第83話 恭子の疑念

 清人が浩一相手に、営業一課で罵声を浴びせてから、約一時間後。恭子は指宿で、清人からの電話を受けた。


「もしもし? 先生、真っ昼間からどうかしたんですか?」

「お前、浩一の奴から、全然話を聞いてないよな?」

「何についての話でしょうか?」

 あまりにも漠然とし過ぎるその問いかけに、恭子が無意識に眉間に皺を寄せると、清人が重々しい口調で言い出した。


「それはだな、実はあいつ、今日会社に」

「恭子さん! こんな所に居た~!」

「会長!?」

「さあ、急いで砂蒸し風呂に行きましょう! 楽しみだわ~、私初めてなのよ!」

「は、はあ……、私も初めてで、楽しみです」

 いきなり背後から腕を掴まれ、携帯の至近距離で大声で叫ばれた為、恭子は焦って携帯の集音部を手で押さえた。しかし真弓はそんな事はお構いなしに、上機嫌に話を続ける。


「うふふ、血行を改善して、美肌効果があるんですって。でもこんなしわしわおばあちゃんじゃ、効果ないかしら?」

「そんな事ありませんよ。会長は同年輩の方と比べたら、皺なんか無いに等しいですから」

「もう、相変わらずお世辞が上手いんだから!」

「あの、会長。ちょっと電話を一本かけてから行きますので、先にロビーに行っていて頂いても宜しいですか?」

「あら、そうなの? 分かったわ。すぐに来てね!」

 そして言うだけ言って、真弓が疾風の如く駆け去って行ってから、漸く恭子は携帯電話を耳に戻した。


「お待たせして、申し訳ありません。それでご用件は何でしょうか?」

 そして恭子は神妙に清人の言葉を待ったが、何故か相手は不機嫌そうに言い返してきた。


「……何かムカついたから止めた。切るぞ。それじゃあな」

「え? ちょっと、何なんですか!?」

 そして一方的に電話を切られてしまった恭子は、憤慨しつつ真弓のお供をする羽目になった。


 その電話から更に六時間後、今度は浩一が恭子の携帯に電話してきた。

「浩一さん、お疲れ様です。今日のお仕事は終わったんですか?」

「いや、残念ながらもう少しかかるんだけど、手が空いたからちょっと話しておきたい事が」

「恭子さん、見~つけた! ほら、さっさと宴会場に行くわよ! 私と一緒に、演歌メドレーして頂戴ね!?」

 昼と同様、背後から音もなく抱き付かれ、大声で迫られた為、恭子はまた慌てて携帯電話の集音部を手で押さえながら、何度も頷いた。


「は、はい! 責任を持って、とことんお付き合いさせて頂きます!」

「やっぱり恭子さんはノリが良いわ~。参加者の名前もバッチリ頭に入ってるし。私なんかうろ覚えで愛想笑いしてるから、さり気なく名前を教えて貰って助かってるわ~。ごめんなさいね? 耄碌おばあさんで」

「会長が耄碌してるなら、世の中の高齢者と呼ばれる方々の九割は痴呆老人です。ご安心下さい」

「そう? でも最近、寄る年波がねぇ」

「あ、あの、会長。ちょっと電話してから宴会場に出向いて良いですか? 暫く電話を受けたりかけたり、できないと思いますので」

「分かったわ。始まるから早く来てね~」

 そうして足取りも軽く真弓が角を曲がって姿を消してから、恭子は再び携帯電話を耳に当てて、浩一に謝罪した。


「すみません、浩一さん。会長ったら、宴会前にもう出来上がってまして……」

「ああ、うん。楽しそうで何よりだよ。頑張って。それじゃあこれで」

 何やら躊躇った挙げ句、このまま会話を終わらせる気配を察した恭子は、怪訝に思いながら電話越しに問いかけた。


「あの、何か用事があって電話してきたんじゃ無いんですか?」

「無いことも無いけど……。君が東京に戻ってからにするから」

「はあ、そうですか」

「それじゃあ、おやすみ」

「おやすみなさい」

 そして携帯をしまい込みながら、恭子は軽く顔を顰めた。


「何だったのかしら? 先生といい浩一さんといい、最近変な事ばかりしているわよね」

 そんな独り言を呟きながら、恭子は真弓が待つ宴会場へと足を向けた。

 その時感じた恭子の些細な疑念は、彼女が旅行から戻って、浩一が大きな花束を抱えて帰って来た日から、日増しに増大していった。


「ただいま」

「お帰りなさい、浩一さ……。どうしたんですか? その花束は」

「偶には良いかと思って、買って来たんだ。はい、どうぞ」

 一抱えもある、色とりどりの花を纏めて作った華やかな花束に恭子が驚いた表情になると、浩一は無造作にそれを彼女に手渡した。反射的にそれを受け取った恭子だったが、流石に怪訝な顔で問い返す。


