第11話 レースの手袋
「そうですか。それなら良いんですが。そう言えば柏木産業内では、浩一さんが『姉が理想で、他の女性に興味が持てなくて男に走った』という噂が密かに流れていて、真澄さんの結婚を期に『男と女のどちらに転ぶか』という内容の賭けがされているとか」
「ぅぐはっ!! げふっ、ん、ぐっ!!」
「浩一さん!? 大丈夫ですか!?」
噴き出しかけて味噌汁が変な所に入った浩一が、慌てて汁椀をテーブルに置いて口を押さえつつ呻いた為、恭子は顔色を変えて椅子から立ち上がった。しかしそれを浩一は手で制してから、何とか喉を普通の状態に戻し、息を整えて恭子を問い質す。
「恭子さんっ!! なんですかさっきの話は! そんな馬鹿な話、一体誰から聞いたんですか?」
「営業一課の鶴田さんからです。あの……、本当に大丈夫ですか?」
顔色が悪いのはむせたせいかと本気で心配しているらしい恭子とは裏腹に、予想外の名前を聞いた浩一は軽く目を見開き、疑わしそうに尋ね返した。
「は? あの……、一課の鶴田さんって、まさか鶴田係長の事?」
「はい。でも鶴田さんはその話をした時、『あまりにも馬鹿馬鹿しいので、本人の耳には入れてない』と、お冠でした。やっぱり管理職の方だと、不用意に騒ぎ立てたりしないんですね」
そこでしみじみと頷いた恭子に、浩一は取り敢えず順序立てて尋ねてみる事にした。
「……どういう知り合いなのか、聞いても良い?」
「二年位前に、カルチャーセンターの同じ教室に通って以来の友人なんです」
「カルチャーセンター……。彼と恭子さんに共通する趣味とか無さそうだけど、何?」
(何かスポーツ系か? 全然イメージが湧かないんだが……)
些細な事にも目配りがきき、仕事でも先見の明があり日々自分を支えてくれている、自分より年上のありがたい直属の部下の姿を脳裏に思い描いた浩一だったが、「『鶴田』ではなく『熊田』が似合いだ」と陰口を叩かれている程体格が良く、いかつい顔つきの彼が嗜むスポーツのイメージと言えば、テニス等ではなく柔道などの格闘系と間違いなく十人中十人が答えるであろうむくつけき男であり、浩一の困惑度は深まった。そして何気ない恭子の答えに、浩一の思考が完全に停止する。
「レース編みです。先生に『この教室に通って三ヶ月でショール編みまでマスターしてこい』という指令でしたが、鶴田さんはそこに、純粋に趣味で通っていました」
「…………レース?」
浩一は殆ど無意識に声を発したが、恭子は浩一の戸惑いには気が付かないまま、淡々と説明を続けた。
「はい。でも鶴田さん、玄人はだしなんですよ? カルチャーセンターでの講習を終えたら、その講師の方が自分で主催している教室に私達二人を誘って下さって、もっと複雑な編み方とかを教えて貰う様になったんです。そこで毎週日曜に各自の作品を持ち寄っての、先生主催の茶話会があって、鶴田さんはほぼ毎回参加しています。私は月一回位ですが」
「そう、ですか……」
「さっきの噂も、そこで鶴田さんが個人名を伏せて『こういう無責任な噂を流す輩が多くて困る』と愚痴っぽい事を零していて、周りの女性達が『有名商社勤めのエリートさんも大変ねぇ』としみじみ同情していたのを小耳に挟んだだけですから。鶴田さんは無責任に噂をばら撒く様な人じゃありませんから、心配いらないですよ?」
「ええ、良く分かってます……」
辛うじて引き攣った笑顔で頷いた浩一だったが、内心ではテーブルに突っ伏したいのを、懸命に堪えていた。
(あの鶴田さんがレース編み……。見た目で人を判断するつもりは無いが。いや、それより清人の指令で教室に通ったら鶴田さんと知り合ったって……、しかもそれが俺と鶴田さんの課長係長就任前後の時期って怪し過ぎる。柏木産業の内部情報、特に一課のあれこれを、彼と彼女経由で引き出していたとか言わないよな!?)
