あの頃の水色
まさぼん
水色のトマト
そのショップの中には、カラフルな食品サンプルがずらりと並んでいた。
フォークで掬い上げられているナポリタンスパゲティー、鰹節が踊っているかのように目に映るお好み焼き。生野菜や、生鮮食品も並んでいる。国産カルビ牛肉、アメリカ産ステーキ肉。同じ牛肉なのに細部にまでこだわっていて全然見た目が違う。
野菜もある。
きゅうり、トマト。
トマトだけスペースが広くとられていた。まだ熟れていない黄緑がかったトマトから、みずみずしくパチンとはじけんばかりに、
「さあ!今わたしは熟れに熟れているわよ。食べてっ!」
と自己主張している真っ赤な色のトマトがある。
おや?
これは。
これはこれは、きれいな水色だ。
子供のころ、学童保育所に迎えに来てくれたお母さんと一緒に帰る道なりで見上げた暑い夏の土曜日の昼に見上げた空のように晴れやかな色の水色だ。
水色のトマト。
はて?はて?
ファンシーな雰囲気からは程遠い白い棚に規則的に並べられた食品サンプルたちとレジ台しかない飲食店向けの業務用販売店に近いショップの中に、ぽつんと置かれた水色のトマト。一体なんであろう?
その当時、早千江は世界的に大ヒットしているロールプレイングゲームにはまっており、仕事以外の時間は食事も片手間、睡眠時間も最低限に削り、没頭してゲームをしていた。
そのゲームは、
“ストーンキャッツアイランド”
という名前で、ゲームの中にトマトに似たモンスターが出てくる。
色は、水色だ。
早千江は、
「やばい私、ゲームのし過ぎで赤いトマトがモンスター色の水色に見えたのかも?夏の土曜日の昼下がりに見た水色なんてロマンチックなものではない。」
目をパチリパチリと瞬き首をブルンブルンと振って、もう一度、水色のトマトを見た。
やはり、水色をしたトマトがそこにはあった。
こういった類の、ナンセンスなグッズに早千江は弱い。
ゲームのキャラクターのコレクターっていうのになる人たちの入り口は、最初はこういうところからなのかも。と脳裏をかすめて一瞬、
「そこから先の道は入ってはいけない道だよ。勝っちゃダメだよ。」
という天使の声が聞こえたような気がしたが、
「面白い、気に入った。」
店主に水色をしている訳も聞かずにサンプルを購入することにした。
値札がついていなかったけれど、まあ、千円程度の値段であろうと思ってレヂ台に置いた水色のトマトは、店主がカチャカチャとレヂに入力した金額がゼロの1つ多い、1万円という高額商品だった。財布に持ち合わせがない、などと口実を作って購入をやめようかと一瞬慄いたが、日付は16日。給料日の直後で、昨日おろしたばかりの諭吉さんが何枚か財布には入っていたので、衝動買いをする結果となった。
早千江が一人暮らしをしているロフト付きワンルームマンションの4階の一室の部屋に帰宅したころには、時計はもう夕方の7時を過ぎていた。
「もう夕方の7時って!」
思考回路の道筋が脱線してこう呟いた。
「夕方の7時って!夕方と夜の境界線は、子供のころは16時ころだったはずじゃなかった?19時はもう夜といっても、早夜ではなく、どっぷり夜の時間だったよなぁ…?年を取って変わったものを、また1つ見つけてしまったあ。がああ。」
早千江は。37歳。独身、既婚歴アリ。子供はいない。
両親は共に健康で東海地方の新興住宅地でのんびりと老後の日々を過ごしている。
両親の住む家の近所の家に住んでいた祖母は認知症で、早千江の母親が長年介護をしてきたが、自然の流れで、今は施設で暮らしている。親切で優しい職員さんたちに囲まれ清潔でキレイな非常に良い印象が持てる施設だ。祖母が、遠くないいつか祖母に訪れる“その日”を迎える場所としてふさわしいと思えるところで暮らしている。
そういった感じで、早千江を取り巻く環境にしがらみと言った類のものは何1つなかった。
平々凡々、悠々自適。まあ。逆を返せば、ロールプレイングゲームに人生の大半の時間を費やして、時間の浪費をしている“無駄な人生”を送っているとも受け取れる暮らしぶりと紙一重の様な気もするが、早千江は“世の中に無駄なものは存在しない”という思考の持ち主なので、その辺りはよいであろう。
平和な暮らしに、文句は何1つ無かった。
早千江がゲームをやるようになったのは、前の夫の影響だ。
早千江の前の夫は、堂々とはゲームをしない男で、早千江の目を盗んでは、こそこそと、まるでセクシービデオでも見ているかのように隠れてゲームをしていた。
それが、早千江の目には、何とも言えなく秘密のすっごく良いことをしているかのように見えていて、前の夫が早千江に隠れてやっているゲームを、早千江が夫に隠れて引っ張り出してきてやるようになり、
現在の
”立派”な
ゲーム
”中毒”、
“ゲーマー”
”完成”!
