第29話 戸惑い

 浩一に指示されてから、きっかり十分後。恭子は支度を終えて浩一と共に一路、水族館へと向かった。その車内で、恭子は困惑しながら運転席の浩一を見やる。しかし浩一は一見それほど不機嫌そうにも見えず、時折話題を出しては恭子と他愛もない会話を交わしていた。


(何か浩一さん、常には無い強引さなんだけど……、職場で何かストレスでも溜まっているのかしら? 何か先生がやらかしている気がして、しょうがないわ)

 心底うんざりとしながら浩一に同情しているうちに目的地へと到着し、駐車場から入口に進むと、当然の様に浩一が窓口で支払いを済ませた。そして入場券を見せて二人揃って館内に入ると、浩一が手にしていたパンフレットの片方を恭子に手渡す。


「はい、恭子さんのパンフレット」

「ありがとうございます」

 恭子がそれを受け取ると、浩一は自分の分を開いて見せ、ある場所を指差しながら恭子に告げた。


「それじゃあ、俺はここに居るから。恭子さんが気が済むだけ見たら、声をかけて。どこかで遅めの昼食を食べて帰ろう」

「え? あの、浩一さんは?」

 てっきり一緒に見て回るものと思っていた恭子は、思わず戸惑った声を出した。しかし浩一は淡々と理由を告げる。


「休日に必要が無ければわざわざ男性と出掛けたりしないし、ここには一人で来たかったんだろう? 邪魔はしないから、俺の事は気にせず好きなだけ見てきて良いよ」

「でも……」

「帰りに食べて行くって言うのは、マンションまで帰って作ったらかなり遅くなってしまうから、合理的だろう? 勿論、俺が言い出した事だから、今日は俺が全額支払うから。じゃあ、そういう事で。何かあったらメールで連絡。分かったね?」

「分かりました、けど……」

 真顔で言い聞かせてきた浩一に、何となく逆らう気を無くして頷くと、浩一は満足そうに微笑して、颯爽と踵を返した。


「あの、ちょっと、浩一さん!?」

 そのままどこかへ歩き出した浩一を引き止めようとしたが、それなりの人出の館内をすり抜けて行った浩一は、瞬く間に人波に隠れて見えなくなった。


「本当に、行っちゃった……」

(普通、一緒に回って見るわよね? 水族館の類はこれまでにも何回か付き合いで行った事はあるけど、放置されたのは初めてだわ……)

 呆然とそんな事を考えてから、恭子は小さく頭を振った。


「こんな所で考えていても仕方がないか。お愛想笑いを続けたり無難な会話を気にする必要は無いし、今日は遠慮無く見て回ろうっと」

 そう呟いて心なしか機嫌良く歩き出した恭子は、すぐに現実の世界を忘れて、水槽の中の生物に見入った。


「……綺麗ね」

 色とりどりの熱帯魚、大水槽での鰯の群れの乱舞、間接照明で浮かび上がるくらげの浮遊などを次々を眺めているうちに、素直に感嘆の言葉が漏れる。それと同時に、狭い空間で完結している魚達について思いを巡らせた。


(自分の世界がこんな小さな箱の中って、理解できているのかしら?)

 そして照明を落としてあるエリアで、暗い水槽のガラスにぼんやりと映り込んだ自分の顔を、静かに凝視する。


(ガラス越しに人間の顔が、見えているのかしら? 見えていてもどうしようもないし、気にしなくなっているとは思うけど)

 そして何となく、ほの暗い水槽のガラスに手を触れてみた恭子は、そのひんやりとした感覚に、思わず自嘲気味の笑いを漏らした。


(ここから出る時は死ぬ時か。でも自分が捕らわれの身だなんて分からなければ、それでも幸せなんでしょうね。食べるのに困らないし、外敵は居ないし。ある意味楽園か)

 その時、そんな恭子の暗い考えを打ち消す様に、館内放送が間もなくイルカのショーが始まる旨を告げてきた。それを受けて大抵の者は会場となるプールに向けて歩き出し、その流れに逆らう気は起きなかった恭子も、「せっかくだから、見て行こうかな」などと呟きながらプールに向かう。

 そして階段を上り、観客席の上方から空席を探して一段ずつ下りた恭子は、客層を見て内心僅かに怯んだ。


(さすがにちょっと一人って目立つかも。休日だし、大抵は家族連れやカップルよね。女の子同士で来てる組も、それなりに居るけど)

 そんな事を思ったものの、恭子はちょうど一人分空いていた所に腰を下ろし、子供達の歓声と共に始まったイルカショーを楽しむ事に専念した。

 しかし終盤に差し掛かった所で、ふとある事に気付く。


(そう言えば……、浩一さんが居る場所って、この真下だわ)

 何気なくパンフレットの館内案内図に目を落とした恭子は、観客席の階下にプールの中を観察できる空間が設置されており、そこが浩一が指差した場所だと思い出した。


(動かずに、ずっとそこに居るつもりかしら? 私とは別行動で、見て回ったりとかは……)

 今まですっかり存在自体を忘れていた事で引け目を感じ、どうしても気になってしまった恭子は、「ちょっと行って来よう」などと呟きつつ立ち上がり、観客席を後にした。


 一度観客席の階段を上り切って館内へと戻り、そこの階段を二階分下りて進むと、突き当たりの広い空間の正面に縦2メートル、横10メートル程の耐圧ガラスがはめ込まれた壁があった。その前に整然と並んでいるベンチが幾つかあり、ショーの最中でそこに座っている人影はまばらだったが、その一つに浩一が座っており、その背中を見つけて安堵すると共に、些か申し訳ない気持ちに陥る。


(本当に居た……、やっぱりずっとここに居たのかしら?)

