〈ゆめ〉

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〈ゆめ〉

「じゃあ、またね。今日はありがとね」

 そう言って笑顔を見せるレイコに守もぎこちなく笑いかけた。守は彼女の笑顔に安堵した。

 しかし、歩きながら、先ほどの申し出に対するレイコの反応を反芻しているうちに、守は気が挫かれるのを感じた。横浜駅に着いた頃には、すれ違った何組ものカップルに劣等感をかき立てられ、落ち込んだ。

(レイコとの会話もぬくもりもすべてはカネでしかないのか)

 守はレイコとの個人的な関係を期待せずにはいられなかった。もっと足繁く通えば、もっと会話を重ねれば、あるいは……、と。今日、守は彼女と外で会う約束をしようと画策していたのだった。守は、彼女が好きなラーメン屋に行って来た話をした。彼女は予想通り、「いいですね~」と乗ってきたが、そこで今度一緒にどうですか、と誘うと、彼女は「そうですね~。またの機会に」とつれない返事だった。守はこの失敗は決定的ではないと考えていたが、店外デートの可能性が大きく減じたのは認めないわけにはいかなかった。


 守はその夜、ヘッドギアを装着して、眠りに就いた。守にとって今や〈ゆめ〉での時間だけが、真に価値ある時間だった。そこで守はミホとの恋愛をやり直すことができた。〈ゆめ〉には「夢」という言葉が持つ、霞のような響きはなかった。レイコと親密になるのはもはや夢に近いかもしれないが、そういうありふれた夢とは違う、鮮明で没入できる夢が〈ゆめ〉にはあった。


   *


 翌日、守が単純な自作PCの不具合の案件――単に配線を間違っていただけだった――を終えて帰宅する途中、元同僚の植田からメールが来た。相談したいことがあるから会えないかという話だった。植田は優秀なアーキテクトであり、一緒に働いていた頃は親しくしていたが、今更彼と会って話すことがあるのかと訝った。だが、断る理由もなかったので、「今日なら空いてる」と返信した。

 夜、植田とルノアールで会った。約半年ぶりに会う植田は相変わらず、白髪混じりのボサボサ頭にヨレヨレのTシャツという独特の風貌をしていた。

「かなり痩せたようだけど……」

 植田は開口一番に言った。

「……太るよりいいだろ」

「まあ、健康ならいいんだが」

 守はG社を辞めてからPCの出張修理で生計を立てていることを話した。収入は三分の一程度になったが、安アパートに引っ越したので、生活して行けると話した。

「PCの出張修理か……。守らしくないな。そんな仕事で満足してるの?」

「ああ」

「……まだ失恋が尾を引いているのか?」

「まあ、そうかもしれないな」

 植田を大きくため息をついた。

「現実を見ろよ。彼女は結婚したんだ」

「知ってるよ。だけど、俺は彼女がまだ好きなんだ。彼女との時間以上に大切なものはない」

「彼女との時間……? お前、頭大丈夫か?」

「俺は正気だ」

 守はそう言ってニヤリと笑った。

「お前まさか……〈ゆめ〉の話をしているのか?」

「想像に任せるよ」

 植田は「そりゃすごい」と、大きな笑みを浮かべて言った。

「実は今日、こうして連絡したのはまさにその話をするためだったんだ。今、社は〈ゆめ〉の商業化に向けて動き出している。具体的には〈ゆめ〉を医療サービスとしてパッケージ化しようとしているんだ。実現すれば莫大なニーズが見込める。ウチが大企業になる日もそう遠くない。もっともその前に買収されるかもしれんがな。そこでだ、守に社に戻ってもらいたいんだ。守ほど才能のある人間はウチにはいない。どうだろう? PCの出張修理よりもずっとやりがいがあると思うが」

「医療サービスへの応用には賛成だが……、実を言うと俺にはもう仕事での野心というものがないんだ。そんな人間を置いといたら、周りの士気が下がるし、きっと迷惑をかける。だから――」

