森鎮め (ファンタジー、作者:謡義太郎)

 兵介は担いでいた薪を下ろした。

 竹の水筒を取り出すと、目の前に聳える大木の根元に垂らす。

 首に巻いていた手拭いを濡らし、顔から首、そして腕の汚れを拭った。

 大木に右手をつけ、深々と頭を垂れる。

 目を瞑った兵助は何を思っているのか。

 鳥の鳴き声と、時折獣が小枝を踏む音がする。

 役目のある兵助のほかに、ここまで入ってくるものはおらず、また入って来れたとしても、出ることは叶わなかった。

 時折、元は人であったろう松のような木に出くわすことがある。

 森にのまれた者の成れの果て。

 里に松は生えていない。

 兵助は灰月の日が周ってくると森へ入る。

 黄月や紅月の日には決して森に近づかない。

 森が猛っている。

 碧月の日でも、ほんの浅いところまでだ。

 静かにみえて、森は脈動している。

 森役。

 兵助が十と二つの歳に、それまで森役だった祖父が死んだ。

 死んだといっても、死体があるわけではなく、今の兵助と同じように森へ入り、帰って来なかった。

 森役の最期はそう決まっている。

 兵助もあと何十年かしたら、そうなるのだろう。

 森役は血筋で決まるわけではない。

 森に愛されたモノが、その役目につく。

 祖父が森に入ってから十日目の晩、森の使い鴉が兵助の枕元に黄金色の果実を置いていった。

 甘く香るその果実のことを、兵助は祖父から聞いたことがあった。

 兵助は森に選ばれたのだと知り、祖父は森になったのだと知った。

 もう昔のことだ。

 時は流れ、兵助も四十を越えた。

 兵助が触れているのは、六尋はあろうかという大樹だ。

 森の主。

 掌に伝わってくるチカラの流れは力強く、兵助を急かすように葉擦れが騒がしい。

「ご機嫌良いだね。ここんとこ紫月が続いとったし、酔いなされたかね」

 ざわり、と枝が揺れ、兵助の頬を風が撫でた。

「ほいほい、ただいまただいま」

 兵助は指先で樹肌をくすぐると、右に三歩、振り向いて左に五歩、と歩く出した。

 これを繰り返しながら、大樹の裏側まで回り込む。

 ただ回り込もうとしても、決して裏側には辿り着けない。

 いつの間にやら、元の場所に戻っている。


「ひぃさんたぁのぉおぉおぉおう……」


 兵助の歌が森の騒めきに溶け込む。


「さぁわぁたぁぁやざよぃな……」


 どこの言葉なのか、歌っている本人も意味を知らない。誰に教わるでもなく、この場に来れば自然と溢れてくる言の葉と旋律。

 ゆっくりと、急かす大樹を焦らすように、行きつ戻りつ。

 森は騒めきを増し、そこかしこに不思議な気配が立ち昇る。

 後一歩、というところで兵助が右に向くと、興奮を隠し切れない大樹から、黄金色の葉が降り注ぐ。


「しぃじぃいぃえぇぇえぇん……」


 裏側には兵助の胴と同じほどもある太い注連縄に囲まれた大きな石がある。

 そこに六角形の穴が開いている。

 兵助は穴に手を差し入れると、『キリキリ』と音を立てながら、真鍮の摘みを回す。合いの手のように『カリカリ』という音と手応えが返ってくる。


『キリキリ』

『カリカリ』

『キリキリ』

『カリカリ』


『カキッ……』


 限界まで回した摘みが動かなくなる。

 合いの手はない。


 そっと穴から手を抜いた兵助が振り返ると、大樹全体が震え出した。


 ォォォォォオオオオオオ……


 兵助は落ち葉でフカフカした地べたに腰を下ろすと、大樹を仰ぎ見た。


 キンッ……カッキカッキカッキ……


 甲高い金属音。


 煌びやかな旋律が森に湧き出し、ゆっくりと陽が沈んで行く。

 天頂に灰褐色の月が昇り、音が一つ鳴る度に星が一つ瞬く。


 今頃、里の水汲み場には清らかな水が溢れ出し、水面に映し出された天上の光が踊っていることだろう。

 その様を兵助が見ることは、もうない。


 ポトリ、と黄金色の果実が落ちた。

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