第84話 驚愕

 結局、そのまま何日か、恭子はモヤモヤとした気持ちを抱えたまま、職場で時を過ごしていた。すると今現在直属の上司である真弓が、不思議そうに声をかけてくる。


「恭子さん、何か心配事でもあるの? 朝から難しい顔をしているけど」

「あ、いえ、大した事じゃないんですけど、この何日か気になる事がありまして……」

「気になる事って?」

 斜め前の机から不思議そうな顔で尋ねられた恭子は、ふと思いついた。


(早川会長だったら人生経験は豊富だし、ひょっとしたら浩一さん達の変な行動の意味が分かるかしら?)

 そんな事を考えた恭子は、駄目もとで聞いてみようと口を開いた。


「会長、ちょっと個人的な事を、お尋ねしても宜しいですか?」

「ええ、何かしら?」

「その……、ごく親しい知人から聞いた話なんですが、最近ご家族の様子が変なんだそうです」

「具体的にはどんな風に?」

 自然な口調で問い返してきた真弓に、恭子は固有名詞をぼかしながら事情を説明した。


「そんな訳で、本人は勿論、その姉兄も何か隠しているみたいなんですけど……。幾らなんでも、これだけじゃ分かりませんよね」

 自分で尋ねたものの自嘲的に笑ってしまった恭子だったが、真弓は事も無げに告げた。


「あら、分かるわよ。その知人のご家族は、リストラされたんでしょう?」

「……え?」

 さも当然の様に言われて恭子の笑顔が引き攣ったが、真弓は淡々と自分の考えを説明する。


「だって、記念日じゃないのに、そんな大きな花束なんてそうそう買わないんじゃない? 最後の勤務日に、同僚の方達から貰ったと考えるのが自然じゃないかしら。それにその日荷物が多かったのは、会社の机に置いてあった細々とした私物を持って帰って来たからじゃない?」

 真顔でそう言い切られてしまった恭子は、冷や汗を流しながら何とか反論しようとした。


「……いえ、ちょっと待って下さい。だってまさか、辞めさせられるなんてありえないと思うんですが」

「もしくは短気を起こして、自分で辞めたか? それを家族に言えなくて、退職後も出勤している様に見せかけてるとかじゃないのかしらねぇ」

 そう言って首を傾げた真弓を見ながら、恭子は辛うじて内心の動揺を押し隠した。


(ちょっと待って……、だって浩一さんは社長令息なのに、肩叩きとかされるわけないじゃない! でもそう言えば……、浩一さんのお祖父さんが私に引導を渡しに来た時、社内で浩一さんとお父さんの仲が悪くなってるって言ってたような……。まさか本当に二人の仲が、この間に修復不可能なまでに拗れて退社して、先生と真澄さんも知ってて私に内緒にしてたとか!?)

 果てしなく嫌な予感がしてきた恭子は、ここで勢い良く立ち上がった。


「すみません、会長! ちょっとお手洗いに行って来ます!」

「はい、言ってらっしゃい」

 笑顔で了承をくれた上司に背を向け、恭子は会長室から廊下に走り出た。そして人気の無い所まで行ってから、もどかしげにスーツのポケットから携帯を取り出し、浩一に電話をかけ始める。


「……この番号は、只今使われておりません。番号をお確かめの上、お掛け直し下さい」

「え?」

 しかし予想外のアナウンスに、恭子の目が限界まで見開かれた。


「ちょっと待って。確かに最近、浩一さんの帰りが早いから、電話やメールのやり取りってしてなかったけど、まさかあのスマホを解約してたとか? 一体どういう事よ?」

 呆然と携帯を見下ろして呟いた後、我に返って何回か挑戦したものの、一向に電話もメールも通じなかった恭子は、顔色を無くして仕事場に戻る事になった。


「……戻りました」

「お帰りなさい……、恭子さん、具合でも悪いの? 顔色が良く無いけど」

「いえ、大した事はありませんから」

 怪訝な顔で問いかけてきた真弓に、恭子は笑顔を貼り付けて応じたが、相手はそう易々と丸め込まれてはくれなかった。


「今日はあと三十分で終業時間だし、もう帰ったら? 具合は悪くは無さそうだけど、辛気臭い顔で側に居られるのも鬱陶しいのよね」

 ニコニコと、表面的には笑顔で告げてきた真弓の指示に、恭子は従う事にした。


「それでは申し訳ありませんが会長、お先に上がらせて頂きます」

「はい、ご苦労様でした」

 そして真弓に一礼した恭子は、ロッカーからバッグを取り出して会長室を出て、足早にマンションへと向かった。


(浩一さん、本当に柏木産業を辞めたのかしら?)

