第30話 傍迷惑なランチタイム

 昼時になり、次第に気が重くなりながら仕事をしていた浩一だったが、営業部内の空気がざわついたと感じたと同時に、その原因に心当たりがあった為、ゆっくりと顔を上げた。すると予想に違わず清人が自分の机に向かって真っ直ぐ歩いて来ており、思わず溜め息を吐き出す。

 一方の清人は、営業部内の疑惑と敵意と嫉妬の眼差しを全身に受けながらも、飄々と浩一の机までやって来て能天気に告げた。


「やあ、浩一。迎えに来たぞ」

 その宣言に浩一は仕事の続行を諦め、立ち上がりながら、斜め前の席に座る鶴田に声をかける。


「鶴田さん、社員食堂に行って来ます」

「……分かりました」

 真澄の結婚は祝福したものの、真澄の産休中の課長職代行としてその夫が職場に乗り込んで来た事に関してかなり複雑な心境であろう鶴田が、二人を交互に見やりながら引き攣り気味の顔で頷く。それを確認して、浩一は清人と社員食堂に向かって歩き出した。


「どうしてわざわざ、俺の職場まで呼びに来る? 食堂で待ち合わせすれば良いだろうが」

 朝一で携帯に送信されてきた「昼を一緒に食いたいから迎えに行く」とのメールに返信した内容を浩一が再度嫌味っぽく口にしたが、清人はどこ吹く風で言い返した。


「営業一課の皆さんの、御尊顔を拝しに」

「絶対、嫌がらせの一環だろう?」

「お前、俺をどんな人間だと思っているんだ」

 廊下を並んで歩きながら苦笑した清人に、若干周りの人目を気にしながら、浩一がさらりと告げる。


「しかし入社早々顔を見せに来るかと思っていたのに、全然ちょっかいを出して来なかったな。半月経ってからとは意外だった」

「これまで引き継ぎ内容の確認や、各方面の挨拶周りで忙しかったからな」

「それなら少しは落ち着いたらしいな」

(真面目に仕事はしていたんだな。こいつの事だから、あまり心配はしていなかったが)

 幾ら有能だとしても、初めてのサラリーマン生活で色々苦労しているだろうと、エレベーターを待ちながら浩一は清人を思いやったが、当の本人は真剣な顔付きのまま、些か不穏な発言を繰り出した。


「その他に……、『百聞は一見に如かず』と言うのは真理だな」

「何の事だ?」

「これまでお前や城崎達から柏木産業の内情を色々聞いてはいたが、真澄が戻るまでにどこを潰してどこを取り込んでおけば良いのか、この半月で大体把握できた」

(前言撤回。社内抗争の種を拾ってないで、真面目に仕事だけしてろ! この姉さん馬鹿が!!)

 さすがに自分達と同様にエレベーターを待っている社員達の目を気にしてか、清人は自分にだけ聞こえる声量で囁いてきたが、そんな事は浩一にとって、何の慰めにもならなかった。


 それからは世間話をしながら移動し、食堂で注文した日替わり定食を受け取った二人は、食堂中から好奇心に満ちた視線を浴びながら、空いている席を探して向かい合わせに座った。そして周囲からの視線を無視しながら箸を付けて食べ始めると、何を思ったか清人が突然小さく笑う。

「しかし、懐かしいな。お前とこういう雰囲気の中で食べるのは大学以来だ」

 そんな事を言われた浩一は、思わず苦笑しながら同意した。


「確かにそうだな。最初の頃は、昼時に纏わり付かれて閉口したっけ」

「週一のペースで弁当持参で、立入禁止の芝生で食べてたよな」

「未だに謎なんだが、あの時、どうやってあの五月蝿い事務長を丸め込んだんだ?」

「謎は、謎のままにしておこう」

「何だそれは」

 軽口を叩きながら、浩一が清人と共有している学生時代の記憶を思い返していると、ふとその日の朝の光景が脳裏に浮かんだ。


「弁当か……」

 そう呟いたきり、口と手の動きを止めて何やら考え込んだ浩一を不審に思い、清人が理由を尋てくる。

「うん? 弁当がどうかしたのか? 浩一」

「いや、恭子さんがほぼ毎日お弁当を作って職場に持参しているのを、話の流れで何となく思い出しただけだ」

「弁当?」

 それを聞いた清人は益々怪訝な顔になり、浩一同様食事を中断して考えを巡らせ始めた。


「それは盲点だったな。家に来る時は冷蔵庫の食材で勝手に昼飯を作ってたし。そうか。会社勤めをするなら、あの性格なら作るよな……。だが……」

 そこで清人が呟くのを止め、真剣な表情で自分を見詰めてきた為、浩一は内心たじろいだ。長い付き合いで、一見真面目に見えているその表情の裏で、何かろくでもない事を考えている気配を察知したからである。


