半端者

綾瀬八咫

半端者

 確かめたいことがあって俺一人で旅に出た。だというのに。まったく、困ったことになった。つい数分前のことだ。せっかく気持ちよく走らせていたバイクの前輪で何か硬いものを踏んだ感触があった。嫌な予感がして急いで速度を落とすと、前輪がガタついてしょうがない。仕方なく道の脇にバイクを停めて様子を見ると案の定パンクしてしまっている。修理道具も、予備のタイヤも、辺りに人の気配もありやしない。

 どうしたものかと上を見やれば、高い高い八月の太陽を抱いた蒼穹が幾ばくかの白い雲をはべらせている。眩しくて顔を下げると、アスファルトの照り返しが目に刺さった。自分の前と後ろに伸びる一本だけの道の外側には草原がどこまでも広がっている。背後には低い山がこぢんまりと鎮座していた。そっと風が吹いた。一面の緑はさざ波のようにかすかにうねって、なびいて、息づいている音楽のように調和した音を作った。

 大学四年生の夏休み。俺はバイクの一人旅を決意した。何もない地元をひたすらに走りたくなった。就活も卒論も全然うまく行っていない。景気のいい話をしている同期たちを尻目に旅の準備を進めてきた。前期最後のゼミでこの話をしたら、それはもう言われ放題だった。

 曰く、そんなことをしてるヒマはない、けじめをつけて切り替えられるならそれでいい、人生どうにかなる、社会を舐め腐っている、やりたいことをやればいい、覚悟は決まっているのか、云々――。

 どれも聞くに値しない。優しくしてほしいわけじゃない。キツいことを言われたいわけでもない。だからといって中途半端で無関心な慰めならもっと無用だ。きっと動機があるから旅に行くんじゃない。俺は旅をした意味を知るために旅に出るんだ。

 さて、途方に暮れる時間は終わりだ。バイクを押して歩こう、だだっ広い大地を。

 ああ、暑い。北国でも夏は夏ということか。重いバイクを押していることもあって汗が止まらない。さっきまであんなに気持ちよく風を受けていたのに。ところで今の時間はどれくらいだろう。腕時計なんてしていない。スマホはバイクのシートの下の荷物入れのカバンの中にある。時間を見るためだけに今そこから取り出すのは億劫だった。

 ふと風の音に紛れてかすかに文明的な音がした。エンジンの音。助かった。この一本道なら前後どっちから来られても俺のことは認識できるはずだ。エンジン音が近づいてくる。後ろを振り向くと軽トラックが走ってきていた。


 目的地の方角が一緒だというので、パンクしたバイクは軽トラの荷台に紐で固定して、せっかくだからと俺も愛車と一緒に荷台にいることにした。運転手のおじさんが気の良い人で本当によかった。

 俺は今軽トラの運転席に背を向けた状態で荷台に座っている。バイクと違う振動と風を感じながら過ぎ去っていく景色を眺める。見ているものが遠ざかっていくというのは新鮮だった。低い山はもう青みがかってほとんど見えなくなっていた。

 そういえば腹が減った。確か今朝、民宿のオーナーだという老夫婦のお婆ちゃんからもらったものがあるはずだ。バイクを荷台に乗せる時に取り出しておいたカバンを開ける。人の頭サイズの巾着、中には大きなおにぎりが二個とペットボトルの緑茶が入っていた。おにぎりのラップを剥がして一口、この食感はたらこか。香り高い海苔とたらこの塩味が白米とマッチしている。なるほど、だから昨夜の夕飯時に食べ物の好き嫌いを訊かれたのか。あっという間に一つ食べ終わり、二つ目の鮭おにぎりもおいしくいただいた。こんなに充実した食事はいつ以来だろうか。少し記憶とたどる。幼稚園児だった頃、家族で山に行ったことがあるのを思い出した。


 年長の時のことだ。小学校入学の前祝いということで家族で山に行くことになった。当時の俺は知らない場所に行けるというだけで喜んでいた。

 真夏の山は暑くて爽やかで緑に溢れていた。蝉しぐれの中、カブトムシを探して俺は駆け出した。あちこちすりむくことも気にせず木々の中を走り回った。

 気がつくと自分がどこにいるのかわからなくなっていた。最初のうちは強がって虫取りに精を出していたが、少しずつ気温が下がるのを肌で感じると、不安が強くなってくる。ついにはこらえていた分まで大仰に泣きわめいてしまった。実際には山道からそう遠くない場所だったのだが、そのことにはまるで気づかなかった。