 帰り道で恭子は苛立たしげに自問自答したが、帰り着く頃にはそうだろうなと結論付けた。


(大体、どうしてこんな時に、連絡が付かなくなってるのよ! 今日は絶対帰って来るのを待ち構えて、詳細を聞き出してやるんだから!)

 何度かけ直しても全く浩一のスマホに連絡が付かない事で、苛立ちが最高潮に達した恭子が玄関のドアを開けると、目の前に見慣れた男物の靴が一足綺麗に並べてあった為、忽ち目の色を変える。


(浩一さん、もう帰って来てるの!?)

 耳を澄ませば、何やらリビングと繋がっているキッチンの方から物音が聞こえてきた為、恭子は乱暴に靴を脱ぎ捨てて廊下を走り、勢い良くキッチンに飛び込みつつ、声を荒げた。


「浩一さん! いますよね!?」

「あ、恭子さん、お帰り。夕飯はもう少し待ってくれるかな?」

 血相を変えて問いかけた恭子とは対照的に、愛用のエプロンを付けてフライパン片手に調理中だったらしい浩一が、のんびりと言葉を返してきた。その様子に毒気を抜かれた恭子は、呆気に取られながら再度問い掛ける。


「……何、してるんですか?」

「何って……、夕飯を作っているんだけど。それがどうかした?」

「柏木産業、辞めたんですか?」

 怪訝な顔で問い返した浩一だったが、続くストレートな問いかけに、瞬時に真顔になった。


「清人か姉さんにでも聞いた?」

「いえ、早川会長の推測を聞いたんですが……、本当なんですね」

「ああ、先週辞めたよ」

 そう言って再びフライパンの中に視線を戻し、調理を続行させた浩一に、恭子は眉根を寄せて尚も問いかけた。


「やっぱり、あの花束を持って帰って来た日ですよね。それをどうして黙っていたんですか?」

「色々あってね……。食べながら話すよ。あと十分で作り終えるから、荷物を置いて着替えてきて」

「分かりました」

(どうしてあんなに普通なのよ。退職するなんて余程の事なんじゃないの?)

 すぐにでも問い質したいのは山々だったが、取り敢えず調理を終わらせて落ち着いた状態で話して貰った方が良いだろうと思い直した恭子は、素直に荷物を持って自室へと向かった。

 そして十分後にキッチンに戻ると、既にカウンターの向こうのテーブルに、料理がほぼ並べ終わった状態になっており、恭子は促されるまま椅子に座った。そして食べ始めてすぐ、恭子が何か言う前に、浩一の方から興味深そうに尋ねてくる。 


「ところで、早川会長には俺の事をどう話して、どんな風に言われたの?」

「はぁ、それはですね……」

 取り敢えず真弓とのやり取りを一通り語って聞かせると、最初は真顔で聞いていた浩一が、最後の方で口元に手を当てて、笑いを堪える表情になった。


「そうか、リストラされたと思われたんだ……。確かにその話を聞いただけなら、無理は無いかも……」

 そう呟いてくつくつ笑い出した浩一を、恭子は叱り付けた。


「笑い事じゃありません! そもそも、どうして会社を辞めちゃったんですか! 私の事で、お父さんやお祖父さんと揉めたせいですか!?」

「君の事で揉めたのは確かだが……、それが直接の原因じゃない」

「適当な事を言わないで下さい!」

 恭子としてはそれ以外に理由が考えられなかったのだが、浩一は静かに否定した。


「本当だ。以前から密かに考えていた。自分の家が創業家だから、当然の様に柏木産業に入って成果を残してきたけど、ずっと他の事をやってみたかったんだ」

 その口調に、その場の口先だけの話ではないと感じた恭子だが、まだ疑わしく思いながら尋ねてみる。


「何をしたいんですか?」

「総合商社で主に取り扱うのは、物、サービス、情報、不動産。基本的に何でも売る建前にはなっているが、要するに価値が分かり易い……、と言うか、既に一定の評価をされているモノだろう?」

「はあ、そう言われれば確かにそうかもしれませんが……、それで?」

「会社と人材」

「え?」

「再就職先の取り扱い“商品”だよ」

 言われた内容を頭の中で反芻した恭子は、ある推論を導き出した。


「……まさか、浩一さん、再就職先は商社とかじゃなくて、投資ファンドとかなんですか?」

 確信が持てないまま恭子が口にした内容に、浩一が説明を加える。


「もっと正確に言えば、プライベート・エクイティ・ファンドだ。未上場企業に投資したり、企業の買収、再生、売却を通じて収益を上げたり、ヘッド・ハンティングとかの業務や、最終的には大株主として個々の企業経営にも携わる、グラーディンス社にね。日本にも東京に支社が有る」

