第6話 男の正体
朝、駅に降り立った映美は、夜勤明けと、ここのところの人手不足による激務で疲れていたし、桜ももうあらかた散ってしまっていたので、今日は真っすぐ家に帰ろうかと思ったが、なんとなく今日もあの男がいるのではないかと気になり、また川沿いの道を遠回りして帰ることにした。
「桜はもう散っちゃったな」
もう桜の花もだいぶ散り、葉っぱが広がり始めている。
「でも、まだ少し残ってる」
わずかに残った花びらに映美は少し寂しさを感じた。
「あっ、今日もいる」
やはりあの男はいた。いつも座っているベンチに座り、男は手に持ったノートのようなものにしきりに何か書いている。どうも何か絵を描いているようだった。何を描いているのだろうか映美は気なった。男に興味を持ち出していたこともあって、映美はそれとなく男の背後に回り、少しずつ近づいていった。幸い、男は絵に夢中で周囲に全く意識が向いていなかった。
映美が背後から、男の持っているノートを覗くと、そこには事細かに描写された鳥の絵が描かれていた。男は近くの木に留まっている小鳥を、ものすごいスピードで描いていた。その絵は限りなく繊細であり、どこまでもリアルで生きていた。
「あっ、あの絵だ」
映美は、その絵を見た瞬間、あのゴミ捨て場に捨てられていた絵を思い出した。
「あの」
映美は思わず声を掛けていた。男は映美に気付くことなく、なおもものすごい勢いで絵を描いている。
「あのっ」
もう一度声を掛けたが、やはり男は絵に夢中だった。
映美はあきらめて、男が絵を描き終わるのを待った。しばらく経って木に留まっていた小鳥がどこかへ飛んで行ってしまうと、絵を描く手を止めた男がゆっくりと映美の方を振り返った。その男の口元には優しい笑みがわずかに浮かんでいた。
「鳥は気まぐれだから、時間が勝負なんだ」
男は映美が想像していたのとは違い、とても穏やかな話し方をした。
「あの、絵を」
映美は、慌てて言葉にならない言葉を必死で吐き出した。男は映美を見つめたまま、穏やかに黙っていた。
「あの、絵を捨てませんでしたか」
男はなおも黙ったまま映美を見つめていた。映美は母が言う通りこの人は少し知恵遅れなのかなと思った。
「あのそこのゴミステーションに絵を捨てませんでしたか。大きなベニヤ板に描かれた。青い鳥の」
「捨てたよ」
男はあっさり言った。
「やっぱり、あなただったのね」
男は少し微笑んだまま黙って映美を見ていた。
「私、あの絵を拾ったんです。今、うちにあるんです」
男は無反応だった。
「あの」
「しっ」
男は人差し指を唇に立てた。映美は思わず黙った。男は目をつぶり、耳を澄ました。映美もよく分からなかったが、何が聞こえるのだろうと、意識を耳に集中し周囲に向けた。
「ホー、ホケキョ」
ウグイスの鳴き声がきれいに公園内に響き渡った。姿は見えなかったがかなり近いところで鳴いているらしい。
「ホー、ホケキョ」
もう一度鳴いた。
「ウグイスね」
「しっ」
男はすかさず言った。
「ぴょー、ぴょー」
更にその向こうで、別の鳴き声が聞こえた。
「アオゲラだよ」
男は誰に言うでもなく言った。
「もう春だ」
そんなことは、桜を見れば分かるではないか。映美はなんだかおかしかった。
「毎日ここで、鳥を見ていたの?」
「うん」
「鳥が好きなのね」
「うん」
この人は悪い人ではない。映美は直感した。
「ここ空いているよ」
男は、自分の座っているベンチの隣りを示し、少し端によけた。
「ありがとう」
いやらしさは感じなかった。映美は素直にその男の隣りに座った。
「ぼくは鳥になりたいんだ」
映美が隣りに座ると、男は唐突に言った。
「えっ?」
映美は男の顔をまじまじと見る。冗談を言っている顔ではない。
「君も食べるかい」
男は値引きシールの付いたクリームパンを、着古した薄いコートのポケットから取り出した。
「いいわ。それあなたのごはんでしょ」
「うん」
男はそれ以上勧めず、ビニールの袋をわさわさと剥くと、一人でむしゃむしゃ食べ始めた。
「絵、うまいね」
映美は、もう一度近くで男のノートを覗き込んだ。
「そうかな」
「とてもうまいわ」
「君がそう言うなら、そうなのかもしれない」
「いつもここにいるの」
「大抵はね」
「この近くに住んでるの」
「うん、あそこだよ」
男は公園横の古びたアパートを指さした。やっぱり、母の言っていた人だ。
「ぼく、誠」
「え?ああ、私、映美」
「えみ、いい名前だ」
「誠もいい名前だわ」
「ぼくの名前はくじ引きで決まったんだ」
「くじ引き?」
映美が聞き返してもそれには答えなかった。
「ヒヨドリだ」
近くの木の枝に、また新しい鳥が留まった。
「オスだ」
トサカの付いた少し大きな青い鳥だった。
「なんか格好いい鳥だね」
「あいつは嫌われ者だよ」
「そうなの」
「春に畑を荒らすからね」
「へぇ~」
「でもぼくは好きだ」
よく見ると、誠の着ている薄いコートは肘が大きく破れていた。その下のセーターの肘も少し破けていた。
「仕事に行かなくていいのかい」
「仕事は終わったの。これから帰るところよ」
「そう」
誠は食べ終わったクリームパンの袋を、コートのポケットにねじ込んだ。
「商店街の脇にいらないベニヤ板が捨ててあったんだ。それを持ち帰って、それで描いてみたんだよ」
「あの絵ね」
「うん」
「あの絵、私がもらってもいいかしら」
「喜んで」
誠はやさしい笑顔を向けた。映美はこの誠と名乗った男の笑顔に何か不思議と惹かれるものを感じた。
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