 涙を拭いて鼻水をすすりながら食べた遅いお弁当の味は思い出せないが、生涯を通して記憶に残る食事なんてそうあるものではない。


 センチメンタリズムに浸り終え、食後のお茶を飲みながらこの余韻に浸る。気を抜くと眠りに落ちてしまいそうになる。実際には下の硬い荷台で寝ることはできないのだが、とにかく胸中は旅を堪能している実感で満たされていた。

 ふと、視界の端から電線の繋がっていない大きな鉄塔が流れていった。ぽつんと立った何に使われているかわからないようなそれを見て昔を思い出す。


 小学生の頃、俺とまっつぁんの二人であちこち駆け回ったこと、それでたくさんの迷惑をかけたこと。使われなくなった鉄塔をジャングルジム代わりにしてどっちが高く登れるか競争した。今考えるとよく怪我をしなかったと思うし、そんな恐怖を持っていなかったのかと感嘆する。お互い服も手も顔も真っ黒にして、最終的に勝ったのはまっつぁんだった。その後家に帰ったら親に盛大に説教され、翌日学校でまっつぁんと一緒に先生に説教され、もうあの鉄塔には近づかないと約束させられた。説教の煩わしさよりも、もうあそこで遊べない悲しみよりも、俺の中では何かをしてやったという達成感が一番強かった。

 中学を卒業後、まっつぁんとは別々の高校になったこともあって疎遠になってしまった。袖すり合うも多生の縁とは言うけれども、気を抜けばなくなってしまうのも縁というものなのだろう。


 地元ということもあってか郷愁に浸ってしまった。目的地まではまだ時間がかかりそうだ。愛車だったらもっと早く着いていただろうな、とは思う。でもそれは急ぎすぎだったのかもしれない。この旅での走りは無我夢中、なんて綺麗なものではなかった。拭き取ろうとするほどに広がっていく油汚れのような雑念を振り払おうとして、必死にバイクを飛ばしていた。だとするならこのパンクも必然だったのだろう。

 取れない汚れ、か。中学時代の一件を思い出す。


 中学二年の夏休み明けのある日、急に色気づいたクラスの女子が化粧品を持ち込んでいた。当然、校則違反だ。まっつぁんや他の奴らと一緒になってその女子の持っているものを取り出してあげつらっておもちゃにしてやった。まっつぁんと一緒に口紅を使って腕に線を引いて入れ墨ごっこなんてこともした。無論これも大騒ぎになってこっぴどく絞られたのだが、困ったのはその後だ。洗っても洗っても腕に塗った口紅が落ちやしない。終いにはこすりすぎて肌を痛めた。跡にニキビができて大変だった。


 ライダースーツの袖をまくり上げる。腕にその跡はまだ残っていた。こんなもの、勲章でもなんでもない。汗が風で蒸発して肌が冷えた。袖を元に戻す。

 運転手のおじさんはガッちゃんという知り合いがバイク屋をやっているからそこまで送ってやると言っていた。

 太陽がわずかながら西へと傾いている。回顧にふけっている間に結構な時間が経過していたのだろう。風に溶けていくかのように自分の中の何かがなくなっていく感覚があった。

 さすがに尻が痛くなってきた頃、柵の向こう側に牛が何頭も放牧されているのが見えた。肉牛だろうか? 市場に出回るにしてもきっと自分には縁のないお値段なんだろうな、なんてくだらないことを考えた。そう、縁のない。つなごうとしなければ結ばれないのが縁なのだから。


 ――高校に入学して初めての日直。職員室にクラス名簿を返しに行く時、ふと違和感があった。どうしても気になって上から一行一行を確かめていく。あった。中井チエ。今時名前に漢字を当てないのは珍しいのか。その真上には戸塚愛美恵瑠らみえるなんてある。こっちのほうがよっぽど仮名文字にふさわしい。きっかけなんて、そんなものだった。

 以来、時間の隙間にちょくちょくチエの姿を視界に入れるようになった。茶色のセミロングヘアと純日本風の顔立ちの中、切れ長のつり目だけがやたらと引き立って俺の目を惹いた。

 俺の高校生活は片手間にチエを目で追っかけながらまっつぁんのポジションの代理を見つけて適当に遊ぶ日々が続いた。あいつらは俺とまっつぁんのような深い付き合いをすることはなかった。きっとあちらさんだって同じように考えていたはずだ。

 そんなある日、チエに彼氏ができたという噂を聞いた。不思議と落ち込むことはなかった。だって俺は一度もチエと話したことなんかなかったし、チエは俺のことを知らないはずだ。だから、それでも何も問題は無いんだ。チエの彼氏は暴走族だという。だからって、俺はどうもしない。

 そうやってチエとは3年間同じクラスのまま卒業した。チエとはロクに会話することすらなかった。適当に騒いで、適当に受験勉強をして、許しを請うように大学へ行った。俺は――。