「まだ若いのに何言ってんだよ」

「すまん」

「恋愛ならまたできる!」

 植田は身を乗り出して言った。

「皆そう言う。だけど、俺にはわかる。もう二度と彼女のように好きなれる人には出会えないって」

「何を根拠に。それに仮にそうだとしても、まだ結婚できるし、子どもも育てられる。守はそれとも、人生を捨てるつもりか?」

「あるいは、そうも言えるか。だけど、俺は〈ゆめ〉が現実に劣るとは思えない。しょぼい人生でも〈ゆめ〉が充実していれば、それでいいと思うよ」

「そんな……、本当にそれでいいのかよ?」

 守はコーヒー代をテーブルに置くと、立ち上がり、出口に向かった。

「気が変わったら、連絡くれよ」

 背中に植田の言葉を浴びて、守は一瞬立ち止まったが、振り返らずにそのまま店を出た。


   *


 守は仕事の合間を縫って、四回目のミホとのデートの準備作業にかかった。〈ゆめ〉を見るには地道な入力作業が必要になる。おおまかなシナリオを書き、人物、場所などさまざまなデータを入力しなければならない。しかし、コンピューターベースのバーチャルリアリティ(VR)ほど手間ではない。VRで同じことをやろうとしたら、膨大な入力作業が必要となるだろう。〈ゆめ〉のための入力作業は、それに比べたら、ほんのわずかである。〈ゆめ〉では夢の再現力を活用しながら、夢を制御し、いわばゲーム化できるのである。ただし、夢は見る人の身体や精神の状態、また物理的環境に大きく依存する。そのため、それらのパラメーター次第で、〈ゆめ〉が予期しない展開を見せることもあり得る。そういう意味では、「制御」とまでは言えないかもしれない。それに〈ゆめ〉の影響についても十分に解明されていなかった。たとえば、〈ゆめ〉での出来事が見る人に何らかの物理的影響を与えないという保証はなかった。

 守は四回目のデートの準備作業中、実際のデートのことを思い出し、少し落ち込んだ。そのとき、守は、ミホと同衾し、カップルになる手順を踏めていた。それでも、カップルになれなかったのは、性交という本来ならば男女を結び付けるはずの重要なイベントで躓いたからだった。守が性交に不慣れなことがあった。守はそのとき、鼻息を荒くして彼女の体を弄った。そうした行為に対してミホは「ケダモノ」と守をなじった。そして決定的だったのは、守が中折れしたことだった。守は、自分から同衾をせがみながら、そういうことになったことにミホにすまなく思った。守は、ミホがもう会ってくれなくなるのではと危惧した。だが、ミホはその後また会ってくれた。キスもセックスもなしだったが。しかし、守は、その後のデートを経て真にミホを好きになったのだった。厳密に言うと、ミホとの時間が好きになった。ミホの笑顔や屈託のなさにより、守のめったに打ち解けない内面が解きほぐされた。守はミホといるとき他の誰といるときよりも自由に振る舞うことができ、誰にも話していない初恋の話についても話すことができた。守にとってミホは、時間を共有することで快楽を得られ、二人でいることが誇らしいとまで思える唯一の人だった。

 守は、休日前の土曜の夜、ヘッドギアを装着して、眠りに就いた。


 真夏のデートの舞台はマリンタワーだった。有名な占い師に見てもらうために、先に中華街に寄っていたミホとマリンタワーの敷地内で合流した。ミホは、『不思議の国のアリス』をフィーチャーしたTシャツ、ミニスカート、グラディエーターサンダルというスタイルだ。

「目当ての占い師いなかった」

 ミホは残念そうに言った。

「そっか。残念だったね。また今度、二人で行こうよ」

「えっ、占い信じてないんじゃないの?」

 その通りだったが、後でミホが結婚相手とその占い師に見てもらったことを知ったとき、守は俄然、見てもらう気になったのだった。

「そうだけど。その占い師は別だ。じゃあ、行こうか?」

 二人はマリンタワー一階のダイニングカフェに入った。客は多かったが、たまたま空いたガラス壁際の席に案内された。帰省中の過ごし方が話題に出た。守の中学の同窓会の話やミホの地元・厚木の話が出た。守の話の最中、守の視界に入る離れた席に若い女の子の二人組が着いた。当時、守はその内の一人に気を惹かれ、その子をチラチラ見た。しかし、今はその子を見ないようにした。守はミホが好きで、ミホしか頭にないことを示すためにあらゆる努力を払った。その文脈で、同窓会で当時好きだった子と連絡先を交換したことも話さなかった。

