生まれ変わるなら美少女がいい

井伊藤里

第0話 生まれ変わるなら美少女がいい

 だってそうだろ。


 二十六歳。会社名より商材の名前の方が伝わる食品会社のルート営業マン。大学卒業と同時に同棲を始めた彼女とはもう四年目の付き合いで、そろそろ引っ越しを考えようか、と言ってから、少しだけ休日の過ごし方を考えるようになった。お互いの両親の予定とか、彼女が新しく買ってきたワンピースとか、不動産屋の前を通るたびに目に留まるのがファミリー向けの物件になってきたとか。

 仕事の方は、順調と言えばそうだろうし、変りばえがしなくなってきたと言えばそうなんだろう。決まった営業先に毎日顔を出しては無茶を言われて、頭を下げて、悔しい思いもつらい思いもしてきたが、代わりのように、信頼や信用を感じる場面も増えてきた。

「いやぁ、でも形岡さんは人生順調じゃないですか」

 低い音を立てて井上さんは煙草に火を灯す。飲食店業務らしい、隙無く括りあげられた黒髪の首筋が白い。

 営業先の一つ、大きめの駅ビルに入った洋食店のウェイトレスをしている井上さんは、俺より二年早く社会に出た同い年だ。

 俺が彼女の勤める店舗の担当になったのが半年前。発注の確認や手配を一手に任されていた彼女と、こうして駅ビル内の喫煙ルームで一服するような仲になったのは三か月前になる。

 喫煙ルームは、ちょうど隣の区画で改装工事をしているらしい。パーテーションのような薄い壁の向こうから、ひっきりなしにドリルや釘打ちの音が聞こえてくる。

「彼女もいるんでしょ? 同棲してるんでしょ? 会社だって安定してるし」

 ふす、と煙を吐き出す。煙草のフィルターにはピンクの口紅がぺたりと張り付いていた。井上さんは赤キャビンを愛飲している。渋いの吸ってますね、というのが会話のきっかけ。その時、井上さんはアイラインのキツい目をくしゃりと緩ませて笑って言った。

『元カレの真似なんです。オッサンだったんで』

 その時の井上さんの声を思い出しながら、今の井上さんの言葉をもう一度なぞる。結構、珍しい語調だった。

 そう小柄でもない俺と並んで目線も変わらないような、彼女はすらりとスタイルの良い女性だ。接客業というのもあるのだろう、肩肘のぴんと張った立ち姿は、男女共用の制服であるギャルソン姿も相まって非常に格好いい女性のお手本みたいだ。そんな外見を裏切る事無く、井上さんは気が強くて声の鋭い、典型的なタイプだ。内面はどうあれ、少なくとも一見、自分の一挙一動になんの非もありませんと世界中に投げかけているような。

 だからそんな風に愚痴っぽいことを言われて、少なからず俺はぎくりと心臓を飛び跳ねさせた。

「いいよなぁ」

 答えない俺に追い打ちするように井上さんは呟いて、もう一度煙を吸い込む。俺の手元では、さっき一吸いされてから一度も咥えられていない煙草がちりちりと灰を延ばしていた。

「いやぁ」煙でいぶされながら、やっと俺の口から出たのはそんな情けない声だった「仕事はキツいですけどね」

「こんな良く分かんない女に絡まれるし?」

「そっすねー、いつもはもっとサバサバしてる人なのになー、おかしいなー」

 そんなわざとらしい誤魔化しに、井上さんはぱつんと弾けた風船みたいに笑う。普段の喋り声も大きいが、笑い声は輪をかけて大きい。何かの機械のアラート音みたいだ。壁の向こうの工事音にも一つも引けを取らない。

「いや、でもまぁ、お陰様で順調なのかもしれませんけど、僕にも色々ありますからね」

「そりゃそうだよね。形岡さんにも色々あるよね」

「井上さんにもあるでしょ色々」

「あるある。超ある。本当に真剣に無限にゴロゴロしたいとか、超ある」

「あ、ソレ結構意外」

 本当にいつ休んでいるんだろうというくらい常に駆け回っているような人なのだ。

「意外じゃねーよ。私休みの日ずっと寝てるもん。起きたら夕方だもん」

「あー、でも分かります。俺も起こされなかったら多分それですわ」

「お? なんだ? 自慢か? 起こしてくれる彼女がいますって自慢か?」

「ハハ……ッ」

「何何その目何で目逸らすの。いやそこは自慢ですっつっとけよ。大丈夫だよ」

 井上さんとの最近のやりとりは、取引先相手の従業員というよりは、学生時代の友人とか、それなりに仲の良いご近所さんのようになりつつある。業務上、あまり良くないことではある。あるけれど、むやみに距離を置くのもおかしい話なので、どうにも、修正できないでいた。

 俺を小突きあきたらしい井上さんは、長い足を組み直す。喫煙所の安いベンチはそれだけでぎしりと音を立てた。

「はー、でも、そうだなぁ。マジで無限に寝たいし、生まれ変わったら猫になりたい……」

 顎を持ち上げて、太陽を一杯に浴びる猫みたいに目を細める。蛍光灯に照らされた井上さんの目元は陰影の重たいアイシャドウのラメでぴかぴかしている。

「んでクソお金持ちのババアに飼われてアホみたいに甘やかされて一生を過ごしたい……」

「妄想が強ぇ……」

「でも形岡さんもそうっしょ? 飼われたくない? 猫になって金持ちババアに飼われたくない?」

「いやあ俺はどっちかっていうと犬派ですし」

「あー犬でもいいけど犬は芸とか覚えなきゃダメ感あるじゃん」

「ダメ人間が過ぎる……」

「じゃあ形岡さんは生まれ変わったら何になりたいよ?」

 灰皿の網目に向けて、井上さんは短くなった吸殻を投げ入れる。細くたなびいた煙が暫くして、かき消えた。


「ええ……じゃあ俺生まれ変わったら美少女になりたいです」

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