第2話
六月
「はぁ? 何それ?」
山田だったか田中だったかは定かではないけれど、目の前の席を陣取ったその子は、不快そうな表情を隠そうともせずに言った。箸でつままれたラーメンの麺が半端な高さで揺れている。
大学構内にある食堂は混んでいない。まだ二限目の講義も終わってないし、お昼には少し早い時間だったから当然と言えば当然だけど、人のいない学食はちょっと新鮮な感じがする。
「ねぇ、何それ?」
「……」
たまたま二限の講義が休講で、今日はラッキーな日だと思っていた。私はちょっと、浮かれてしまっていたのかもしれない。
目の前に座る山田だったか田中だったかは、真剣に怒っていた。
でも、何それと言われても、私には何と答えて良いのかわからない。そもそも何を問われているのかもよくわからないし、何をそんなに怒っているのかもわからない。
バイトの話をしていたはずだ。山田だったか田中だったかがやっているコンビニのバイトがどれほど大変か、という話。
その前は山田だったか田中だったかの金欠の話。
その前は山田だったか田中だったかの大学入学から始まった、この三ヶ月間の一人暮らしについて。
その前は……山田だったか田中だったかの講義で出された課題レポートについて、だったか?
目の前に座る子が同じ講義をいくつか受講している、ということくらいなら知っている。でも、それ以外はよく知らない。まともに話をするのはこれが初めてだ。
「バイトしてないのでわかりませんが大変そうですね」
相づちを打つことすら許さない勢いで延々と喋り続ける同回生に、ようやく言えた一言だった。
そしてたぶんこれが、同回生を不機嫌にしてしまった一言でもある。そこまではわかるのだが、この言葉のどこに、ラーメンを食べる山田だったか田中だったかをこんなに怒らせる要素があったのかわからない。
わからないことはどんなに考えたってわからないに決まっていると、私は早々に考えるのをあきらめて、サクサクジューシーと評判のA定食の唐揚げをほおばった。
山田だか田中だかは、私からの答えがないのに苛立ったのか、つまんだ麺ごと箸をびしゃりと汁の中に沈める。少量の味噌ラーメンの汁が私の手の甲に当たるけれど、文句を言えるほどの間柄ではないし、文句を言える雰囲気でもない。
どうぞと言ったのが間違いだったのだろうか。ここいいですか? と聞かれて、同じ講義取ってるよね? と話しかけられて、良く知らない相手とそのままずるずる会話になってしまったのがダメだったのだろうか。
サクサクでもジューシーでもない唐揚げを咀嚼しながら、ほっぺを指さしてにっこりと笑ってみた。ほら、今、口いっぱいだから、喋れないんです。
「ねぇ、マジなの? マジで言ってるの? ねぇ?」
「……」
全く伝わってなかった。まあ、ふざけてるのかと余計に怒らせてしまうよりは良いけれども。
山田か田中か、いやまて、佐藤だったかもしれない。とにかく目の前に座るその子は呆れたように盛大にため息を吐き、物わかりの悪い子どもをさとすように喋り出す。
大学生にもなってバイトもしてないなんて甘えてるだの、自覚が無いだの、そんなようなことを何度も何度もしつこいくらいに、まるで鬼の首でも取ったかのように得意になって延々喋り続ける。ラーメンがのびてしまうのにも構わず、私が箸を止めず、相づちさえ打っていないことにも気が付かない。
どこで息継ぎをしているのかもわからないほど、その子は延々喋り続ける。
「ホントさ、そーゆう言い訳って馬鹿っぽい」
「……言い訳?」
A定食も食べ終えて、席を立つタイミングをうかがっていた所だった。なのに、した覚えのない言い訳という言葉が出てきて、うっかり聞き返してしまった。
山田か田中か佐藤はもうラーメンはあきらめたのか、箸を置いてしまっている。
「せめて夏休みまでは頑張ろうとか思わなかったの?」
「え?」
二限の終わりを告げる鐘が鳴った。
丁度いいタイミングだと思い、まだ何事かを喋り続ける山田か田中か佐藤に一声かけて、強引に席を立つ。
立ち上がった拍子に正面に座る人物の開いた鞄が見えて、中身のノートに山田なんたらと書いてあるのも読めたけれど、もうこの人の名前に興味はない。
結局何を怒っていたのか、私に何を答えて欲しかったのか、そもそも一体何を言っているのかわからなかった。
もやもやとすることがあった時、私は必ずNに話すようにしている。
Nのことを教えてくれたのは、名も学部も知らない二回生の先輩だった。漫画研究会の人で、サークルから部活に昇格するため、ぜひとも君の力をとかなんとかと言いながら、お世辞にも上手だとは言えない、小学生の落書きのようなイラストの入ったチラシを握らされ、困惑したのを覚えている。
ごく一部の学生の間では有名人になっている、Nさん。
困ったことが起こったらまず相談するべきは、Nさん。
Nさんに解決できないことなんて、まずありえない。
でも、名も学部も知らない二回生の先輩は、こうも言っていた。
俺も相談したことがあるけど、ふうんの一言で流された、と。
「……ということがありました」
「ふうん」
学食であったことをなるべく正確にNに伝えると、興味があるのかないのか……いやないんだろう、Nはニコリともせずに言った。
「他には?」
Nはいつもラウンジの定位置で本を読んでいる。単位をどうしているのかはわからないけれど、講義に出席している様子はない。実は学生でも何でもない部外者なのでは、という噂もあるらしいけれど、よくはわからない。
「他には、今日は特に何も」
「ふうん、そっか」
伏せていた本を手に取り、読み始めるN。いつものことだった。Nはただ話を聞くだけ。面倒くさそうな様子もないけれど、興味らしい興味も見せない。
もちろん、聞いてもらえるだけで有り難かった。もやもやを吐き出させてもらえるだけで、いつもだったら満足するのだけれど。
「あの、もう少しお話、いいですか?」
声をかけると、Nは読み始めたばかりの本をすぐまた伏せて、私を見る。
「構わないけど、今日はもう特に何もなかったんじゃないの?」
突き放したような物言いだ。でも、声音も表情も、言葉ほど突き放したようなものではない、と思う。
私はやっぱりちょっと浮かれてるのかもしれない。二限に続き、三限の講義まで休講だったから、少し大胆になっているのかもしれない。普段の私なら、絶対に言わないようなことを言ってしまった。
「……私の話って、楽しいですか?」
「いいえ?」
即答だった。
それはそうだ。私にだって多少の自覚はある。
「じゃあ、何で毎回毎回聞いてくれるんですか?」
「じゃあ、何で毎回毎回わたしに話してくれるの?」
「え?」
「え?」
三限は既に始まっている。
でも、今日もラウンジはそこそこに混んでいた。
ゆったりとNが首を傾げる。
促されてる、と思って慌てて頭を働かせた。
「だって、嫌な顔しないでちゃんと聞いてくれるから、です」
「『夜の気配』は嫌いなのに?」
「え?」
「え?」
短い沈黙。
誰かが投げた消しゴムが、窓ガラスに当たって音を立てる。
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