「……どうかしたのか?」

 あまり尋ねたくは無かったが、黙ったまま凝視されるのも嫌な為声をかけると、清人は予想に反してあっさりと弁当に関する話を終わらせた。


「何でもない。さっさと食うぞ。課長がのろのろ食ってたら部下に示しが付かない」

「誰のせいだ、誰の!」

(何か嫌な予感がする。さっきのあの顔、何かろくでもない事を考えていた気が……)

 そうして多少腹を立てながら浩一は食事を再開したが、その時感じた懸念は、二日後に現実の物となった。


 その日、正午を過ぎても手を付けていた仕事に目処が付かず、多少苛々していた浩一の机で、内戦の呼び出し音が鳴り響いた。その受話器をすかさず取り上げた浩一は、不機嫌さなど微塵も感じられない口調で対応する。


「はい、営業一課柏木です。……は? 食堂ですか? 失礼しました。どういったご用件でしょうか? ……はい?」

 浩一の声が裏返り、周りの者達が反射的に課長席に視線を向ける中、浩一のこめかみに青筋が徐々に浮かび上がる。

「……分かりました、今すぐ向かいます。ご迷惑おかけしました」

 そうして通話を終わらせた浩一は、椅子から静かに立ち上がりながら、押し殺した声で係長の鶴田にこの場を不在にする旨を告げた。


「鶴田さん、ちょっと社員食堂に行ってきます」

「……はい、了解しました」

 怒りのオーラを醸し出している浩一を、鶴田は下手に引き止める真似はせず見送り、浩一は(全く、何を考えてやがるんだ。あのバカップル夫婦がっ!?)と姉夫婦に対する悪口雑言を心の中で叫びながら、社員食堂に急行した。

 その頃、清人と真澄は食堂のほぼ中央のテーブルに並んで座り、目の前に重箱を広げながら、仲睦まじく昼食を食べていた。


「真澄、次は何を食べたい?」

「その白和えが良いわ」

「ほら、口開けて。あ~ん」

 一つのテーブルを占拠し、持参した弁当の中身を恥ずかしげも無く箸で食べさせ合っている夫婦を、誰も咎め立てる者はいなかった。それ以前に密かに鬼課長と社内で恐れられていた真澄の、従来からは想像もできない姿を目の当たりにして、殆どの社員がドン引きしていた。


「やっぱり中村さんが作った物より、清人が作った物の方が断然美味しいわ。家だと誰が聞いているか分からないから、こんな事正直に言えないけど」

「それは嬉しいな。作った甲斐があった」

 互いに満面の笑みで感想を述べ合ってから、今度は真澄が里芋の煮っ転がしを箸で摘まんで清人の口元に持っていく。


「はい、じゃあ今度は私が食べさせてあげる。あ~ん」

 それに素直に口を開けて食べさせて貰い、咀嚼してから清人は満足そうに言った。

「ああ、やっぱり上手いな。一人で食べると味気なくて。こうやって食べさせて貰うのとは、雲泥の差」

「公衆の面前で何をやってる、このバカップルが」

 唐突に冷え冷えとした声が真澄と清人の頭上からかけられ、振り仰いだ二人は怒りに打ち震えている弟の姿を認め、それぞれ反応した。


「あら浩一、お疲れ様。一緒に食べる? 沢山あるから遠慮しないで?」

「真澄……、せっかく夫婦水入らずで食べていたのに、お邪魔虫を呼び込むな」

「清人、そんな事言わないで。浩一と仲良くして? お願い」

「仕方がない。真澄のたっての願いだ。交ぜてやるからそこに座れ」

 真澄が笑って夫を宥め、清人が如何にも不承不承といった感じで反対側の空いている席を指差した為、怒りが振り切れた浩一は盛大に叱り付けた。


「結構だ! それよりどうして社員食堂で堂々と弁当を広げて食ってるんだ! ここは調理場で作った物を食う場だろう! 百歩譲って閑散としている時には持ち込んで食べても良いかもしれんが、昼時にそれは止めろ! 更に周囲がドン引きする様なイチャイチャぶりを披露するな! 皆近寄りたく無くて、不自然に周りの席が空いて居るだろうが!?」

「座りたければ座れば良いだろう」

「絶対お前、姉さんの近くに座ろうとする男を睨み付けて排除した筈だ。惚けるな!!」

(その通りです、浩一課長!)