「はぁ……、私にですか?」

「勿論、そうだけど。嫌い?」

「いえ、頂ければ嬉しいですが……」

「全然、嬉しそうじゃないけど。『結婚してくれ』って言われると思って警戒してる?」

 苦笑しながら浩一がそんな事を口にした為、恭子はこの間ほぼ忘れかけていた事を思い出した。


「……違うんですか?」

「違わない。結婚してくれる?」

「お断りします」

 幾分硬い表情で答えた恭子に、浩一は気を悪くした素振りも見せず、笑いながら軽く手を振る。


「冗談だよ。それ抜きであげるから、どうぞ」

「……ありがとうございます」

(何なの? 最近浩一さんの言動が、益々読めなくなっているんだけど……)

 そんな事を漠然と考えながら恭子は浩一を眺めていたが、彼が一度床に下ろした荷物を再度持ち上げて自室に向かおうとした所で、思わず問いを発した。


「浩一さん、今日は何だか随分荷物が多いんですね?」

 すると浩一はいつものビジネスバッグに加え、何やらそれなりに重量が有りそうな紙袋を二つ手に提げながら、軽く振り返って答える。


「ああ、いつの間にか会社で資料とかを溜め過ぎてね。少し整理しようかと思って」

「そうですか。じゃあ食事の準備をしておきますので、部屋に荷物を置いて着替えて来て下さい」

「ありがとう。頼むよ」

 そしてその姿が消えてから、再び考え込む。


(ただでさえ荷物が多い日に、どうしてわざわざこんな大きな花束を、帰り道で買って来たのかしら? 何かの記念日じゃないわよね?)

 しかし少し考えても結論が出なかった為、恭子はすぐに食事の支度に取り掛かった。

 そして最初はいつも通り、他愛の無い世間話などしながら食べ進めていたが、半分ほど食べ終えた所で、浩一が思い出した様に言い出した。


「……ああ、そうだ。恭子さん、明日からお弁当は要らないから」

「え? どうしてですか?」

 驚いて思わず箸の動きを止めた恭子に、浩一があっさりとその理由を口にする。


「これから少し勤務時間が不規則になったり、外に出る事が多くなりそうでね。予定もはっきりしていないから。その都度一々断りを入れるのも面倒かと思って」

「はあ……、そうですか」

「明日も朝は直接商談先に出向くから、遅く出て良いんだ。俺の事は起こさずに、先に出て行ってくれて構わないから」

「分かりました。そうさせて貰います」

(何か釈然としないんだけど……、嘘を吐いてるようにも見えないし)

 平然と食べ進めている浩一の様子を窺いながら、恭子は一人密かに考え込んだが、とうとうその日結論は出なかった。


 翌日、宣言通りこれまでの出勤時からは大幅に遅い時刻に起き出した浩一は、人気のないリビングに入って思わず苦笑いを漏らした。そして恭子が一応準備しておいた朝食を食べ終えて、ある所に電話を一本かけてから、手早く荷物を纏めて外出する。

 恭子には未だ話してはいないものの、昨日で柏木産業の勤務を終えた浩一は有給消化に入っており、時間を無我にする事無く、諸手続きの為に役所回りを始めた。そしてあっと言う間に午後になり、都心から少し離れた場所まで移動した浩一は、夕刻に近い時間にとある山門の前に佇んでそれを軽く見上げた。


(ここか……。本当に、もっと早くに来るべきだったな)

 少しだけ感慨に浸った浩一はその山門をくぐって境内に入り、本堂とは別に敷地の片隅に建てられている住職用の家屋の玄関で、インターフォンのボタンを押した。


「失礼します。午前中にお電話した柏木と申しますが、ご住職はいらっしゃいますか?」

「お待ちしておりました。主人から話は聞いております。どうぞ、お上がり下さい」

「失礼します」

 応対に出て来た年配の女性に会釈して、浩一は礼儀正しく上がり込み、通された先でその寺の住職に来訪の目的を伝えた。



 同日、帰宅して夕飯の支度をしながら、恭子は顔を顰めつつ前日の事を改めて考えていた。

(浩一さん、絶対何か変よね。こういう場合十中八九、裏で糸を引いているのは先生だわ)

 殆どそう確信していた恭子は、夕食の準備に目途が立ったのを幸い、気になっている事を解消すべく、携帯を取り上げて清人に電話をかけ始めた。


「先生、今お時間は大丈夫ですか?」

「まだ職場の机で、絶賛仕事中だがな。なんだ?」

 如何にも楽しそうにそう返された為、恭子は引き下がろうとした。


「……また今度にします」

「さっさと吐け。ちょうど退屈していたところだし、二度手間は面倒だ」

(全くもう……、柏木産業内で、変な噂になっても知らないわよ?)

