第百二十六話

「はあっ、はあっ……待ってよ、アラケア! そろそろ体力の限界なんだ。一旦、休憩を取ろうよ……」


 振り返ってみると、俺の少し後ろを走っていたヴァイツが立ち止まり、ぜぇぜぇと胸を押さえて息を切らしている。

 その隣ではノルンもヴァイツほどではないが、走り疲れて息を荒くしていた。


「……申し訳ありません、アラケア様。こんな状況だと言うのに、自分の体力不足に不甲斐なさを感じます。でも……これ以上は、私も……」


 俺は二人の体力の限界に気付けなかった自分の失態を恥じると、次に辺りを見回してみたが、俺達を追っていた猿達の姿はどこにも見当たらなかった。

 まるで俺達だけがこの廃都市に取り残されてしまったかのように静寂の中、ヴァイツとノルンの荒い息遣いだけが聞こえていたのである。


「どうやら皆と逸れてしまったようだな。幸い近くには猿達もいないようだし、ここで小休憩しても良さそうだ。だが、別にお前達が謝る必要はないぞ。お前達への配慮が足りてなかったのは俺のミスだったんだからな」


 それを聞いて、ヴァイツがへなへなと地面に座り込むと、ノルンも槍を地面に突き立てて、それに寄りかかりながら腰を下ろした。


「いつの間にか、この場には僕らだけになっちゃったね。他の皆も無事に逃げられただろうか……」


「心配ない、とは思いたいがな。俺達は全員が陛下に選ばれた最精鋭とはいえ、あの猿達の強さが生半可なものじゃないのは、お前達もよく知る通りだ。絶対に無事だ、などという楽観的な気休めは俺からは言えんな」


 ヴァイツとノルンが息を整えながら、表情を暗くする。

 だが、二人が休息を取っている最中も俺は感知能力によって周囲の気配を探り、敵からの襲撃に備えて、警戒態勢を解かなかった。が、その時だった……。


「……ん? なんだ、この匂いは……うっ」


 不意に漂ってきた、まるでごま油のような香りを嗅いだ途端、口の中が渇き体がふらつきだしたのである。

 そしてその影響は俺だけではなく、ヴァイツとノルンにも現れていた。

 すでに二人はうつ伏せで地面に倒れ、虚ろな瞳で何事かを小声で呟いている。


「くっ……まさか、何らかの薬物か? だがっ……敵はどこだ! 周囲には気配などどこにも……」


「……私なら、ここよ。気配を敵に悟られるようじゃ……この仕事は務まらないのよ、アラケア」


 突然の背後からの声に、俺はぎょっとして振り向いた。

 すると、そこにいたのは……これまで幾度も刃を交えたあの女の姿をした。


「マクシムス? いや、この抑揚のない声は……本物のエリクシアか!」


「……ご名答よ。貴方がいくら腕を上げても……暗殺は私の十八番。殺す手段なんていくらでもあるのよ。さて、もう……動けないわよね? 毒性の植物から幻覚性物質を抽出して……ガスとして散布させてもらったわ」


 体の自由がきかず、地面に蹲る俺の首元にエリクシアが手をかけながら言ったが、勝ち誇るでもなく、その声色はどこまでも静かだった。


「ところで、アラケア。暴食の獣と呼ばれる……あの猿達だけど、基本的にはどんな物であろうと食べる。けど……ただ一つ苦手としている物があるのよ」


 身動き出来ない上に背後まで取られ、死すら覚悟していた俺にエリクシアは突然、俺の耳元まで口を近づけてそう囁いた。

 そして次に何かの蓋を開けた音がしたかと思うと、強い香りがする液体を後ろから俺へと浴びせかけた。続いてヴァイツとノルンに対しても。


「それは、『デビルフルーツ』と呼ばれる果物の……果汁。奴らはね……この匂いを極端に嫌う。今、貴方達に振り掛けたのが……そう。……ついて来てもらうわ、アラケア。シャリム様が……お待ちなのよ」