に至った。
よく、
“離婚は結婚の100倍体力と精神力を使う大変な作業”
と言われるが、
早千江たちの場合そういった経緯を辿ることはなかった。
なんとなく学生結婚した夫婦が、なんとなくすれ違うようになったから、離婚をした。それだけだ。早千江は前の夫のことを今は嫌ってはいない。大げさに言えば、今でもまだ愛している。
けれども前の夫は勿論、相手がハリソン・フォードであろうが誰であろうが、
“再婚”
という2文字とは今後の人生において関わりたくないと、漠然と思っていたりしている。
マンションに着いた。
「ただいまー、おかえりー。さ、ストキャツろ。」
肩に斜めがけにしていたコーチのショルダーバックをヨイショとそこらの床に転がして置き、握り手のビニール紐が食い込んで跡が付いた指を開いて、左手で握っていた紙袋を置いた。
紙袋の中から、幾重にも和紙でくるんで梱包された
”水色のトマト”
を取り出した。
早千江の部屋に唯一置いてある何を置くとも飾るともない、ラックの適当な場所に、チョコンと水色のトマトを置いて、ストーンキャッツアイランドのゲームを始めた。
ピンポン
早千江の部屋のドアフォンが鳴った。
時計を見ると、もう夜の22時。
「こんな時間に参上してくるのは一体何者かいな。」
玄関ドアを開けると。
そこには、まあ可愛らしい子猫がチョコンと座っていた。
「君、どこの子?ドアフォン押したの君?」
早千江は子猫をひょいと抱き上げた。スルスルスルっと子猫は早千江の腕の中から、早千江の後ろ首に回り込み、そこにぎっしりと爪を立てた。
「迷いネコさんのようですね。まあ家はご覧の様に何もないところですが、夜も遅いことですし今夜はお泊りなっていってくださって構いませんよ。」
備え付け簡易コンロの下に閉まってある数少ない食器の中から小皿を取り出して、牛乳をそこに注いだ。そしてそれを、早千江の元に訪れた珍客に早千江はお差出をさせて頂いた。子猫様は、前足というのか、手というのか、それを小皿の中に突っ込んでペロペロと白い液体に舌鼓を打った。
珍客がいらっしゃっていても続けたゲーム。
まあそこそこで止めて、ロフトの上に置いてある開けっぱなしの安物のソファーベッドに珍客を招き入れて1夜を共にした。
「恋愛は面倒だけれど、人肌恋しかったのよお。ネコ肌っていうのが丁度良いわねえ。」
早千江の腕に包まれた珍客の子猫様も、悪くないご様子で、スヤスヤと早千江と共に眠った。
翌朝。
脇の辺りで何かがもぞもぞと動いている気配にハッとして起きた早千江の左腕が生暖かさに包まれた。
「え?なに?」
呆然と目線の真上の天井に近い消えているライトを見つめた早千江は目をパチリとさせ、ヒョイッと飛び起きた。脇の下に目をやって我に返った。
「あ…子猫様を泊めたんだった。」
生暖かいスウェットの脇の部分に右手を突っ込み、そっと珍客の子猫様を触ろうとしたら、スウェットの脇の部分だけ濡れていた。子猫様は、早千江の仰向けになっている体の掛布団の外側に乗っかってゴロゴロとのどを鳴らしている。
「なに。何かこぼしたの?」
濡れた脇を触った手についた匂いを嗅いだら…。やられた。オシッコだ。
「ゴロゴロじゃないわよ、全く。」
子猫様を胸の上から床の上に下して、掛布団ごと子猫様と一緒にロフトの下に降り、ベランダと呼ぶには烏滸がましいほど小さなスペースのベランダに手際よく布団を干した。
そして、子猫様に、昨日お差出させて頂いたものと同じ、牛乳を朝食としてお差し出させて頂いた。
「可愛いなぁ。
でもこの子猫様、どう見てもロシアンブルーだよねぇ。こんなに見栄えする子猫様が捨て猫だなんてぇ、ん~…捨て猫はありえない、ありえない。ダメダメ。
うちの子にしたいのは山々だけれどオシッコちびられると部屋中匂うくらい部屋狭い環境の悪さだし、そもそもこのマンションペット禁止だし、迷いネコを奪ったら飼い主が可哀そうだし、
でも小学生の時飼っていたモモっていう名前の青い猫思い出すなぁ。
あ~…。
もしかしたら、この子猫様モモの生まれ変わりのネコかも?