 頷いて淡々と応じた浩一に、恭子は本気で困惑した。


「どうしてそんな所に? こう言っては何ですが、大手総合商社の柏木産業とは違って、かなりギャンブル性が高い職種じゃありませんか? それにアメリカとかならともかく、日本ではまだ認知度が低いと言うか、これまで外資が日本企業にかなり強引な敵対的M&Aを仕掛けてきた事例があって、あまり良いイメージは持たれていない分野ですよね?」

「……だからかな?」

「はい?」

 意味が分からず首を傾げた恭子に、浩一が淡々と自分の思うところを述べる。


「子供の頃からずっと既定路線に乗ってきて、枠からはみ出す事なんか滅多に無かったんだ。だから一度はそういう当たり外れの大きい業界で、自分の力を試してみたいと思っていた。片手間にマネーゲームをやる位では、やっぱり満足できなくてね」

 そんな事を言われた恭子は、思わず拳でテーブルを叩きつつ、本気で目の前の相手を叱り付けた。


「何て贅沢で我が儘な事を、真顔で言ってるんですか! 柏木産業に入りたくても入れなかった人に聞かれたら、背後から刺されますよ!?」

「そうだな。だから口外しないで欲しい。まだ命は惜しい」

「あのですね……」

(言ってる事は無茶苦茶だけど、浩一さん、本気だわ)

 くすっと微かに笑ったものの、目が本気のままの浩一に、恭子はその本気度を悟った。すると浩一が、幾分宥める様に話を続ける。


「断っておくけど、柏木産業に愛着が無い訳じゃない。寧ろそこで働いている事に、誇りは持っていたよ」

「じゃあどうして辞めたりなんか」

「君には言って無かったが、四月の頭に俺の事で父を脅した馬鹿な父娘が居てね。誰とは言わないが」

(あの騒ぎの裏に、そんな事も有ったの? 確かに永沢家と揉めたとは聞いたけど、柏木社長を脅ただなんて浩一さんも先生も、一言も言ってなかったし)

 軽く目を見開いて驚きの表情を見せた恭子に、浩一が苦々しげに告げる。


「下手をしたら自分の過去のせいで、柏木産業の名前に傷をつける事態になったかもしれない。だから自分自身を、どうしても許せないんだ」

「ちょっと待って下さい。脅してきた内容って、浩一さんが大学の時の、あのドラッグパーティーに係わる事なんじゃないですか!? と言うか、絶対そうですよね?」

 妙に確信に満ちた言い方をした恭子に、浩一は興味深そうに問い返した。


「どうしてそう、言い切れる?」

「だって浩一さんが、人に後ろ指を指されるような事を、するわけが無いじゃないですか!」

 恭子は精一杯浩一に非のない事を力説したが、肝心の浩一は別な捉え方をしたらしく、自嘲気味に笑った。


「客観的に見て、やっぱり人に後ろ指を指される事だよな」

「今はそう言う事を問題にしていませんし、どちらにしても浩一さんの落ち度じゃありません!」

「自分の意志で関わった訳じゃなくても、隙を作ったのは俺の落ち度だから、これは俺なりのけじめなんだ。父には自分の事を一瞬でも恥だと思った事は無いと言って貰ったから、快く辞められたし、悔いは無い」

(どこまで融通が利かないくそ真面目な人なんだか……。お父さんが認めてくれているなら、わざわざ辞めて苦労する事無いじゃないの)

 浩一の主張に頭痛を覚えながらも、恭子は相手の意志が固いのを察して、色々言いたい事を飲み込んだ。そして半ば諦めて話を続ける。


「もう、済んだ事なんですよね。じゃあ部外者の私がどうこう言う筋合いじゃありませんし、余計な事は言わない事にします。そうすると浩一さんは、今度はグラーディンス社の東京支社にお勤めになるんですね?」

「……いや」

「浩一さん?」

 ここまでは一貫してはっきりとした物言いだった浩一が、何故かここで急に言葉を濁した為、恭子は訝しむ視線を向けた。それを受けた浩一が、さり気なく話を逸らす。


「取り敢えず食べようか。続きは食後に、お茶を飲みながらでも話すから」

「……分かりました」

(何? まだ何か、隠し事があるわけ?)

 怪訝な顔になったものの、ここで無理に問い詰めても正直に話さない様な気がした恭子は、大人しくその提案に従った。

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