「何を、考えている? お前達は俺に何をさせるつもりだ?」


 しかしエリクシアはそれには答えず、俺の体を片手だけで軽々と担ぎ上げると跳躍し、廃都市の建物の屋根の上を突風のような速度で駆け抜けていった。

 地面に倒れ伏しているヴァイツとノルンが瞬く間に見えなくなっていく。


「くっ、無事でいてくれ、ヴァイツ、ノルン。体の自由が戻ればすぐに戻る! だから……どうかそれまでの間、生き延びていてくれ……」


 俺は心の底からそう願ったが、この大陸では絶対など保証は出来ないと先ほど俺自身が口にしたばかりだった。

 だが、意識が次第に遠のいていく中、それでも運命がヴァイツとノルンの二人に味方してくれることを俺は願わざるを得なかったのである。



 ◆◆



 どれくらい意識を手放していたのだろうか。

 目を覚ました俺が両目を見開くと、顔のすぐ目の前にはエリクシアがいた。

 その後ろには建物の壁に背をもたれているカルギデの姿も見える。


「エリク、シア! カルギデ! ……っ!?」


 俺は喉から声を絞り出すように叫んだが、そこで痺れて動かなくなっていた体の自由が戻っていることに気付く。

 すぐさま辺りを見回し、愛用のルーンアックスを探すものの見当たらない。

 ならばたとえ素手であってもと、戦う決意をして俺は立ち上がった。


「そんなに……いきり立たないで欲しいわね、アラケア。抵抗するなら……こちらも貴方を直ちに殺さなくてはならなくなる。でも、シャリム様がその前に……今の貴方の腕前を見たいと言うから、こうして連れてきたのよ」


 そう言い放つや否や、エリクシアは俺の喉元に短剣を突き立てた。

 その表情は相変わらず感情が感じられず、何を考えているか分からない。

 だが、俺はその短剣の刃を掴むと握った手から黄金色のオーラを溢れさせた。


「……恐ろしいまでの強い力ね。がっしりと掴まれていて……短剣を引き抜くことさえ出来ない……だなんて」


 しかし言葉とは裏腹にエリクシアは動揺した様子もない。

 この少女に感情と言うものはないのかとそう思っていた時、カルギデが壁から背を離してこちらへとやって来た。


「カルギデっ……!」


 それを見た俺は二対一か、と覚悟を決めてエリクシアから短剣を奪い取り、それを手にして身構えた。


「おやめなさい、当主殿。そんなチャチな武器で襲いかかって来た貴方を返り討ちにした所で、ただ私の名誉が汚されるだけ。もうそろそろグロウスが戻ってくるはずです、それまで待って頂けませんか」


「俺の腕前が見たいと言うことだったな。グロウスの本当の狙いは何なのか知らんが、だったら俺の武器ぐらいは返したらどうだ?」


 俺の言葉を聞くなり、カルギデは薄い笑みを浮かべると、言い放った。

 その顔はエリクシアとは対照的に、楽しくて仕方がないと言った表情だ。


「いいでしょう、今の貴方とてグロウスと戦えば間違いなく死ぬ。ならばっ! その前に、私がその名誉を先に掠めとるのも悪くはないでしょうなぁ! エリクシア! 当主殿にあの巨大な斧を返して差し上げなさい!」


 気を昂らせながら吠えるカルギデを、エリクシアは冷ややかに見ている。

 だが、当然グロウスの命に忠実に動く彼女がその指示に従うことはなかった。


「似た者同士ね……貴方達。好戦的な所は……よく似ているわ。部下の独断専行は……シャリム様が最も嫌うことの一つ、忘れたのかしら? 殺されたくなければ……もう少し待ちなさい、カルギデ」


 エリクシアとカルギデはしばらくの間、睨み合った。

 そして互いの視線で火花を散らした後、やがてカルギデが小さく舌打ちし、ばつが悪そうに手にした鬼刃タツムネを背に戻した。


「まったく……災厄の根源とやらに会いに行くと言ったきり、どこかへ姿を晦ましてから、もう何時間ですか。約束していた時間まで残り数分ですが、本当に一体、いつ戻ってくるのやら……」


 そう言ってカルギデは吐き捨てたが、一方で俺も取り残してきたヴァイツとノルンのことを思い出し、勝ち目の薄い博打に出て、無駄に命を失うことを思い留まらせた。


「……どうやら今、お前達に抗うのは賢い行いではないらしい。仲間達のためにも、俺はこんな所で無駄死にする訳にはいかないからな。グロウスとの再戦の時のため、これまで腕を磨いてきた。あの男が俺との手合わせがしたいと言うなら、望み通り受けて立ってやるさ」


 その時、エリクシアは携帯式の時計を確認すると、天を仰ぎ見てこう呟いた。


「時間よ……シャリム様が来る。あの方が時間を破ったことは……一度もない。どこからか分からないけど……もうご到着するわ」


 まるで確信しているかのようなエリクシアだったが、不意にそこから声がした。


「だーれだ?」


 いつの間に現れたのか、エリクシアの背後から彼女の視界を遮るように両手で目隠しをしている男がいたのである。


「な、にっ!? 何時からそこに……!?」


 予期すらしていなかった場所からその相手を認識し、しかもそのことに今まで気付くことも出来なかった自分を恥じるように、俺は大きく声を上げていた。

 そこに姿を現したのはカルギデやエリクシアが待ち望んでいた待ち人であり、そして……赤みがかった髪に、暗色の上質な服を身に纏ったその男は……。


 ――紛れもなく、あのグロウス・ライゼルアだったのである。

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