 カフェでひとしきり飲食を終えたときには、日が沈んでいた。カフェを出ると、同じくマリンタワー一階にあるバーに入った。そのバーは、タワーの一部を切り取ったバームクーヘンのような形状をしており、優に三〇人は入るだろうキャパがあり、黒で統一されたシックな店内と薄暗い照明がデートに最適の雰囲気を醸し出していた。テーブル席に着くと、ミホはモヒート、守はSKYYを注文した。守はここでの会話を重く見ていた。カップルになるためにはここで何か自分を印象付けることを言わなくてはならない、と。そこで、守は仄聞した「女は現実的である」という俗説を踏まえて、甘言を浴びせるよりも、地に足の着いた話をした。つまり、守は仕事への熱意と結婚後のプランを話した。守は仕事がおもしろく、やりがいを感じており、また報酬面でも満足していた。仕事の話で「夢を操作できるようにすることが夢」と語った(当時は、まさかこんなに早く夢を実現できるとは思ってなかった。ミホに去られたことがそれを加速させる契機になったのだが、それは思わぬ副産物だった)。ミホはずっと目を輝かせて、守の話に聞き入っていたが、結婚したら都内にマンションを買う予定があることを話すと、さらに目の輝きが増したようだった。当時は気が付かなかったが、ミホに強い結婚願望があることは明らかだった。また、一方で守はミホに結婚後も仕事を続けて欲しいと話した。

 ミホは今の仕事である翻訳コーディネーターから転職したいと考えていることを話し、私も何か一生の仕事を見つけないと、と話した。それが具体的に何かまでは、特定できなかったが、守はミホの仕事を続けたいという意気込みを好意的に受け取った。守はたとえ養えるとしても、ミホに仕事を続けてもらいたかった。守の価値観では専業主婦は、どこか昭和的で古臭いイメージがあり、ミホには似合わないと考えていたからだ。

 お互いにドリンクを二杯ほど空けたところで、店を出た。生暖かい風が体を包み込んだ。山下公園まで歩いて、空いているベンチに座った。そこで、守は「ミホちゃん、好きだよ。付き合って」と用意していたセリフを吐いた。「うん、ありがと。よろしくね」と言って、ミホは笑顔を見せた。それからキスした。

 その後、二人は守のマンションに来た。それは現実に起こったことと同じ展開だった。しかし、お互いの間にある親密さはまったく違った。当時ミホは道中何度となくゴネたが、〈ゆめ〉では、電車の中で手をつなぎ、一度としてゴネることはなかった。そして、最も不安な性交も首尾よく終えることができた! 〈ゆめ〉での性交が現実と同じ結果になるのかどうか守はわからなったが、可能な努力をしてきた。つまり、守はこの一週間オナ禁してきたのだった。それが効を奏したようだった。

 翌朝、トーストの朝食を摂った後、家の近所の公園に行った。暑かったが、幸いにも家族連れもいなく、ベタベタして、夜の名残りを味わった。


 目が覚めたとき、守はついに思いを遂げたことにとりあえず満足した。


   *


 それから二人は、野毛エリア、六本木、クラブ・agehaでデートした。すべて現実と同じデートコースだった。守はミホと〈ゆめ〉の中で真の恋人同士になれた。そうなることで、ミホの口うるさい一面も露わになったが、それは想定内だった(恋人にはいろいろと注文をつけるという話を聞いていたから)。ともあれ、そこには考えられる限りの恋愛の快楽があった。

 やがてデートのネタが尽きると、守はネタを集めるためにデートスポットに繰り出した。その一環で、守はミホがプロポーズされたという、某ホテルの最上階にあるバーに行ってみた。

