女心とオルゴール (恋愛、作者:六月菜摘)
私は一人、川沿いの石畳を囲む柵によりかかり、ずっとあなたを待っていた。
日が落ち始めると急激に気温が下がる水辺で。心細いこの異国で。
空が高い。遠い。大きい。
なんて私の手に余るものなんだろう。まるであなたのようだ。
手が届くはずだったのに、風船を手離してしまった私には、もう空は戻らない。
日本に居ても、澄み切った秋の空はあなたと繋がっている唯一のものだと信じていた。
*
何隻もの舟を見送り、それらに灯りが入り、いよいよ心細くなってきた頃、やっとあなたが現れた。
威圧的なノートルダム聖堂の向こう側に、掌に乗せたいエッフェル塔が光っている。水面の視界が常に揺れているのは不安だったせい。 あの人が走って来る足音が私の身体に響く。もうすぐ抱きしめられる予感に、胸の鼓動が待ちきれずに騒ぎ出す。
彼が大切そうに包みを抱えて来たのは、ある秋の日のことだった。やっと私、逢いに来たのに、こんなに待たせるなんて、どこまでも酷い人。
トレンチコートを翻して、あわてて走ってくる姿が幻じゃないといいと願って、何度も目に焼き付ける。
「待たせてしまったね。寒かったでしょ」
私をコートの中で抱きしめようとして、あっと両手を挙げる。
やだ、ホールドアップ?
「抱きしめてくれないの」
持ち上げた包みをそぉーっと降ろしながら 「これね、壊れ物なんだ。だから抱きしめるのは後でね」
彼は片手で私の頭を抱きよせ、唇を寄せる。さっきまで甘栗齧ってたから、あなたに伝わるのはただの甘い欠片。
コワレモノなのは、私の方です。
*
市庁舎の前に出現するメリーゴーランド。
その名で呼ぶよりも「回転木馬」で呼んだ方が似合うノスタルジア。
上下に揺れながらはしゃぐこどもたちはみんな、あたたかい毛糸のマフラーと帽子を身につけ、迫り来る冬にすら、しあわせ色に染まる。
尖がり帽子のような天辺。色とりどりの白馬たち。丸い灯りがぽんぽん散りばめられてぐるぐる回る。私はここに立つといつまでも帰りたがらずに、あなたを困らせたね。
彼が包みを開けて魔法のように取り出したもの。目の前の本物もびっくりするくらい細かい細工。手のひらにずっしりと感じるアンティークの回転木馬の置物。
「気に入った? 君が来るって知ってからパリ中を探し回ったんだよ」
そこには、ほめてほめて、とウィンクするあなたがいる。
彼がそっと横についている手巻きねじを回す。ギュ、ギュ、ギュ。
あ、置物じゃなくて、オルゴール?
アイシングをかけたクッキー生地のように、クリーム色とビスケット色の木馬が交互に音楽に合わせて踊る。小さな世界が跳ねて、手を繋いだこどもみたいにはしゃぎ回る。
耳に当てて、その曲名を知る。
「Someday my prince will come」邦題「いつか王子様が」
「僕を選んでもらえますか?」
答えの代わりに、両手がふさがった私は背伸びをしてキスをねだる。
名残惜しい音に導かれたまま家路について、あたたかい毛布のあるあなたのところに。ここが私が流れ着く終着駅だと信じて、包み込まれる。
*
私はずっと考えている。なぜあの時、何もかも捨ててあなたについて行かなかったのだろう。あなた以外に大切なものなんて、何もなかったはずなのに。
連絡がつかなくなって、会社に問い合わせてもわからなくて、書いた手紙には返事が来なかった。宛先不明の手紙が戻ってきたのはひと月後のことで。あなたは何処に行ってしまったの。私を残して。
秋は失う季節だ。そんなことは前から知っている。
空を見上げる。遠いけれど繋がっていると信じていた空は、いつしか私の見える範囲だけでキリトラレテしまった。
ただただ真っ直ぐに進み続ける川と、絶え間なく回る回転木馬が、線と円を描いていく。交わることもなく勝手に進み続ける。互いの行き先を示唆するように。
*
あなたを待っていたあの川辺で、こうして私は想い出に浸る。
季節は反対側の春になった。あの時と同じ風景なのに、水に映る色が変わっている。やさしくあたたかく木々を揺らす風が、そっと私の頬を撫でる。
残されたオルゴールは、私があなたといたという証。この重さが唯一の現実のようだ。
あなたがしたように、そっとねじを巻く。最初の音はゆっくりとカチっと、エンジンのかかりにくい古い車のようにぎこちない。
そして、流れ出す教会の鐘のような音色。この中で永遠が閉じ込められて回っている。
気に入っているんだよね。聴こえてる?
お腹に手を当てて、内側からの音に耳を傾ける。トクン、トクン。そう、きっと。
終わりかけのカチカチと止まりはじめる音に呼応するように、君の心臓の音が私の中で響いてくる気がするの。はめこまれた音符の川と小さな木馬たちが楽しそうにはしゃいでる。
いつかまた、あなたに逢える日は来ますか。
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