 運転手のおじさんの声で意識を取り戻した。いつの間にかまどろみを通り越して眠りについていたらしい。長いこと硬い荷台に座っていたせいで腰のあたりがバキバキと音を立てて俺をさいなむ。。おじさんは親指で道の駅を差した。空は少しずつ青から赤に向けて染まりつつある。

 トイレに行って、少し贅沢なフランクフルトとソフトクリームを食べた。午後の風で汗が蒸発して気持ちいい。軽トラのおじさんが俺にタバコを差し出した。タバコなんて今年3月に辞めたバイト時代以来だ。

 バイク本体と免許取得のために始めたファミレスのアルバイトだった。卒論と就活のため、なんて大義名分を掲げて辞めたはいいのに、以降の生活はまるで芳しくなかった。

 タバコはバイト先の和久井さんに教わった。以来勤務前後には一緒になってタバコを吸いながらどうでもいい話をするのが習慣になっていた。大学時代の思い出はバイトと共にあったと言うべきなのだろう。


 久々のタバコは古巣に帰ってきたかのような、不思議な安心感があった。毒を全身に入れていることは重々承知、その背徳を含めて。

 運転手のおじさんが静かに煙をくゆらせていたので、俺も黙っていた。紫煙は昇ってすぐ風に溶けていった。

 休憩を終えてまた軽トラに乗り込む。今度は助手席に。さすがに夕さす頃になってまで荷台にいようという気にはならなかった。以降の道中、ずっと言葉を交わすことはなかった。


 セミが鳴き止んで辺りに別の虫の鳴き声が聞こえる様になる時間、ようやく目的地に到着した。運転手のおじさんはガッちゃんと顔を合わせると打って変わって明るく大きな声で会話を始めた。

 ガッちゃんと呼ばれた初老の五十代ほどのハゲ頭曰く、パンクはすぐに直るらしい。一応他の場所も見るので三十分ほど時間がほしいと言っていた。

 仕方がないので縁側に座って待つことにする。後ろからお茶とせんべいが差し出された。ガッちゃんのご婦人だろうか。ご婦人はおしゃべりだった。ガッちゃんと運転手、あの二人が小学生からの付き合いであること。お見合いで結婚したこと、子供は単身専門学校へ行っていること。最近弟子夫婦が住み込みで働いていること――。

 ご婦人の話は適当に相槌を打つだけで済まされた。こちらから口を開かなくてむしろ楽だとさえ感じられた。そうしてお茶とせんべいを平らげたころ、ガッちゃんが呼ぶ声がした。

 愛車は旅に出る前より綺麗に輝いていた。パンクを直すついでに弟子に磨かせた、とのことだ。付け加えるように愛車の整備具合を褒められた。

 ガッちゃん夫婦や運転手のおじさんを始めとした皆さんに礼をしていざエンジンをかけようとしたその時、赤ちゃんの鳴き声がした。足を止めて顔を上げる。二階の窓にカーテンはなかった。

 その部屋にいたのは親子――いや、あの顔は、間違いない。チエだ。大学には行かない、ということだけは噂で聞いていた。が、まさかここにいるだなんて思わなかった。じゃあ、弟子入りしたというのは噂の暴走族だったという彼氏か、はたまた別の誰かか? とにかくそいつがチエの夫で間違いない。

 そうか、結婚して子供まで作っていたか。いつか聞いた風の噂は本当だった。俺とはまるで大違いだ。何も終わってない、何も決まってない。そんな俺とはまるで……。

 そうか、よかった。チエが幸せそうにしているならそれでいい。いや、もっと言うなら赤の他人のはずなんだからそもそも関係ないし俺がどうこう口を出したり感情を抱くということさえ、できないはずなんだ。

 改めて足に力を込めてバイクを押して歩きだす。夜空には満天の星が瞬いていた。ヘルメットのシールドを下ろせば愛車のライトの先しか見えなくなる。星空を惜しんで未だエンジンをかけられずにいる。ああ、この渦巻くものは何だろう? ただ、俺はこの旅の意味をこの胸の内の何かにしてしまおうとしている。確かに一つ、確かめることはできた。噂が事実であることを。でも、それでいいのかわからない。そうだ、まだ旅をしなきゃいけない。

 俺はヘルメットのシールドを下ろした。星空はもうどうでもいい。バイクのエンジンをかける。そして一気にフルスロットルへ。

「ち……っくしょおおおおおおおおぉぉぉッ!」

 思い切り叫んだ。わざと大きくふかしたエンジン音に紛れるしかなかったことに恥を覚えた。

 もう少しで、夏休みが終わる。

 もう少しだけ、旅は続く。

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