 薄暗い店内に足を踏み入れると、白髪混じりの店長らしき人が恭しく「いらっしゃいませ」と頭を下げた。守はカウンター席に着いた。カウンターの左手に夜景が広がっているが、守の席からは客のカップルに遮られ、景色はよく見えなかった。守は千円超のジントニックを頼んだ。背にしている店内に目を転じると、夜景が見えるテーブル席はカップルで埋まっていた。守は、ここでプロポーズするのはベタすぎるかと考えた。

 ジントニックは、他の多少ともマシな店で出されるジントニックと比べて、特に美味しいというわけではなかった。守は、ひと通り店内の様子を覚えると、手持ち無沙汰になり、タブレットでニュースを見たりしていた。そんなとき、思いがけない声がかかった。

「守くん!?」

 自分の横に立っているのはミホだった。守は〈ゆめ〉の中にいるわけじゃないのにどうしてだと一瞬混乱した。

「ミホよ。まさか忘れたわけじゃないでしょ?」

 声を出せずにいる守にミホが訊いた。

「まさか……。でも、どうしてここに?」

「わたしは旦那と一緒に結婚一周年のお祝いで来てるの? 守くんは?」

 守は答える前に、テーブル席を見やった。一人でいる黒ジャケットの男がミホの旦那と思われた。目が合った。守はドギマギして、視線を切った。

「俺は……、単に酒を飲みに来ただけだよ」

「一人で? そう……。じゃあ、楽しんでね」

 ミホはそう言うと、体の向きを変え、席に戻ろうとした。

「待ってよ」

 守は思わずミホの腕をつかんだ。「一緒に飲もう」と言いたかったが、言えるわけはなかった。

「今、幸せなの?」

「うん、幸せだよ」

 ミホは輝かしい笑顔を見せた。

「それはよかった」

 守は弱々しい声だったが、何とか言った。

「守くんも早く幸せになりなよ」

 ミホは笑みを湛えた流し目を残して去った。守はカウンターに向き直ると、半分くらい残っていたジントニックを飲み干して、急き込んで店を出た。


 守はその後、安い立ち飲み屋で何杯かビールや焼酎を飲んだ。それから、むくむくと擡げてきた止むに止まれぬ思いに従い、耳かき店を目指して、風俗街を歩いた。夏が終わり、涼しくなった街を相も変わらぬネオンが飾っている。この辺にいるのはほとんどが寂しい男かポン引きか風俗嬢だけだ。共通しているのは、皆、荒んだ心を持っていることだ。そのせいか、街には独特の寂寥感と禍々しさが漂っているように思える。

 守は黒地に赤色で「es」と書かれたネオン看板の前で立ち止まった。ビルの看板を見ると「happening bar」と書いてあった。守は好奇心を強く刺激された。守はいわゆる性風俗店には行かなかった。それはそこで行われることが予めわかっていることがおもしろくないからだ。それに、相手にその気がない(擬似)性交ほど寒々としたものはない。しかし、ハプニングバーであれば、楽しめるのではないかと守は考えた。

 客引きの男や商売女たちをかわし、深部へと進むと、そこには映画館の入っているビルがあり、そのビルの一角に守の行きつけの耳かき店があった。

 カネを払い、レイコの待つ部屋へと入ると「いらっしゃいませ。お久しぶりです」といつも通り浴衣姿のレイコが頭を下げた。「久しぶり」と守はそっけなく応えた。

 三度目の訪問から守は耳かきをしてもらっていなかった。ただ、膝枕で話をするだけ。話といっても、無言の時間の方が長いくらいだったが。レイコとの会話は、範囲が限定されたもので、お互いを分かり合うための会話ではなかった。それはむしろ会話のための会話だった。会話を続けるうちにすぐにその限界、つまり個人的な情報の壁に突き当たった。そのような不自由な会話で、ようやく見出した共通の話題である、プロ野球の話とラーメン屋の話をするとすぐに話題が尽きてしまった。守は無言の時間が流れるに連れて、失意の念がますます強まるのを感じた。店外デートを拒否されたのだから、親しげな態度になるはずはない、とわかっていても、タメ口をきくなど、何か彼女にプラスの変化が生じることを期待していたが、レイコの態度はこれまでと何の変わりもなかったからだ。