驚愕が一応収まると、益々人間不信に拍車がかかりそうな心境に陥っていた浩一に、ここで思い出した様に恭子が声をかけてきた。
「ああ、そう言えば鶴田さんに頼まれてたんだわ。良かった、思い出して。浩一さん、お願いがあるんですが」
「何かな? 遠慮なく言ってみて?」
「鶴田さんと真澄さんがさり気なく、余人を気にせず会う機会を設けて貰えません? 鶴田さん、ずっと前から真澄さんの事が好きだったんですよ。それで私が街で真澄さんと一緒の所を見られて以来、時々茶話会の時に真澄さんについて話をする様になったんですが」
その恭子の驚愕の打ち明け話に、再度浩一の思考が止まった。そしておうむ返しに問い返す。
「……鶴田さんが、姉さんの事を?」
「やっぱり職場では悟らせない様にしてたんですよね。いじらしいですよねぇ、貰い泣きしそうです。真澄さんったらどうせなら先生じゃなくて、ああいう人を好きになれば良かったのに…………。あ、浩一さん、今の話オフレコでお願いします。こんなのが先生の耳に入ったら瞬殺されますので」
目元を押さえ、しみじみとした口調で零してから一転、恭子が鬼気迫る表情で懇願してきた為、それに疲労感を倍増させられながらも、浩一は控え目に軌道修正を図った。
「恭子さん……、ごめん。話を続けてくれるかな?」
「すみません。鶴田さんは、真澄さんが営業三課時代の先輩に当たるんですよね。実はその頃から、真澄さんの事が好きだったみたいです」
「そういう話は、ついぞ聞いた事が無かったんだが」
半ば呆然としながら口を挟んだ浩一に、恭子が如何にも残念そうに応じる。
「真澄さんは社長令嬢で美人の上、仕事も出来ますから、大抵の男の人は尻込みするんですよねぇ。それで寄って来るのは勘違い自惚れ野郎ばかりになって、益々真澄さんの男を見る目が厳しくなるし。鶴田さんも『俺と彼女じゃまさに《美女と野獣》だから』と苦笑いしていました」
「そうなんだ……」
「それで『柏木が付き合う相手がどれも長続きしていないらしいが、ひょっとしたら他に好きな男がいるんじゃないか?』と真顔で聞かれて、どうしようかと思いましたよ」
「清人の事を話したの?」
浩一がつい興味をそそられて聞いてみた途端、恭子は苦々しい顔付きになって応じた。
「性格極悪の守銭奴だなんて、正直に言えませんよ。血を見るじゃないですか……。だから鶴田さんには気の毒でしたけど、すっぱり諦めて貰うために『顔良し頭良し稼ぎ良しの、真澄さんが以前から好きな人が居るんですが、真澄さんの方が年上だし色々あって付き合うまでいってないみたいです』と去年教えてあげました。そしたら『そうか』と納得してくれたんですけど……」
「そんな事があったんだ……」
(鶴田さん……。今までそんな事、微塵も感じさせなかったな……)
なんとなく居心地悪くしていると、恭子が溜め息を一つ吐いてから続けた。
「それで、真澄さんが電撃入籍を社内に公表した日の夜、呼び出しを受けて出向いたら鶴田さんに号泣されて、仕方がないので店を三軒ハシゴして飲みまくって、朝の三時まで付き合ったんですよ。最後は『今日も仕事ですよね? 二日酔いで休むなんていい加減な事をする人は、真澄さんは嫌いですよ?』と言い聞かせて、帰宅させました。後からお礼とお詫びの電話が来ましたが、ちゃんと普通に出社したみたいですね」
「ああ、普通……、だった筈。変だったら記憶に残っていると思うし。悪い。その節は、部下が世話をかけたみたいで」
思わず浩一が軽く頭を下げると、頷いた恭子が話を続けた。
「その後、鶴田さんが気持ちを切り替えて『柏木に結婚祝いを贈りたいから協力して欲しい』と言われて、私が理由を伏せてカラオケボックスで速乾性の特殊樹脂で真澄さんの両手の型を取って、石膏で真澄さんの手を作って、鶴田さんに渡したんです」
「は? 両手を作ったって……、どうしてそんな物を?」
「実際に実物があった方が、よりフィットする物が作れると思ったもので。駄目もとで真澄さんに聞いてみたら『良いわよ? その代わり片手ずつ型を取って、両手を作り終えるまで私だけ歌わせて』という条件で快く作らせて貰いましたし。鶴田さんはそれのサイズに合わせて、三ヶ月かけて素敵なレースの手袋を編んだんです。写メールで見ましたが、気合いの入った力作ですよ?」
(そう言えば、実は二人がカラオケ仲間だったと清人が言ってたな。しかし、手の型を取るのも、それを元に作品を作るのもどうかと思うが……、そもそも姉さんはどうして両手の型を取るなんて言われて、怪しんだりしないで平然と作らせているんだ!?)
そこで真澄に対して、かなり本気で腹を立て始めた浩一に気付かないまま、恭子が話の核心に触れる。
「それなのに鶴田さんが『川島さんから柏木に渡してくれないだろうか』なんて言い出すから、『こういう物は直接渡さなきゃ駄目です』って叱りつけたんです。どう思います? やっぱりちょっと情けないですよね?」
若干腹を立てている様な口調で同意を求められた浩一は、些か気まずい思いで鶴田を庇った。
「……まあ、人それぞれだし。堂々と渡せるなら、とっくに告白位、していると思うし」
「確かにそうかもしれませんけど。そういう訳なので浩一さん、二人とも同じ社内ですし、時間を合わせてお昼を取るとかできませんか?」
申し訳なさそうにそんな事を言われた浩一は、つい反射的に頷く。
「分かった。姉さんに連絡を取って、早速明日にでも不自然じゃない様に引き合わせるよ」
「良かった! ありがとうございます。じゃあ鶴田さんには、明日手袋持参で出社する様に連絡しておきますね?」
「ああ、そうしておいて」
(彼女に喜んで貰ったのは良かったが、鶴田さんの為っていうのが……)
了承の返事を聞いた途端、表情を明るくして礼を述べた恭子に、浩一はかなり微妙な心境に陥った。しかしそんな感情は面には出さずに、会話を進める。
「それから買い出しに行く時に、ちょっと遠目のお店を何軒か回っても構いませんか?」
「勿論、構わないよ?」
(でも……、あの頃と比べたら、随分まともに笑うようになったよな……)
それから暫く二人での会話を楽しみながら、浩一は密かに感慨深く恭子の表情を観察していた。
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