運命の再会!
子猫様、ねえ君、うちの子になりますか?
ん~あぁ~、いかんいかん。この子は迷いネコ。
”人のものはとっちゃダメ。”
電信柱に張り紙でも貼ってまわって、近所の動物病院の掲示板にも迷いネコのお知らせを貼ってもらって、飼い主のおかあさんのところに帰してあげなくっちゃ。 うちの子にできないのは残念だけど、君可愛いからすぐおかあさん見つかるわよ。飼い主のおかあさんが見つかるまでの間だけ、うちの子ってことでいいわね。
お互い、情は無用で。割り切った付き合いで宜しくお願い致します。
宜しくお願いされます。」
早千江は、ブツブツブツクサ長い1人問答を唱え終えると、ノートパソコンの前に座った。
早速、迷いネコのビラ作りを開始したのだ。
「はい!ジッとして!いいよ、いい顔してるよ。」
スマホで子猫様の写真を撮って、SNSを利用してノートパソコンに取り込み、何とか形のあるビラを完成させられた。
“迷いネコ預かっています!”
ロシアンブルー風、生後3~4か月くらいの男の子。保護時、首輪の着用なし。
「うん、こんなもんでいいんじゃないかしら?それにしてもこの写真可愛く撮れてるはねぇ。こんな可愛い子がいなくなった飼い主さん心配と悲しみで泣いて泣いて探し回ってるわね。すぐ見つかる。うん。すぐ見つかる。」
近所の動物病院にも連絡した。
「うちの病院のペットホテルのゲージで保護ネコとして預かれますよ。」
提案された。
何分早千江は人肌恋しいお年頃と気付かされたばかりだったので、丁重にご厚意にお礼を告げそのまま部屋に子猫様を残して、職場へ出勤した。
「帰り、ささみのおやつと子猫用キャットフードと、あと、んと、色々買って帰ってくるからね。トイレもシッカリしたもの買ってくるから、取り合えず、それまでの間は用を足す際はベランダの段ボール箱の中でお願い致します。それでは、いってまいる!」
まんざらでもない、この気分。
帰社後、用事なんてコンビニでお弁当と栄養ドリンクを買うくらいの早千江が、今日はペットショップやらドラックストアやら、あちこち回りながらの家路につく大忙しだ。
「でも、まんざらでもない。」
早千江は口角が自然と微妙に上にあがり、しばしの別れを惜しむ子猫様に時間をとられて慌てて出勤した。
早千江の勤めている会社は、大手家電メーカーのグループ系列企業で、少し大きめの中小企業とでも例えればいいのか?それほど大きくもない、小さくもない、3階建ての自社ビルの2階フロアが早千江が働いている職場。
会社全体の従業員数は200人ほどであろうか。
早千江はそこで、
グループ本社の大手家電メーカーの工場から、地方の家電寮版店と個人販売代理店へ製品の仕入れの受発注業務を主に行っている。
製品故障のクレーム対応やら、課長が接待の際通い詰めている“踊るブラジリアン”という夜のお店の会計処理の課内の経理やら、倉庫管理やら、雑務は山ほどあるが、1日の大半は電話応対に追われる仕事をしている。
普段、淡々と業務、電話をとり、おき、と繰り返しながら業務をこなす職場で今日の早千江は鼻歌交じりの労働を行っている。
課長も、同期の女子たちもジロジロと早千江を見ている。その視線に早千江は思いっきり気づいているしヒソヒソ話をされているのも気付いているし大体何を言われているのかまでの見当もついていた。
そんなのお構いなしで、
上機嫌は上機嫌。包み隠さず上機嫌を通そう、
という姿勢で働いた。
定時の終業時間の随分前に業務は終わらせ、就業ベルが鳴ったか鳴らないかのギリギリラインで会社を飛び出し、帰宅の途に着いた。
帰り道にあるペットショップってどこにあったっけ?
