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「おはよう」

 私はまぶたを擦り、緩慢な動作で上半身を起こす。

 寝起きは悪い方だったけれど、私の双眸はしっかりと開き、そこに睡魔の影はない。

 瞼を擦ったのだって、別に眠いからじゃなく、単純に小さいころからの癖なだけだ。

 癖。…というよりかは、ルーチンと言った方が適切かもしれない。


 Question:

 朝起きたらまず、貴方は何をしますか?


 Answer:

 私は瞼を擦ります。


 誰もいない部屋に消えた私の挨拶に、けれど、どこからか反応する声があった。

「おはようございます、幸福な市民リィン」

 女性的な柔和な声。

 聞いた者が不安になることのないよう調整された声が、私の部屋に静かに響く。


 collating...

 99.99999999...%

 confirmation!


 #vital sign

 check vital[Temperature],[Respiration],[Pulse],[blood pressure]

 ■■■■■■■■■■100%

 complete!


「本日の天気は曇り、外気温は二十二度です。少々肌寒いと思いますので、外出の際には羽織れる物を持ってお出かけになるのがよろしいかと思われます。本日の予定を確認いたしますか?」


 >no_


「いいえ、大丈夫」

「了解いたしました。今日も、貴方にとって幸福な一日でありますよう」

 そこで音声は途切れ、再び部屋に静寂が訪れる。

 なんのことはない、私の[おはよう]をキーにPALSが起動し、その機能を終了しただけだ。

 PALS-Personal AI for Life Supporting-

 読んでそのまま字の如く、人々の健康支援のためのパーソナルAIである。

 パーソナルとは言うが、別にそれぞれに異なった人格を有していたりするわけではない。

 ただ単に、利用する個人それぞれに適した形に機能がカスタマイズされているというだけだ。

「今日も一日、幸福ね…」

 幸福は市民の義務です。

 そう、幸福は市民の義務…。

 病気の概念が消失し、事故も、事件も、そのほとんどが淘汰された世界において、市民が果たすべき義務は幸福であること、それだけだ。


 #reminiscence

 check memory[紅城 リィン]


 超健康化社会。

 私たちより未来の人々は、この世代の社会をそう呼ぶことになるでしょう。

 社会の授業で、教師がそう語っていたのを思い出す。

 せんせー、未来ってどれくらい?

 そうですね、十年もすれば教科書にも載ると思いますよ。

 十年後だってー。

 私もう大人だよー。

 私たちは過去のどの時代よりも幸福な時代を生きているんです。

 昔は治せない病気がいっぱいあったし、事件や事故も多かった。

 知ってますか? 昔は交通事故…、ああ、交通事故というのは車に関する事故のことです。車同士が衝突したり、車が人にぶつかったりすることですが、その交通事故に関する罰則が非常に多かったんです。

 車が人にぶつかるの?

 こわーい。

 そうですね。今では考えられませんが、昔は車も人が手で運転していたんです。なので、車が人にぶつかったときのような罰則を規定しておく必要があったんですよ。

 それに、不治の病。昔は冗談でも何でもなく、不治の病というのは、言葉そのままの意味として使われていました。治らない病気のことですね…。特定疾患、または指定難病とも呼ばれていましたが…。

 不治の病だって。

 お前が数学出来ないのも不治の病だもんな。

 アハハハ!

 …そこ、静かに。

 えー、まあしかし、皆さんも知っての通り、現代の医療技術では治療することのできない病はまずありません。

 これも、前時世界大戦後の医療技術の飛躍的な進歩、ひいては健康生命維持装置PALSの開発のおかげ、というわけですね。

 ということで、今日の授業は前時世界大戦が始まったあたりの話を…。


 >end -c


 そこで、はっと我に返る。

 教室から自室へと、意識が帰る。

「いけない、準備しなくちゃ」

 思い出に時間を取られたので、少し急ぎで支度をする。

 仕事着である深青色のジャケットに袖を通し、珈琲の入ったボトルと、サンドイッチに手を伸ばす。

 健康な生活は朝食から。

 つまり幸福な市民にとって、朝食は義務。

「車の中で食べれば…、間に合うかな」

 部屋の壁に親指と薬指を押し付け、指を広げるようにスライドする。

 すぐさま待ち受け画面がポップアップし、現在時刻と交通情報が浮かび上がった。

 時刻、九時十九分。

 渋滞、なし。

「よし、いってきます」

 一瞬立ち止まり、家の中を振り返る。

 別にPALSから返事が返ってくると思ったわけではなく。

 これもそう、習慣。

 言ってしまえばただのルーチンであって。


 Question:

 貴方は家を出る前、なにを確認しますか?


 Answer:

 以下略。


 そうして私は、いつも通りに家を出た。

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