜んでくれた。兄貴の役割を感じてくれれば嬉しい。ときどきお腹に顔を寄せてくるそうだ。


 雪解けがおわり草木がめぶくころ、僕の出番がやってきた。藪が繁らないうちに、草刈り鎌で前年に下見をしていたコースを伐採。広場もざっと草を刈る。石ころが転がっている処もあるが、そのままにしておく。戦場では足場の善し悪しなど選べない。


 冬のうちに木刀を削っていた。大小二本、小はもちろん虎千代さま用。成長にしたがって太く長くしなければなるまい。木刀を削るのは良い精神静養になる。無心に木を削る行為に集中できる。鉄ヤスリがないので、磨き上げるのが難しい。


 コースが出来てからランニングから始めた。寺の脇から携帯電話の無線塔、そして双子山の頂上、くだって林泉寺の裏山、そして起点にもどると二キロメートルほどの距離になる。負荷は周回の回数をふやすことで調整できる。クールダウンしてから

木立にかこまれた広場、ここで素振りを繰りかえすことから始めた。


 五年後の今では五周が普通となった。コースは踏み固められ けもの道のようになっている。自分も足腰が強くなったと実感できる。「七人の侍」で志村 喬の勘兵衛だったか、加東 大介の七郎次だったか「戦では走れなくなったら死ぬときだ」のセリフがあった。出来れば戦には出たくないが、成り行きで戦うシーンに遭遇するかもしれない。格好は悪いが、逃げ回ってでも殺されたくない。


 素振りはルーチンの一つ、上段にかまえて如何に早く強く打ち下ろすか。ずっしりと重い木刀は、剣法そのものを変える。竹刀の掛かり稽古では当たり前の、手首の素早い動きに頼る技は木刀では遣えない。木刀で遣えないことは、それより重い真剣ではもっと遣えないことだ。


 足場が定まらない野外で重い木刀を打ち下ろすには、足を踏ん張って最初から上段に構えるしかない。そして寸止めができないと、相手に重傷を負わせるか片輪にしてしまう。初めは痛い目に何回もあったが、今では衣服に触れるか触れないかの皮膜で止められるようになった。


 お寺の修行で心配していることがあった。衆道、すなわち男色。基本的に僧侶は不犯ふぼんをつらぬく。女性と性的関係をもたぬ、入門時の誓いである。不犯の僧侶は聖僧と尊敬される。それだけ難しいということか。


 性欲は食欲とならぶ人間の二大本能である。男性しかいない寺院で、煩悩に負けた僧侶が目をつけるのは手近にいる僧侶か小坊主。女色を我慢しているのだから、美少年を愛するくらいは...... と許容範囲の逸脱だったかもしれない。


 ご住職に生々しい話しを聞くわけにゆかない。やはり益翁さんが聞きやすい。

首座しゅそさま、立ち入った話しを伺いますが、宜しいでしょうか?」

「うん、何事かな」

「よく僧が衆道に走ると伺いますが、虎千代さまに対しては如何なものでしょうか」

「その懸念には及ばぬであろう。次代の国主になられるお方と、寺の皆の者が暗黙のうちに承知しておる。そのような不埒な真似を試みようとする者などおらんでしょう。部屋も宛がってある。夜這いなど起こらぬであろう」 

「そう伺い安心しました。そうなら後は本人の心がけ次第となりますね」

「ほう、いかなる根拠でそう思われるのじゃ?」

「虎千代さまは上杉 謙信と名前が変わりますが、生涯不犯を貫き通されました。後世では色々な説が唱えられ、女性説まで出る始末です」

「虎千代さまが女じゃと?」

「それほど戦国大名では珍しい存在でした。私は人並みに愛する女性を娶り、子を成す幸せな家庭生活を送っていただきたい、との願いをもっております」

「そうじゃのう、修羅の道を歩まれるお人なら、せめて潤いのある家庭を築いて頂きたいものよのう」

「はい、妻とも如何なる方法がよいか相談してみます」


 取りあえず寺の中で、他の僧から襲われることは無さそうだ。あとは本人が思春期をむかえ生理的な衝動をおぼえる時期に教えても良い。ただ個人差があるので、何時が最良の時かわからない。女性なら小学校高学年になると、女生徒だけの講義をもうけるようだ。男も十才前後がその時期なんだろうか。うん、今でしょう!


 男が性の知識を得る方法は様々だろう。先輩、ませた同級生、耳学? 自分の体験では改まって教わった記憶は無い。かえって医者が即物的に、また疫学的に肛門性交の恐ろしさを教えた方が良いかもしれない。エイズが同性愛者に多いと言われた時期があった。


 自分なら男性とのセックスなど嫌悪感しか湧いてこないが、この当時は文化でもあった。文化や風習を変えるのは、教育では難しい。


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