普段気にしていない街の景色や様子は、視界には入っているけれど、目には入っていないものだ。
頭蓋骨の隙間から手を突っ込んで脳裏をぐちゃぐちゃに撫でまわして記憶を手繰り寄せたけれど、それでも思い出せない、わからなかった。
なんでもっと早く気が付かなかったんだろうと、
スマホで検索という簡単な方法を利用して最寄の駅に1番近いペットショップを見つけた。
まずそこに行った。
そこのペットショップでの買い物は、ネコのトイレ、キャリーバック、まあ、何もかもお高いお高い。
「あのとき、水色のトマト買ったの失敗だったなぁ。ああ、厳しい。今月しょっぱなから大ピンチになっちゃったあよお。」
独り言とは裏腹に、
まんざらでもない顔で、買い物を終えて駅から早千江のマンションの帰路の途中にあるドラックストアに寄って、大量の子猫用キャットフードを購入した。
子猫様の好みがわからないので、全部の味を全種類2袋ずつ購入した。ささみのおやつも2本入りを2パック購入した。
これまたまんざらでもない顔で買い物を終えると、小走りでマンションの4階の部屋に帰宅した。
「おかえりー。ただいまー。」
「あ、」
「タダイマ。」
待ち人ならぬ、待ち子猫様の手厚いお出迎えを転びそうになるくらいの足への纏わりつきで受け、慌てて帰宅の第一声を言い直した。
備え付け簡易コンロの下の棚から数少ないと思っていたわりには結構たくさん詰まってた食器類を引っ張り出して物色し、
「こっれ、結婚してた時に使っていたやつじゃない?なっつかしっ。」
よく、持っていたなあと感心しながら手ごろなサイズのやや大きめな土鍋を選び、中にたっぷりとお水を入れた。
子猫様に差し出すとピシャピシャお水をお飲みになられた。
どれがいいかな?
早千江は、にこやかにドラッグストアのビニール袋の中からガサッとウェットタイプのレトルトパウチ入りのキャットフードを取り出した。
“舌平目”
“マグロと舌平目”
“鯛と舌平目”
ネーミングだけでも美味しそうな全種類の味を買い占めたキャットフードを眺めた。
ぼんやりしとした眼差しで早千江はお水を一心不乱に飲んでいる子猫様とキャットフードの山を交互に見つめていた。
「いいな、なんかいいな。おいで。」
早千江は、お水を飲み終えた子猫様をふんわりと包み込み抱き上げ、やわらかく、ギュッとした。
暖かかった。そこには、温もりがあった。
「いいな。いいね、なんかいいねぇ~っ!」
子猫様はビックリした眼差しで狭いマンションの狭い部屋の中を転げまわる仮おかあさんの姿を目で追っていた。
「あ、痛って。」
頭が何かの物体を踏みつけたようでヤラレタ。早千江が踏んづけて、後頭部にダメージを与えた犯人は水色のトマトだった。
「なんでこんなところに落ちているのよ。」
口角の上がりはキープされているが、早千江は不機嫌そうに水色のトマトをラックの上にチョコンと置いた。何処に置いてあったのか覚えているかのように元の位置に戻した。
子猫様には、”マグロと舌平目”のキャットフードを与えさせて頂いた。
食べ終わってから、ささみのおやつもお与えさせて頂いた。
両方とも、お気に召してくださったように見受けられた。
早千江の口角はもう上がりきらないところまで上がっている。
子猫様は、
「面白いお顔の人間様だなぁ?」
とでも言っているのであろう、そんな表情で早千江を見つめていた。子猫様の視線が、早千江の後ろに移動した。
「ん?どした?」
早千江は後ろを振り返った。
何もない。
いや、あることにはあるが、代り映えのしないラックだけだ。
「子猫様は好奇心旺盛だから、ラックもオモチャに変身させたのかな?」
その時、早千江のスマホが鳴った。
―「おばあちゃんが亡くなったわ。帰ってきて。」
早千江、37歳。
そろそろ、身内や友人の中から死人が出始める年ごろだ。その事は早千江自身よく認識していたつもりであった。
