スイサイド

@28K

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 幼少期の頃の記憶。

 私が七歳のときだったか。

 普段、昔の記憶は覚束ない私だが、これははっきりと覚えている。

 理由は単純で、それが七五三というイベント…。イベント? 風習と言うべきか。

 七五三の写真を撮影した日だったので、よく覚えている。

 慣れない晴れ着姿で親族に囲まれ、窮屈な思いをしながら愛想を振りまいていたあの日。

 思えばあの頃から私は捻くれていて、それでいて嫌にさかしかったので、窮屈だし、早く帰りたいと思いながらも、両親とその親族の機嫌を損ねないよう、精一杯の子供らしい笑顔で振舞っていたのだった。

 そこで貰った棒状の飴、あれは確か千歳飴というのだったか。ゆうに三十センチはあろうかという細長い棒状の飴を、私を含めた少年少女は、年頃の子どもらしく、みんなにこにこと頬張っていた。

 子どもらしい腕白さで、親戚の少年が飴の先を尖らせて遊んでいた。槍だ。飴の槍だと言って。

 口を切るのでやめなさいと、その子が親に叱られているとき、私も口の中で槍を作っていた。

 その時の私は、子供の輪に溶け込もうとしていたわけではなく。

 飴で槍を作りたい、という純粋さに支配されたわけでもなかった。

 純粋な好奇心ではあったのだけど。

 それは子どもらしい純粋さではなく。

 もっと原始的で。

 とても単純な好奇心。

 これを。

 この先端が槍のように尖った飴を。

 そのまま喉に突き刺したら。

 私はどうなるのだろう。

 当然、死ぬことになるだろう。

 そんなことは当時の私でもわかる。

 飴の槍で、そのまま喉を貫く勇気は私にはないけれど。

 もし、仮に。

 誰かがぶつかってきて、勢いのままに、喉を貫いたなら。

 石畳に躓いて、衝撃で喉をぶち抜いたなら。

 何かの拍子に、手元が狂ったなら。

 もし。もし。もし。

 人間は、本当にそんなに簡単に死ねるのだろうか。

 そんな考えが頭を巡る。

 そんな消極的な自殺志願者のようなこと考えておいて、今生きていることが、結局そんな妄想は実現せず、私が死ななかった証明にはなっているのだけれど。

 でも未だ、そんな考えだけは捨てられないでいて。

 今になっても思う。

 私はきっと、この時には終わっていたんだな、って。

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