(本当に、あの所構わずのいちゃつきっぷりは公害だよな)

(柏木課長、産休に入ったら性格変わったか?)

 鋭く指摘した浩一に、食堂で事の成り行きを見守っていた社員たちが、心の中で喝采を送った。


「食事中だが、さっさと企画推進部の部屋に行って、そこの応接セットで飯を食え」

 取り敢えずそこなら被害は軽微だと思った浩一が指示したが、清人が腹立ち紛れに反論してきた。


「昨日そこで食べたら、城崎が激怒してな。最後まで食べさせては貰ったんだが、『二度目は許しません。そのお手製弁当を廊下にぶちまけますよ?』と俺に向かって、悪態を吐きやがった」

「あの城崎が、そこまで言うなんて……。お前昨日、何をやった。それに、お前が弁当を作ったと言ったか?」

「真澄に喜んで貰いたくて、昨日と今日と五時起きして作った。中村さんの作った物より美味いと、真澄に言って貰えたぞ?」

(そんなに本気で嬉しそうな顔をするな……。それに姉さん、一人で黙々と食べないでくれないか?)

 お抱えシェフの料理より美味いと言って貰ったと自慢げに報告する清人の横で、真澄がマイペースで美味しそうに食事を続行しているのを見て、浩一は軽く脱力した。しかしなんとか気を取り直して話を続ける。


「とにかく、イチャイチャするなら家で」

「最近帰りが遅くてな。真澄とスキンシップ出来ないから、せめて昼飯でも一緒に食べようと思っただけだ。それのどこが悪い」

「その……、清人が私に『七時に食べて九時に寝ろ』と厳命しているから、平日は下手すると顔を合わせない日もあって。清人が拗ねているから……、あの、ごめんなさい」

 開き直った清人の横で、流石に悪いと思ったのか真澄が頭を下げた。それを見た二人がそれぞれ真澄に言い聞かせる。


「姉さん、清人を甘やかすな」

「真澄、お前が謝る事は無い」

 そうして清人と軽く睨み合ってから、浩一は壁際に歩いて行き、そこに設置されている内線の受話器を取り上げた。そして何やら話してから一分程で問題のテーブルに戻る。


「良いか? 二度は言わん。第五会議室を今から一時間使わせて貰う事にした。総務に鍵を開けて貰うからさっさと行って、そこで食べろ」

 そう厳命した浩一に清人は軽く肩を竦め、重箱を重ねて手早く風呂敷に纏め始めた。


「分かった。融通の利かない奴」

「えっと、ごめんなさいね、浩一」

「もうどうでも良いから、早く行って」

 うんざりとした表情で姉夫婦を追い払うと、食堂内にほっとした空気が流れ、普段の喧騒が戻ってきた。それに安堵しながら、浩一はカウンターに歩み寄り、その向こうから心配そうに眺めていた調理部の面々に軽く頭を下げた。


「姉夫婦が、ご迷惑をおかけしました」

 二人に代わってそう謝罪した浩一に、白い制服に身を包んだ女性達が苦笑いしながら口々に言ってきた。


「いえ、単に眺めている分には、微笑ましいんですけどね」

「何か段々、食堂内の空気が悪くなってきて」

「最近彼女と別れたって噂がある人が、涙目で食事の途中で出て行きましたし」

「密かに柏木課長の事を好きだったらしい人達が、険悪な表情で睨み始めてましたので」

「……二度と弁当持参で、夫婦で来ない様に言い聞かせておきます。それでは失礼します」

「ご苦労様でした」

(全く、何を考えてやがる。姉さんも姉さんだ)