前の夫のお義父さんが癌で亡くなった時も辛かったが、中学生の時に亡くなった祖祖母の時とも訳が違う。
血縁関係にある小さいころから寄り添っていた身近な人物の死。
おとずれるとわかっていたその日が来てしまったことが早千江には受け止められなかった。
「さっちゃん、さっちゃん。」
いつも、早千江の事をそう呼び、可愛がってくれたおばあちゃん。
早千江が会いに行っても、おばあちゃんは早千江のことを早千江だとは認知症で認識できなくなっていたけれど、早千江の顔を見ても早千江だとわかってもらえなかった時もショックを受けたけれど、けれど。けれども、、おばあちゃんが…。
あの、おばあちゃんが、動かなくなった。
「信じられない…。」
スマホ越しに、早千江が母親に発することが出来た言葉は、その1言だけだった。
でもそんなことを言っていても何も始まらない。
「あ、もしもし。ごめん。明日朝一で帰る。」
帰らなくちゃ。
足元から視線を感じた。
子猫様だ。
「どうしよぅ。着いてくる?動物病院の迷いネコ預かりサービスに行く?ん~子猫様、どうしたい?預かりサービスの狭いゲージの中でも平気?」
ミャウリンガルというネコの鳴き声を(喋り声)を人間後に翻訳してくれるタカラトミーからでているオモチャがある。もう正規の販売はしておらず、オークションサイトなどで高値で取引されている代物だ。
もう、お金がじゃんじゃん飛んでいくのは諦めよう、仕方がない、こういう時のために貯金してるのでしょ。何とかなる。ミャウリンガルを、今から速攻落札して子猫様の…。
そんな機械と呼ぶのかオモチャと呼ぶのかを使わなくったって、早千江には子猫様の気持ちは大方分かった。
狭いゲージの中に閉じこめられて過ごすなんて嫌にきまっている。それだけではない。
こんな狭いマンションの1室で1人ぼっちでお留守番して飼い主の帰宅を待つだけなのだって嫌であろう。
寂しかろう。
早千江だったら、そんなは嫌だし、寂しいと思うから子猫様もそんなのは嫌だろうという憶測で、わかったつもりに、なっているだけなのかもしれない。
けれど、分かっていた。
子猫様には、自由に飛び跳ねてジャレて遊んで食べて走ってお昼寝して撫でられて、そんな環境を与えてあげなくっちゃ。
早千江は、大きな旅行用かばんの中に数日分の着替えとノートパソコン、貴重品、何故か目についたからラックから水色のトマトを取って、詰め込んで田舎に帰省する支度をした。
翌朝早朝。
昨晩支度した荷物を傍らに置いた早千江は、
子猫様をペット用キャリーバックの中に入れて左手に持った。傍らに置いた荷物、大きな旅行用かばんを右手に持ってマンションの玄関から世の中に出て部屋のカギをかけた。
本当に直観通り迷いネコだったならば。非常に飼い主様に対して申し訳なく思うが、早千江は子猫様を連れて帰省することにした。
「おばあちゃん…。」
認知症のメカニズムは、脳の萎縮で萎縮した箇所によって症状に変化がでてくるそうだ。どこが萎縮すると、どんな症状がでるとかいった細かいことまでは解らないが、とても穏やかだった人が豹変して狂暴になるケースもあるらしい。
早千江のおばあちゃんは、今あげたケースとは全く真逆の症状を発症した。
チャッキチャキで、趣味なの?というくらいクレームをつけまくっていた人で、よく怒り、虚言癖もあって、派手好き、85歳を過ぎても車の運転をしていたことが自慢話で、活発で、とにかく激しい人だった。
それが、認知症になって症状が進むと共に、穏やかに、お行儀よく、ニコニコと、平穏になっていった。
昔よく田舎道の端っこに、畑仕事の草むしりの休憩で呂畑に腰かけ、通り過ぎる人を眺めながらニコニコとお茶をすすっているおばあさん、そんな雰囲気のおばあちゃんに、早千江のおばあちゃんはなった。
わたし達が面会に行っている間だけ機嫌がよくなってお行儀よく穏やかにニコニコしているのかもよ?