 守は絶望と欲望を二つながらに感じ、レイコの体に手を伸ばした。手はレイコの腹の辺りに触れた。「やめてください」とレイコは事務的に言った。守は身を起こして、レイコの目を見た。レイコはどこか怯えたような顔をしている。その表情に守の中で何かが弾けた。守はレイコを抱きしめて、「好きだ」と口走った。レイコは「ダメです! やめてください!」と大声を出した。守は部屋に闖入してきた店長により、彼女から引き剥がされた。

 守は免許証のコピーを取られ、店長から出入り禁止を言い渡された。さらに、もし今後レイコにつきまとったら、警察に通報すると強い口調で言われた。守はこのすべてが夢のようで現実であることを身に染みて感じ、泣きたくなった。レイコに振られたことよりも、ミホが見せた柔らかい笑顔が切なかった。あの笑顔が消えた瞬間、彼女はもう自分の人生から決定的に失われたことを悟った。

 やがて守は暗い想念に憑かれた。何度かビルの脇の非常階段を試して、ようやく古い雑居ビルの屋上に出れた。守が思い出したのは、二年前に三三で自ら命を断った男だった。彼は守が当時、趣味としていた野球のサークルで知り合った知り合いだった。自殺の原因ははっきりとはわからなかったが、生活苦や恋愛でのトラブルが重なったという話を聞いた。守は死の二週間前に彼と会っていたこともあり、彼の自殺に強い衝撃を受けた。しばらく誰とも口をきかずに独りでいたかった。守は身近な人の自殺に当初、悲嘆するばかりだったが、やがて――特にミホに去られてから――彼の自殺は守にとって、エマージェンシーカプセル的な護符に変わった。

 しかし、今こうしてビルの屋上に来てみて、三〇メートルはあろうかという高さに足がすくんだ。結局、守はそのビルに入っているビデオボックスで一夜を過ごした。


   *


 ミホと偶然会った夜以来、守の生活は、底が抜けたように、自堕落なものになった。守はもう仕事もしていなかった。というよりできなかった。〈ゆめ〉でのミホとの関係も当初描いていたシナリオから大きく外れ、現実同様どこか投げやりな関係、そこから何一つ建設的なものを得られないような関係になっていた。

 守は、こうなったのはすべてホテルのバーに行った夜、ミホに偶然会ったことの帰結だと考えていた。あの夜ミホと会ったときの感覚は、どうあがいても〈ゆめ〉では得られないものだった。守はもはや認めないわけにはいかなかった。〈ゆめ〉は現実の代わりにはならない、と。あのときのミホの流し目、あのゾクゾクするような感覚は、現実にしかないことを守に思い知らせたのだった。

 それゆえに、あの邂逅の前まで本気で信じていた〈ゆめ〉で現実の失敗を取り戻すという企図はもはや支持できなかった。〈ゆめ〉がどれだけリアルだとしても、そこに慰安以上のものがあるかどうか疑問だった。なぜなら、それは結局、予定調和の域を出ないと考えられたからだ。あの邂逅のような真の意味で予想外の出来事が起こるとは考えられなかった。それに、ミホはもう現実のミホからかけ離れていた。ミホは時には守と対立してでも、自己主張する自立した女性ではなくなっていた。なぜか? おそらくはそれが自分の願望なのだ、と守は思った。

 現実では彼女と対等な関係でありたかったが、〈ゆめ〉では別の欲望が作動しているのだろう。なぜなら、〈ゆめ〉は現実とは違う、独自の世界だからだ。当然、そこで恋人に求めるものも違ってくる。当然のことながら、相手の年収といった指標は無意味だ。〈ゆめ〉で、現実には存在しないすべてを受け入れるような女を求めたとしても不思議ではない。実際、現実で〈ゆめ〉と競合する分野であるゲームでは、そうした女がよく登場する。

 あるいは、結局のところ、それが自分のシナリオライターとしての限界なのかもしれなかった。つまり、ミホを一貫した性格の人物として描く能力がない場合は、結果として、主張のない、どこかエロゲーのキャラクターのような性格になってしまうと考えることもできた。

