第二十章 初めてのキス
「そう言えば、古倉さんの経歴は聞いていなかったね。ドクターまで話してくれたけれど、内科医か外科医かも分からないし...... 」
「ごめんなさい。言いだすチャンスが無かったし、新一君もあちこち忙しそうに動き回っていたから、言いそびれてしまったわ」
「うん、それはいいんだ。僕から改めて自己紹介するね。親父は潰れた新潟鐵工所のエンジニア。会社が解体後に各部門が独立して、親父はニイガタマシンテクノ特機部という横文字の会社に滑り込んだんだ。九才だから詳しい話しは分かんない」
「そう、いろいろ有ったんだ」
「子どものころから手先は器用だったし、エンジニアで好きな機械をつくる夢もあったので、地元の長岡高専を志望したわけ。機械工学科を五年、物質工学を来年の春で
二年間まなんで卒業できる予定していたんだけど、こんな目に遭ってしまった。夏休みや冬休みは親父の会社や新潟原動機のアルバイトをして、頑張って現場の技術を覚えたんだ 」
「そうお。地元なのに今さら何で林泉寺など見学することになったの?」
「エヘヘ、これでも剣道部のキャプテンでね。学園祭のテーマ探しでブラッと来てみたんだ。もっとも竹刀の練習がつまらなくなって、神道無念流を研鑽してるところ」
「うん、神道無念流って? あっ! 当ててみようか。永倉新八でしょう?」
「ええっ、何で知ってるの?」
「うふふ、これでも歴女の一人でございます。好みは戦国時代でなく幕末ですけど。
新一君のなまえ、そこから来ているの?」
「親父やお袋も安直な名前をつけてくれたもんだよね。永倉の姓で新一とは、ある意味で分かりやくて好きだけど。だけど歴女の中では、新八はマイナーな名前じゃない?」
「そうねえ、たしか全国の歴女にアンケートを取ったけど、新八のランキングは二十位にも入っていなかったわね。新撰組の沖田や斉藤が剣の遣い手として有名だけど、敵の評価では新八の方が上だったし」
「そこまで詳しいと僕もうれしくなるなあ。じゃあ新八が死んだ小樽にも行った?」
「ええ、時間がなくて駆け足だったけど。情緒のある港町だから、ゆっくり見てきたかったわ。でも新撰組の生え抜きが大正まで生きて、畳で大往生をとげたなんて信じられないわ。斉藤一も長生きしたけど、上洛後の入隊ですものね」
「新八から神道無念流に興味をもって古武術に、 はまって木刀を振り回しているんだ」
「道場剣法と古武術では、練習から違うんでしょう?」
「道場は広さは限定されるし、木の板で平らだよね。だけど戦場は広さの制限はなく逃げ回って体力勝負に持ちこんでもいい。でも足下は草や石ころだらけで不安定で、しっかり足元を踏みしめなきゃならない。道場では
「そうかもねえ」
「足元を安定するため、すり足でなく踵から地面に着く。膝をかるく曲げて、素早く動く。腰もしぜんに落ちる。さいしょ歩く基本は膝をのばして腰を高くして背筋をのばすのが正しいと思っていたから、なかなか癖が直らず苦労したな」
「モデル・ウォーキングね。たしかに格好良くて、わたしも秘かに練習したわ」
「木剣は脇をしめて振りかざして一気に振り抜く。空気を切り裂く、文字通りピューという音が出るとこから始めてね。脇をしめるコツが最初はできなくて苦労したけど、覚えてしまえば筋がいいと褒められた」
「ええっ! 道場に通ったの?」
「エヘヘ、工学科の三年の春休みに、インターネットで検索した埼玉県にある武術館に入門したんだ。そのまま休学届をだして夏休みがあけるまで練習に励んだ」
「よくご両親がお許しになったわね」
「まあ、名前をつけた仇をとられた気分だったかも。バイトで生活費を稼いでね。ある程度は自分の腕の見極めができたので道場を退門してさ。せっかく埼玉に来たんだからと、川口市の
「すっごい行動力ね。私にはとても真似ができない」
「そんな理由で一年間 休学しているんで同級生より一年としうえなんだ」
「私はストレートで脇目もふらず最短距離で研修医になったから、回り道できる
人って尊敬できる。そんな新一君、好きよ」
うん、こうなればすることは一つしかない。
そっと唇を近づける。触れるか触れないかくらいの、易しいタッチで唇を重ねた。
「ああー」 古倉さんの香しく うっとりした吐息が聞こえる。
「うーん、このシチュエーションに憧れてきたの」と目をとじて呟く。
「ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』読んだことある?」
「あまり文芸書につよくないんだ」
「映画にもなったけど戦前の古い作品だから、あまり手にとらないかもね。ヒーロー
がゲイリー・クーパーで、ヒロインがイングリッド・バーグマンよ。スペインの内
乱を舞台にしているわ。ふたりの初めてのキス・シーンが素敵なのよ」
こちらは興奮してそれどころじゃないけど話しは聞く。
「バーグマンが『好きよ、キスしたいけど どうするの? 鼻がぶつからない?』
キスの仕方もわからないキュートな彼女に、クーパーがやさしくキスするの。『こうすれば邪魔にならないのね。もう私もできるわ』と、もう一度バーグマンから唇を重ねるの。いつか、こんな経験をしてみたいと夢見てたわ。夢のとおりだった。ありがとう、新一君でよかった」
「こうすれば鼻にぶつからないのね」と囁いて、ふたたび唇を重ねてきた。
「では僕からもお返しに」と すこし情熱的に口をあわせる。
「うーん、名残り惜しいけど、私の一代記が残ってるわ」と そっと身を引いた。
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