そんな風に早千江が疑ってしまうくらい、“穏やか”とは正反対の人格の持ち主だった。
おばあちゃんは、穏やかさを極め、喋らなく動かなくなってしまった。
早千江の救いは、もはや子猫様と水色のトマトだけであった。
子猫様が、電車移動中、キャリーバックの中で、
「にゃあ~おん、にゃ~おん。」
と鳴くので、
旅行かばんの中から適当に取り出した水色のトマトをキャリーバックの中に放り込んだのだ。
子猫様は水色のトマトがお気に召したようで、静かに自分の体と同じくらいの大きさをした水色のトマトと遊んでいた。
子猫様が水色のトマトと格闘している姿を小さなキャリーバックの窓越しに眺めることで、早千江は救われていた。
子猫様も落ち着いていることだし、ボーッとしているとおばあちゃんを想って涙が溢れだしそうになるから、スマホ版のストーンキャッツアイランドをやってみようかな。テレビCMで見る分には面白く無さそうだったからやってない有料アプリをダウンロードして、ゲームをしようと思いついた。
「祖母が死んでも、やるこたゲーム。」
ストーンキャッツアイランドをダウンロードする前にメールしよう。早千江がゲーマーになった原因、いや、きっかけを作った前の夫に一応連絡を入れておいた方がいいよね?
数年ぶりに過去夫婦だった元相方充てにメールを送ることにした。
“お久しぶりです。早千江です。祖母が亡くなりました。以上ご報告まで。”
こんなもんでいいや。
早千江はストキャ(ストーンキャッツアイランドの略語)のダウンロードをしようとプレイストアで検索していた。
前の夫から直ぐにメールの返信が入ってきた。
“この度はお悔やみ申し上げます。早千江さんお久しぶりです。お変わりないですか?僕もおばあさんのお葬式に参列させてください。”
早千江は、
前の夫が、再婚しているのか、どこに住んでいるのかも、今現在の彼に取り巻く事情や環境を全く把握していない。
「いいのかな?前の嫁のおばあちゃんのお葬式に参列しても。彼、今何しているんだろう?」
ごちゃごちゃ考えても、元夫に関しては何もわからないし最良の答えは元夫自身に見つけてもらうしかない、と割り切って、葬儀場の住所と電話番号を記し、ついでにわたしは元気です。と書き添えたメールを返信した。
ストキャのスマホ版は、これは無理。
小さい画面で囲碁をプレイするのと同じ状態、状況になった。
トマトモンスターを狙って攻撃したつもりが、味方のチームの自分の仲間を攻撃してしまうという具合だ。
スマホで囲碁をやったことがある人が世の中にどれくらい存在するかわからないが、
「ちょ、そこじゃない!そこに石置いたんじゃないの!」
となるのと同じ具合だった。
ゲーマーの出る幕はなく、
子猫様と水色のトマトのじゃれ合い格闘をひたすら眺めて帰省した。
早千江がぼんやりと子猫様と水色のトマトを眺めている間に、あっという間だ。
実家の最寄駅に到着していた。
子猫様がいるのでタクシーで家に帰ろう、
そんな時に限って、タクシーはつかまらない。
トボトボと歩き出した早千江の背中に聞き覚えのある懐かしい声が響いてきた。
「さっちゃん!」
「あ!まこー。どうしたの?」
「さっちゃんこそどうしたの?その大荷物といい、クスッ、トボトボっぷり。」
「おばあちゃんが亡くなったのよ。お葬式で帰ってきてるの。」
「そっか、残念だったね。さっちゃんはまだ東京に住んでいるの?」
「うん。マコは?」
「わたしは、よその土地にご縁がないのか、この片田舎の新興住宅街とよっぽどのご縁があるのか、ロンドンに留学してこの街どころか日本にすら帰ってくるつもりがなかったのに、帰国して辛うじて東京で就職して東京の男の人と結婚して3姉妹の母親になったんだけど、あっさり別れて結局はただの出戻りの田舎実家暮らししてるう。母親が張り切っておばあちゃんしてくれていて、子供の面倒みるの手伝ってくれているの。別れた当初は、わたし1人でシングルマザーしてたんだけど、女の子3人はわたし1人で育てるのは無理だった。とほほ。今、スーパーでお惣菜のパック詰めのパートしながらおばあちゃんに甘えてる。笑っちゃうでしょ。あはっ。はあ~ぁあ、こんなはずじゃなかったのにな。あ、ごめん。おばあちゃんにご不幸があったばかりなのにこっちの愚痴だあだあ言っちゃって。」
