第二十三話
「こと、みん?」
あかりが途切れ途切れに名前を呼ぶ。
「あっもう
姫野さんがいつもの明るい調子の挨拶をするが、あかりの方は黙ったままだ。
それでも少ししたら我に返ったのか、あかりは一歩後ずさる。
少しの間留まるあかりだったが唐突に身を翻すと、廊下から騒がしい足音が響いた。
「お、おい、あかり」
遅れて呼びかけ、追いかけようとすると、姫野さんの声に引き留められる。
「追いかけるの?」
おおよそ、いつもの姫野さんから発せられたとは思えないほど冷たい声だった。
「……姫野さん?」
「コウ君は私を置いていってあかりを追いかけるのかな?」
口調こそ姫野さんではあったが、そこに一切の温もりも穏やかさも無く、それだけで別の人間が言葉を発しているようだ。
「えっと、それは……」
「遊びに来てるのは私なのに、置いていくんだ」
「あーいや、そうだよね。ハハ……」
あかりだし、あの状況を見ても何が起こったのか理解できなかったに違いない。走っていったのは何か急な用事でも思い出したんだろう。良くも悪くも自由奔放な奴だからな。そうだ、俺が別に心配することは何も無い。何もないに決まってる。何も。
考えを振り払うためとりあえず席に戻ると、姫野さんは顔を綻ばせ、いつもの姫野さんに戻っていた。
「よかったーあかりなんかのために一人になっちゃったらどうしようかなーって」
いや、戻ってはいなかった。今彼女は何と言ったのだろうか、あかりなんか? それだとまるであかりの事を嫌っているみたいじゃないか。姫野さんに限ってそんなはずない。俺の知る姫野さんは……姫野さんは……。
姫野さんは……あれ?
姫野さんは、一体どんな子なんだ? よく考えてみたら、俺は姫野さんの事を何も知らないんじゃないのか? 清楚で、思いやりがあって、人当たりがよくて、優しくて。そんな事を勝手に思っていたが実際はどうだったのだろう。
俺には姫野さんが何を思ってここにいるのか、分からない。
「ねぇコウ君」
湯水のように流れる思考を姫野さんのひと声がせき止める。
「えっと、どうしたの姫野さん……」
「私、コウ君のお部屋に行ってみたいなーって」
「お、俺の部屋?」
聞き返すと、姫野さんは無言のまま立ち上がり、こちらへと近づいてくる。
距離は短いのにやけに時間の進みが遅い。
それでもしばらくして、姫野さんは俺の後ろに立つと、すっと耳元に仄かな暖かみが漂い、花の香りが鼻腔をくすぐる。
「色々いい事したいなって」
甘い香りと共に傍でささやかれる蠱惑的な声にこのまま溶けてそうな、脳がかき乱されたような、恐ろしく犯罪的な感覚に襲われる。
それでもなんとか自我を保てたのは、恐らく名状しがたい違和感が心の中で湧き出ていたからだろう。
よくよく考えればおかしな話なのだ。
何せ俺は大した取柄もなく別にイケメンでもない普通の人間だ。そんな俺に姫野さんが近づいてくる理由が分からない。姫野さんほどの可愛い人が出会って間もないのに色々話しかけてくれたりだとか、家を訪問したいだとか、挙句には今みたいなことを言ったりだとか。よく考えれば違和感だらけなのだ。
それだけじゃない。先ほど姫野さんは『あかりなんかのため』なんて突然あかりを軽視するような事を言った。これも違和感を覚える。二人は仲が良い友達じゃなかったのか? 少なくとも傍目から見ている限りでは仲の良い友達だ。だいたいあのあかりが嫌われる光景が思い浮かばない。
だが、あくまで傍目から見た限りではだ。もし仮に、本当に姫野さんがあかりの事を嫌っていたのなら、あの蔑んだような言い方は納得できる。
ただ、そうだとしても、姫野さんは何故俺にこうも近づくのか、という点については分からない。あかりを嫌っていたとして、俺にこんなに近づいてくる理由なんてあるのか?