 いずれにしも、守はもうミホとの〈ゆめ〉を続ける意味を見出せなかった。〈ゆめ〉では、ミホと恋人同士の甘い生活を送っていたが(それが楽しいと言えなくはないとしても)、そこに幸せはなかった。そこで、守は〈ゆめ〉を終わらせることにした。それなりに楽しい〈ゆめ〉を終わらせるのは辛かったが、そうする以外に自堕落な人生から抜け出す道を見い出せなかった。


 守は行き慣れた風俗街にある店舗のロケハンを経て、最後のデートのシナリオを書き上げた。そのシナリオからまず間違いなく辛い〈ゆめ〉になると予想できた。できれば、見たくない〈ゆめ〉だった。守はヘッドギアを装着してもなかなか寝付けなかった。ふと植田のことを思い出した。この〈ゆめ〉を終わらせたら、俺はこの泥沼から抜け出して、新たに人生をやり直せるはずだ。そうしたら、〈ゆめ〉のプロジェクトに協力しよう。もしまだ俺のことを必要としているなら。守はそう思って、植田にその旨を書いてメールした。その後、睡眠導入剤の助けを借りて眠りについた。


 ミホは、初めて会ったときと同じ白のブラウスにグレーのキュロットパンツという格好で待ち合わせ場所に現れた。季節の設定もそのときと同じ初夏だ。

「ダーリン! お待たせ!」

 ミホの笑顔に守はクラっときた。(かわいい。しかし……)

 最初に、初めて会ったときに行ったリノベーションカフェに行き、実際と同じ席に向き合って座った。アンビエント系の音楽がかかっている。適当にドリンクと食べ物を頼んだ。

「そのシャツいいね。どこで買ったの?」

 ミホが言った。守は黒地に細かい白のドットのあるシャツを着ていた。

「ありがとう。昔、古着屋で買ったものだよ」

 守もミホのブラウスを褒めた。守は気持ちが揺らぐのを感じた。

(やっぱりミホとこのまま楽しく過ごす方が良いのではないだろうか?)

「どうしたの? 顔に何かついてる?」

「いや。……ごめん」

「変なダーリン」

 とりとめもない会話が続いた。それは心地良いものだった。しかし、それは形骸化した会話だった。ミホはもう仕事の話はしなかった。ミホから現実的な側面がすっぱりと捨象されていた。〈ゆめ〉の中のミホは、彼女の心地良い部分だけが具象化された、いわばミホのシミュラークルだった。

(やっぱりダメだ。目の前にいるミホは、バーで出会った現実のミホとは違う。あのときの鮮やかな、痺れるような感覚はない)


 食事が終わると、守は予定していた店へとミホを連れて行った。

「ねぇ、どこ行くの~?」

 ミホはキョロキョロしながら不安げに訊いてきた。二人は関東屈指の風俗街を歩いていた。守にしてみれば、耳かき店に通っていたせいで行き慣れていた風俗街だ。もっともまだ午後の四時を過ぎたばかりで、ネオンの妖しさはなかったが。

「ここだよ」

 守はハプニングバー「es」の看板の前で止まった。ミホの額に汗が滲んでいた。守は「ちょっと、何なのこの店?」というミホに答えることもなく、地下へと続く階段を降りた。

 受け付けを済ますと、薄暗い店内は、女性の脚をモチーフにした像やシャンデリアが淫靡かつ非日常的な雰囲気を醸し出していた。バーカウンターの後ろのスペースは、コの字型に配置されたソファー席になっており、黒のレースのカーテンで仕切られていた。そのスペースには、一組のカップルの先客がいた。守とミホは、他に客のいないバーカウンターに着いた。守はビールを、ミホは赤ワインを注文した。バーテンダーの女の子は、下着なのか衣装なのかわからない、メイド服をエロくしたような衣装に身を包んでいた。ミホは、ひと通り店内を見回し、ここがどんな店が理解したようだった。しかし、不平は言わなかった。二人でしばらく無言で飲んでいた。そのうち、女の喘ぎ声が聞こえてきた。ミホが「エロすぎ」と耳元で囁いた。