 激しい疲労感を覚えつつ再度頭を下げて食堂を後にした浩一は、心の中で盛大に悪態を吐きつつ職場へと戻ったが、騒動はこれだけでは終わらなかった。


「はい、営業一課柏木です。……はい、受付に誰か来客ですか? ……え?」

 翌日。前日と同様に昼時に受付からの内線を受けた浩一は、話を聞くとすぐに怒気を露わにして立ち上がった。


「……分かりました。直ちに向かいます」

 短く告げて受話器を戻すと、鶴田の横をすり抜けざま短く告げてそのまま部屋を出る。


「鶴田さん……、ちょっと受付まで行ってきます」

「はい、分かりました」

 大人しく応じた鶴田の声を背中で聞き、浩一は無言のまま一階ロビーへと急いだ。そして目にした光景に、浩一は本気で眩暈を覚えた。

 書面玄関の真正面に位置する所にレジャーシートを敷き、キャンプ用の小さな折り畳みテーブルと椅子を一脚設置した清人は、テーブルに前日同様弁当を広げ、自分の膝に真澄を横抱きにして甲斐甲斐しく食べさせているという状況だった。外に食べに行ったり商談先から戻ってきた社員が、二人を目にして一瞬固まってから遠巻きにしつつ通り過ぎて行き、流石に気恥ずかしい真澄が、清人の耳元で囁く。


「ちょっと清人。やっぱりこれだと不安定だし、くっ付き過ぎて恥ずかしいのよ」

「まあまあ、これも浩一の為だし、我慢して頑張ってくれ」

「でも、こんな事をしなくても、恭子さんに直接お願いすればやって貰えるでしょう?」

「それはそうだが、浩一に見せ付けるのも目的の一つだからな」

「頭では分かっているけど……、こんな知り合いばかりの所で」

「清人!」

「ほら、おいでなすった」

 ぐずぐずと抵抗していた真澄だったが、清人に促されて口を閉ざした。その間にロビーに響き渡る大声で叱責してきた浩一が、乱暴な足取りで二人の前にやって来た。


「浩一、そんなに俺の飯が食いたいのか? それなら分けてやるから、靴を脱いでそこに座れ」

「要らん! ロビーで何をやってるんだお前は? ここはピクニックをする場所じゃないぞ!?」

 盛大に叱り付けた浩一だったが、清人は真顔で弁解してきた。


「さすがに毎日会議室を私用で借りるのは気が咎めてな。ロビーの椅子に座って食べようと思ったら、受付から『ソファーが汚れる可能性がありますので、ここでのご飲食はお控え下さい』と言われたんだ。だから応接セットの所は止めて、床で食べる事にした」

 悪びれなく言った清人に、浩一の顔が盛大に引き攣る。


「彼女達は応接セット云々では無くて、ロビーでの飲食を控えて欲しいと言ったつもりだと思うんだが?」

「はっきり言わない向こうが悪い。しかしそんな事もあろうかとレジャーシートとキャンプセットを持って来ていたからな。椅子は一脚だが真澄を抱えて座れば問題ないし、ここで食べてたんだが。何か問題でも?」

 しれっと言い切った清人を、浩一は力一杯叱り付けた。


「問題有り過ぎだ、このど阿呆が!! 来社した客に間抜け面晒すな! 今すぐ社長室に行け! あそこなら迷惑を被るのはたった一人だ。馬鹿な社員の尻拭いは、トップ自らやって貰うのが筋だからな!」

「分かった。五月蝿い奴だな、全く」

「え、えっと……、お父様の所?」

 流石にどうかと思った真澄が恐る恐る口を挟んだが、浩一の冷たい視線が降ってきた。


「……姉さん。何か文句でも?」

「いえ、何でもありません」

 清人の腕の中で小さくなった姉から視線を外し、浩一はまっすぐ受付へと向かった。そして恐縮して頭を下げてくる受付嬢を宥めつつ、内線の受話器を取り上げて、旧知の人物に話を持ちかける。


「大江さん? 浩一ですが。社長室に今来客は? ……それなら、これから一時間の来客の予定はありますか? ……良かった。これから馬鹿夫婦が一組行くので、中で昼飯を食べさせて下さい。茶を所望されても出がらしで構いませんから。宜しくお願いします」

 そうして社長秘書と話をつけた浩一は、手荷物を纏め終わった姉夫婦に向けて、追い払う様に片手を振った。


「とっとと行け」

「はいはい」

 そして真澄の腰に手を回してエスコートしつつ、大きな荷物を片手に持って歩き去っていく清人の姿を、浩一は疲労感一杯で見送った。

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