「いいの、いいの。マコ変わってないねぇ。相変わらずだ、度胸があるんだか小心者なんだかよくわかんないところが変わってない。あははっ。子供いるだけまだマシだよ。わたしも、何を隠そう、バツイチでーす。あははっ。」
「おばあちゃんのお葬式、厚生会館?わたしも行くわ。」
「うん。厚生会館だよ。でもいいの?パートあるんでしょ?マコのことはおばあちゃんもよく知ってるし来てくれたらおばあちゃん喜ぶと思うけど。いい?来てくれる?」
「パートなんて変わりの人いくらでもいるから行くよ。わたし週3回しかシフト入ってないから融通きくの。そろそろ行く。子供待ってるから帰る。じゃ、また当日。」
相変わらず騒々しい子だ。
早千江は幼馴染のマコが去っていくと同時に地元に帰って来たという実感がいきなり激しく沸いた。
そして、おばあちゃんが亡くなったという実感もいきなり爆発した。
道端で。
そこら辺を歩いている人の、どの人が知り合いでどの人が知らない人だかの区別もつかない知りすぎの知った土地の道路上で大きな旅行かばんとネコのキャリーバックを持って歩いている40前の大の大人の女が大泣きしている。
こんな姿をおばあちゃんが見たら…、
「みっともねぇ。」
と、喝を入れてくるであろう。
しっかりしなくちゃ、
早千江はそう思いながら、
おばあちゃんの事がまた思い浮んで…、
そんな気持ちの相乗効果の繰り返しで、実家までの道中わんわんわんわんわん泣いた。
実家について、母親に、
「はい、これ東京土産。」
と、子猫様をネコのキャリーバックをバックごと渡した。
母親は恐る恐る中を覗き込んだ。
「なにこのネコと変なトマト!」
「しっ。早千江にも色々思うところがあるんだろう、気でも振れているんだろう。そっとしておきなさい。」
「お父さん、わたし、別に気ぃ振れてない。この子猫、あげる。老人への手土産。水色のトマトも子猫様のオマケであげようかと思ったけど、それは持って帰るから。」
「ちょっ、子猫っお土産って、こっちにも色々事情があるでしょうがっ。あんた、何考えてるの?ホントにもう…。子猫…。見せなさい…。何色…?模様は…?子猫…。、もおっ!いいから早く子猫見せなさい。子猫を見せてくださいー。」
「ほら、老人へのお土産に丁度良かったじゃない。姪っ子たちももうすぐ小学生でしょ。賑やかな中にいる方が子猫様にとってもいいと思ってさ。はいっ。抱っこして。可愛い名前でもつけてやってよ。」
「モモ子」
「お父さん、それ昔飼ってたネコの名前でしょ。それにこの子、男の子。却下。」
「千舞。」
「ちま?凛々しそうで良いセンスしてるじゃん。」
「おばあちゃんの生まれ変わりだと思って、おばあちゃんの名前から千をとって考えてみた。ふふっ、ちまくん。」
姪っ子たちが家の奥から走って来た。
「おばちゃーん!」
「ただいま。大きくなったねえ、おばちゃん子猫様連れてきてあげたよ。ひぃおばあちゃんの名前から“千“をとって、”千舞“くんだって。おじいちゃんが名前さっきつけたばかりだよ。仲良くしてあげてね。今、おばあちゃんが、ちまくん抱っこしてるから抱っこ交代してもらっておいで。」
賑やかだ。
おばあちゃんが、姪っ子たちのおばあちゃんではない、早千江のおばあちゃんが、この世に生を授かっていなかったら私たちは存在していない家族。
当たり前のことだけれど凄いことだと早千江は思った。
ポケットの内側から、水色のトマトが壁にもたれている早千江の腰近辺に刺激を与えていて痛い。
「この水色のトマト。何かと痛いんだよなあ。感じ悪う。」
そう言いながら、早千江は水色のトマトをポケットの奥に深く沈みこませた。
早千江は帰宅早々だったが、おばあちゃんの亡骸に一刻も早く対面したくて、会いに行った。
何故なら、散々泣きながら帰ってきた癖に、まだおばあちゃんが“死んだ”ということを信じられなかったのだ。
亡骸になったおばあちゃんの顔は、綺麗で穏やかな顔をしていた。
最後に施設に会いに行ったときに見せた、微笑みを浮かべた表情をしていた。動かないけれども死んでいる人の顔だと早千江は思えなかった。
姪っ子たちがキャーキャーお坊さんがお経をあげている中を走り回り、近所のおじいさんや親せきのおばさん達は葬儀中だというのに、ぺちゃくちゃぺちゃくちゃお喋りを楽しんでいる。