 酒を飲み終わり、広場に進むと、たるんだ体つきの中年女がフェラに励んでいた。無精髭の中年男の共犯の笑みを無視して、守とミホはシャワー室に入った。シャワーから戻ると、対面座位で上下に揺れている中年カップルの他に若いカップルがいちゃついていた。守とミホは、中年カップルを挟んで、シンメトリーな中庭の窓のように若いカップルと見合った。守が立ち上がると、ミホが手を掴んだ。ミホの目は、「行かないで」と懇願しているように見えた。しかし、守は手を振り払って若いカップルに近づいた。

 若い男から同意を得ると、お互いの女を交換した。守はミホが脱がされて行くのを見ながら、自分も茶髪にピアスの若い女を相手に鏡のように同じことをした。守は、ミホがヤラれている姿にひどく昂奮した。特にミホがパンティの中を弄られ、喘いでいるとき、守は今までで一番昂奮した。しかし、守は昂奮に我を忘れることはなかった。守は、ミホがTバックの黒のパンティ一枚で、自分の方に尻を向けてフェラしているとき、同じように自分の一物を咥えこもうとしている女から身を引き剥がして、店を出た。これで終わりだ。ミホは俺を嫌いになるはずだ。守は思った。

 守は近くのビデオボックスで、ミホを思い描いてオナニーした。一瞬で果てた後、手についた精液を拭いているとき、ミホから携帯に電話が来た。ミホは怒っていた。「一人で店出て、どういうつもりなのよ?」と喚いた。「そりゃあ……」本当は言うつもりだった「もう別れたいから」の一言が言えなかった。守は〈ゆめ〉とはいえ、別れるのが容易でないことを悟った。たとえ夢でも、この快楽を手放すには途方もない努力が必要に思えた。

「ごめんよ。ミホが他の男にヤラれるの見てられなかったんだ」

 守は嘘を言った。

「自分が連れてきたくせに……。今、どこにいるのよ?」


 ビデオボックスの入っているビルの前に来たミホは険しい顔をしていた。

「俺のこと嫌いになっただろ?」

「……ううん。なんで?」

「ひどいことしたから」

「もうしないで。わたしのことをもっと大切にして」

「……ミホは俺のどんなところが好きなの?」

「そりゃあ、何もかも好きだよ」

「嘘だ。ミホは俺に興味がないだろ」

「なんでそんなこと言うのよ?」

「……なんでって。全然、将来の話も出ないし。結婚についてはどう考えているんだ?」

「守がしたいならするよ」

「俺がしたいなら、か。じゃあ、俺が死にたいと言ったら一緒に死んでくれるのか?」

「うん」

 ミホの目はビー玉のようだった。

「死ぬのが怖くないのか?」

「怖くないよ。守と一緒なら」

 守はミホの手を取って、ビルの非常階段を昇った。二人は屋上のフェンスの穴をくぐってフェンスの向こう側に出た。しかし、守はやはり怖かった。そこでミホに頬を打ってくれと頼んだ。ミホはかなり強めに頬を打ったが痛くなかった。(大丈夫だ。これなら行ける)守はミホの手を握った。キスしてから「ミホ、愛してる」と言おうとしたら、その前にミホが飛び降りてしまい、守も引きずられて、位置エネルギーを解放した。

「うあああああ」

 ものすごい勢いで地面のアスファルトが迫ってくる。激突! 痛くはなかった。しかし、視界がブラックアウトした。気配からギャラリーが集まってきて、「救急車を呼べ」だの、「若い女なのにもったいない」などと言っているのが聞こえる。そのうちに、意識が遠のいた。


   *


 守は目が覚めたとき病院にいた。直前まで夢を見ていた。子どもの頃の夢だった。具体的な内容は忘れたが、昔、親しくしていた友人が出てきた。

 しばらくすると、看護師が守に気付いて、医者を呼んだ。医者が自分に呼びかけている。守はようやく自分が〈ゆめ〉で自殺を試みたことを思い出した。

(やはりただじゃすまなかったか)

 守が口を開こうとすると、声にならない声が漏れた。(了)

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