 そうして少し距離を取りつつ浩一の真横に来た時、浩一の横顔を目にした恭子は思わず足を止めた。

 浩一は微動だにせず、正面のガラスの向こうを時折勢い良く横切ったり、潜って反転したりしているイルカを無言で見つめていたが、その顔からは綺麗に表情が抜け落ちており、作り物めいた雰囲気を醸し出していた。思わず(自殺志願者か、その一歩手前みたい)と考えてしまった恭子は、(それって浩一さんに失礼でしょう!)と自分自身を叱責して何とか動揺を抑える。


 咄嗟にどうすれば良いか分からず、そのまま少し固まっていた恭子だったが、浩一が自分に全く気付く素振りを見せ無い為、足音を立てずに進んで静かに浩一の隣に座った。すると無言で隣にやって来た恭子に、浩一は僅かに驚いた視線を向ける。


「あれ? もう見終わった? 今、プールでイルカのショーをやってるから、まだ上で見ているかと思ったんだけど」

「ええ、見ていたんですけど、もう良いかなって……。浩一さんはずっとここに居たんですか?」

「居たけど。それがどうかした?」

 不思議そうに問い返した浩一に、恭子はわけもなく苛つきながら言葉を返した。


「せっかく水族館に来たんですから、少し位見て回っても良いと思いますけど。私も好き勝手に見てましたし」

「途中で俺と出くわしたら、気分を削がれるだろう? せっかく一人で気分良く見てるのに」

(確かに話を出した時は、一人で行くならって前提だったけど、何もそこまで杓子定規に考えなくても……)

 そうは思ったものの、浩一なりに気を遣ってくれたのは分かっていた恭子は、文句は言わずに話を変えた。


「……でも、ここでずっと待ってるなんて、退屈じゃありません?」

「そんなに退屈はしてなかった。イルカが泳いでるのは見えるし、水面とガラス越しに日光が差し込む事で、水に生じる微妙な色調の変化を見ていると、何となく落ち着く」

「そうですか……」

 それ以上強く言う事もできず、何となく恭子も正面に向き直り、無言で薄水色のガラスの向こうを眺めた。すると潜っているイルカの動きがゆっくりとした物になり、それと同時に背後の方に喧騒が戻ってくる。


「ああ、ショーが終わった様だね。じゃあ恭子さんも見終わったみたいだし、そろそろ出て帰ろうか」

 そう言って浩一が笑顔で立ち上がったが、恭子も続いて立ち上がりながらその腕を掴んだ。


「あの! ちょっと待って下さい!」

「何? まだ見ていない物が有ったなら、待っているから行ってきて」

 恭子が掴んでいる手を見下ろしつつ、内心の動揺を押し隠した浩一だったが、恭子は幾分強めの口調で話を続けた。


「そうじゃなくて、次回のイルカのショーは、スケジュールでは二時間後なんです」

「もう一回見たいの? 俺は構わないよ?」

「それはそうなんですけど、今度は一緒に見ましょう」

「……どうして?」

 完全に意表を衝かれた浩一が戸惑った声で尋ねると、恭子は多少言い淀んでから、それらしい主張を繰り出した。


「どうして、って……、ここまで来て、何も見ないで帰るのって、勿体ないですし魚達に失礼ですよ?」

「そうかな? 俺は別に」

「そうなんです! 入場券を見せれば再入館出来ますから、隣接するレストランで食べて、もう一度入って一通り見てからプールに行けば、ちょうどショーが始まる時間位になりますから。そうしましょう!」

 真剣な顔で提案してきた内容に、まだ少し心配そうに浩一が確認を入れる。


「俺が一緒に回ったら、嫌じゃない?」

「別に構いません」

 恭子が力強く断言すると、浩一は嬉しそうに顔を綻ばせた。


「そうか。じゃあそうさせて貰おうかな」

「それならさっさと移動しますよ? 休日ですし、レストランも混みそうですから」

「そうだね」

 そうして恭子は浩一の腕から手を放して出入り口へと進み、浩一は苦笑しながら左腕の恭子が掴んでいた場所を軽くさすってから、いつもの顔で後に続いた。


(どうして一緒に見ましょうなんて、言っちゃったんだろう。放って置かれた方が気楽じゃない。……そうじゃなくて、この場合、私が浩一さんを置き去りにして、自分だけ楽しんでいるみたいで、気が咎めるわよ。本当に纏わりつかれるのが嫌だったら、大人しくここまで付いて来ないから。それ位、分かって欲しいんだけど)

 自分でも何故あんな提案をしてしまったのか分からないまま、恭子はそれを誤魔化す様、浩一に対して八つ当たり気味の事を考えたが、結局最後まで本人に向かって、その内容を口にする事はなかった。

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