「……姫野さん」
口を開くと、姫野さんは俺の耳元を離れ、いつもと似た様子で尋ね返してくる。
「どうしたの? コウ君」
「教えてほしい。姫野さんはなんで俺に色々話しかけてくれたりするんだ?」
「それはコウ君が気に入ったからだよ」
即答だった。機械的で、義務的な即答。
もし、本当にそう思っているというのなら、多少躊躇くらいするだろう。数日前の俺ならお世辞と分かりつつもこれだけで舞い上がっていたかもしれない。
でも、今はこれが本心でもなんでもない、さらにはお世辞ですらない無機質な応答だと、なんとなく理解できた。
「たぶん、そうじゃない、よね?」
問うと、姫野さんは特に檄した様子もなく笑みを浮かべる。
「ひどいよコウ君。これでもけっこう勇気出して言ったのに」
どこか姫野さんは拗ねた様に口を尖らし、若干頬を紅くする。恐らくこの場面だけを切り取ればあまりの可愛さに世の男子は例外なく卒倒するだろう。
それほどまでに姫野さんの所作は洗練されていた。
でもありえない。俺は姫野さんに好意を抱いてもらえるような事なんて一つもやってないのだから。例えばトラックか何かに轢かれそうなところを助けていた。なんていう出来事があったのならまだ余地がない事も無い。主人公が覚えて無くても助けた相手が実は同じクラスの女の子だった。なんていうような設定の物語はいかにもありそうだ。
だが生憎、俺は一生で一度も交通事故に遭ったこともないし、そんな場面に遭遇したことも無い。誰かを身を挺して守るヒーロー精神だって持ち合わせてない。ヒロインを助けて好かれるなんていうのはフィクション、幻想の世界の出来事に過ぎない。
「なぁ、姫野さん」
「なーんて」
再度、問いかけようとすると、姫野さんの声によって遮られる。
「流石にもう分かっちゃってるみたいだしねコウ君も」
またしても冷たい声だった。声質だけで受ける印象がこうも変わるのか、どこか畏怖のような感情が身体の内から沸いて出てくる。
「やっぱり、俺に近づいたのは気に入ったから、ってわけじゃないんだよね?」
「うん。だって特に何の取柄も無い人、気に入るわけないよ」
姫野さんはつまらなそうに言うと、壁にもたれかかった。
分かっていた事とは言え、実際言われると少しだけくるものがある。
軽く心を痛めつつも、知りたい事の方が大事なのでとりあえずはそれは心の片隅に置いて、話を続ける。
「じゃあなんで俺に……」
近づいてきたのか。
聞くと、姫野さんは特に何の心情の変化も無さそうに、答える。
「あかりが煩わしかったから」
「あかりが?」
「そう。ああいううるさい子は私とは合わない。はっきり言って嫌い。というかそもそも、私と合う子なんて誰一人いないと思うよ」
それはつまり姫野さんに釣り合う女の子がいない、そう言っているのだろうか?
姫野さんの表情から真意は汲み取れない。ただ、どことなくその眼差しは重々しかった。
言葉の意味を自分なりに噛み砕こうとしていると、ふと何かが喉に引っかかる。
「……でもなんで、あかりが煩わしいからって俺に近づく理由になるんだ?」
引っ掛かりを言葉にすると、姫野さんはどこか呆れたような、憐みのような視線をこちらに向けてくる。
「コウ君って何も分かって無いんだね」
「分かってない?」
「まぁ、あかりもあかりで自分の事ちゃんと理解してなかったみたいなんだけど」
「それって、どういう……」
問おうとするが、姫野さんは壁から離れると、開けっ放しのリビングの扉の前で立ち止まり、くるりと振り返る。
「ごめんねコウ君。けっこう長居しちゃったかし、そろそろ帰ろうかな」
「ちょっ、まっ……」
「バイバイ。これからも私、コウ君といっぱいお話したいな」
俺の言葉を遮り言うと、姫野さんは微笑みかけリビングを後にする。
もう一度引き留めようと立ち上がるが、話はこれまでだと言わんばかりに扉は閉ざされるのだった。
俺は一体、何を分かってないというのだろうか。
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