お葬式は、賑やかだった。
泣いている人は早千江の見る限り、いなかった。姪っ子のおばあちゃん、つまり早千江のお母さんに早千江が、
姪っ子たちが暴れているのを何とか止めろ。
と訴え、
早千江の母親は苦戦虐げられながらも格闘したが、
「キャー、キャー。」
子供たちの騒ぎ声が静かになることは無かった。
まあ、早千江のおばあちゃんは姪っ子が暴れて走り回っていようが、お行儀よく椅子に座ってシクシク泣いていようが、どちらでも、もういいのであろう、と早千江は喪服のポケットの中の水色のトマトをいじりながら思ってうるさいのを黙らせるのは諦めた。
「早千江。」
前の夫の声だ。
早千江が振り返った先にいた前の夫は、ちょっと白髪が増えたけれどちっとも変っていなかった。
早千江の母親と、早千江に、お悔やみを告げた前の夫に、早千江はお礼を言った。
元夫婦の数年ぶりの再会は、それだけで終わった。
「さっちゃん、この度は…。っていうか。だれ?今さっちゃんに話しかけていたイケメン。紹介してほしいんですけど。」
「相変わらずだねぇマコ。ま、この度はお越しくださいましてありがとうございます。さっきの男、あれがイケメンに見えるだなんてマコはろくな恋愛してきてないのね。あれ、わたしの前の夫。」
「あんたも✕ついてるの?」
「駅の近くで会ったときに言ったじゃん。んもぉっ。」
「あ、そうだったっけ?まあいいや。さっちゃんの前の旦那ならまぁいいや。どっちにしろ、まあ、いいわ。」
「何がいいのかわからないんですけど、まあいいね。わたし、今週いっぱい東京戻らない予定なんだけど、マコ今週時間とれる日ない?子供3人もいるから無理か。」
「え?なに?飲み会したいの?皆に声かけてセッティングするよお。」
「その辺も変わってないねぇ。良い性格してるよ、マコは。」
「照れるなあぁ。」
早千江は、古い幼馴染の友人とおばあちゃんの家の庭で、今葬儀場の中を走り回っている姪っ子たちのように走り回っていた頃のことを思い出した。
おばあちゃんは、早千江と友達を飛び留め、
「さっちゃん。おともだちとはいつでも仲良くするんですよ。マコちゃん、さっちゃんのおともだちになってくれてありがとうね。これからも仲良くしてやってくださいね。」
おばあちゃんから、あの頃なげかけられていたセリフが、何ら変わりなく聞こえてきそうだ。早千江はマコの細くなってやつれた苦労が浮き彫りたつ後ろ姿を見ながら、そう思った。
火葬場で、おばあちゃんを火葬している間、規則的にクルクルと縁を描いて追いかけあっこをして走り回る姪っ子軍団をぼんやり眺めながら、ポケットの中の水色のトマトを取り出して、手のひらの上に乗せた。
太陽光線を遮断するか確かめたくなって陽に翳してみた。
水色のトマトは、決して何ものをも自分の体の中を素通りさせないというがんとしたポリシーを持っていらっしゃるようで、太陽に透かしてみても太陽の光は遮断されて向こう側は見えなかった。
早千江は、ぼんやり思った。
「この水色のトマト、なんで水色なのか、きっと…。…。 …う~ん。わっかんないな。わからないや。何か、水色でいるべきポリシーを持っているの?ねえ、水色のトマトくん。君…なんで水色なの?」
「わたしが子供のころに、おばあさんがクレヨンの水色を買ってくれておったんですよ。
わたしは空やら海やらが好きでしてね、
お絵かきをするときはシャーっと空の絵を書いておったんですよ。
クレヨンの水色ばっかり使っていたものですからね、
すぐに水色が短くなってしまっていたんですよ。
それを知っておったのか、
わたしのおばあさんが、
千鶴子、飴玉と水色のクレヨン、どっちが欲しいか?
としょっちゅうたずねてきていましてね、
わたしがいつも水色のクレヨンを選ぶのを面白がって笑っていましてねえ。
水色というのは、
そういう色なんですよ。」
おばあちゃんが話してくれた、自分のおばあちゃんの思い出話しを、火葬が終わりかける頃に、火葬場の煙突から出るおばあちゃんの煙を見ていたら、思い出した。
「この水色のトマト、大切にしよう。」
あの頃の水色 まさぼん @masabon
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