 やんわりと脅迫された恭子は、半ばヤケになりながら質問を繰り出した。


「それではお言葉に甘えてお聞きしますが、先生は最近、絶対浩一さんに何かしましたよね? 浩一さんの様子が、何となく変なんですけど」

 その問いに笑って答えるか、はぐらかすかと思った恭子だったが、相手はその予想に反して、怪訝な口調で問い返した。


「……変とは、具体的にはどういう事だ?」

「先週、大きな花束を買って帰宅した後から、特に変なんです。妙に出勤退勤時間がずれたり、お弁当も要らなくなりましたし、いつの間にか妙に部屋の中がすっきりしていますし」

 淡々と気になっている事を恭子が列挙すると、電話越しに清人が低く唸る様に言ってきた。


「お前……、この期に及んでも、あいつから何も聞いてないって事だよな?」

「だから何をですか? どうせまた先生がろくでもない事をやらかして、浩一さんを巻き込んで尻拭いさせているんですよね? いくら親友だと言っても、物事には限度という物がありますよ!?」

「あの馬鹿……、リストラされたのを家族にひた隠しにする中年親父かよ」

 そこで清人がボソボソと疲れた様に呟いたが、あまりにも小声で不明瞭過ぎた為、恭子には聞き取れなかった。


「は? あの、今、声が小さくて聞こえなかったんですが、何と仰ったんですか?」

「やっぱり仕事中だからかけてくるな」

「え? あの、ちょっと!」

 いきなり不機嫌そうに言われたと思ったら、次には不通になった事を伝える無機質な電子音のみが聞こえた為、恭子は怒るのを通り越して面食らった。


「なんでいきなり切るわけ?」

 しかしここで終わらせてしまっては益々気になってしまう為、恭子はすぐに再度事情を知っていそうな人間に、電話をかけ直す事にした。


「真澄さん、今お時間は大丈夫ですか?」

 神妙に都合を尋ねると、電話越しに真澄の楽しそうな声が伝わってくる。

「ええ。今ちょうど子供達を父と母に渡したところ。二人がデレデレ顔で面倒を見てくれている間に、ちょっとのんびりしようと思っていたところだから大丈夫よ」

「良かったです。ちょっと聞いて頂きたい事があるんですが」

「あら、なあに? 遠慮なく言ってみて?」

「実はですね……」

 機嫌良く応じてくれた事に恭子は安堵しながら、先週からの浩一に対する違和感と、先程の清人の対応について一通り述べた。その間真澄は黙って聞いてくれていた為、話を終わらせた恭子が意見を求める。


「……という訳なんです。先生ったら何も言わずに電話を切るし、よほど後ろ暗い事があるんじゃないかと思うんですけど、真澄さんは何かご存じではないですか?」

 その問いかけに、真澄はすこぶる真面目な口調で返した。


「恭子さん……」

「はい、何でしょうか?」

「第三者的立場からすると、浩一を殴り倒すべき所なんだろうけど……。私、自分が思っていた以上に、姉馬鹿だったみたいなの」

「はい?」

 言われた意味が分からずに、思わず間抜けな声を上げた恭子だったが、真澄はそれには構わずに淡々と落ち着き払った口調で続ける。


「これは本人が自力で何とかするべき問題だし、甘過ぎると思われそうだけど、浩一なら十分できると思っているわ。そういう訳だから、この話はここで終わりと言う事で。それじゃあね」

「いえ、あの、終わりと言われましても、真澄さん!?」

 そこでいきなり話を打ち切られてしまった恭子は慌てて呼びかけたが、先程の清人の時と同様、携帯からは無機質な電子音が伝わってくるのみだった。


「……どうなってるわけ?」

 普段の真澄らしくない反応に恭子は本気で首を捻ったが、ここで浩一が帰宅した為に慌てて料理の仕上げを済ませ、手早く料理を並べた。

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