第36話 清香、人生最長の一日(2)

「その人に『お母さんは、散々清香さんに文句を言っていたそうだけど、本当に嫌いだったらわざわざその人物について語る事すらしない筈だ。口で言うほど、毛嫌いしていたわけではないと思う』と言われたんです。それを聞いて思い当たる事があったので、帰宅してから母の遺品を纏めてあるダンボール箱を、お兄ちゃんに内緒でこっそり開けてみました」

「何が気になったんじゃ?」

「私が中学に入学してすぐ、帰宅した時にお母さんが『清人君ったら、また余計なお節介をするんだから。それにどうして、毎回私の言う枚数で作ってくれないのよ』とかブツブツ文句を言いながら、何かを紙袋に突っ込んでいたんです。帰宅した私に気付いて慌てて隠して、それきりだったんですけど」

「それで?」

 はぁ……、と溜息を吐いて話を一端区切った清香に、総一郎が様子を窺う様に続きを促した。それを受けて、清香が話を続ける。


「その直後、両親が事故死して遺品を整理していた時、お兄ちゃんがあの時見た袋を、箱に詰めていたんです。母が隠した時、記念写真の様に見えたので、しまい込んで良いのかと思ったんですが、ちゃんと本棚にそれは保管してありましたから、見間違いだと結論づけていて。でも思っていた通り、中身は記念写真でした」

「記念写真って、何の?」

 ここで怪訝そうに口を挟んで来た真澄の方に体を向け、清香が指折り数えながら説明した。


「えっと……、私の誕生記念と七五三の二回、それから小学校と中学校の入学の時に、家族四人で撮って貰った写真です。写真屋さんで一枚ずつ装丁して貰いました」

「ああ、なるほどね」

「それをどうして、お母さんが隠すわけ?」

 今度は真澄の横から浩一が質問し、清香が説明を続けた。


「それを撮影した写真屋さんは、小学校の同級生のお父さんなので、今日の午前中に電話をかけて、事情を聞いてみたんです。そうしたら、それは毎回お兄ちゃんが、追加注文していた分でした」

「え? どういう事?」

「お店のおじさんも、一枚を二枚にしてくれと言われて、当時子供だったお兄ちゃんに理由を聞いたら、『香澄さんの実家の人に渡す分です』と言ったそうです」

「実家の分って……」

 そんな物は存在すら知らなかった真澄は、チラリと父親に視線を送ったが、雄一郎も当惑しながら軽く首を振って否定する。そんな事とは気付かないまま、清香が話を続けた。


「しかも『二枚目の料金は持ち合わせが無いので、毎月少しずつ支払いますから、全額支払ったら渡して下さい』と頼まれて、約束通り半年してから渡したんだよって言われて、驚きました。おじさんが言うには『親には内緒で、毎月お小遣いを持って来てたんだろう。偉いよな清人君は』としみじみ言っていて。……あ、流石に二回目はバレて、それ以降はお父さんが、追加料金を払っていたそうなんですけど」

「……そうだったの」

 殆ど呆然と呟いた真澄に、清香が幾分慎重に考え込みながら推論を述べる。


「多分お兄ちゃんは、それを渡す事を口実にして、実家の人と仲直りする様にって、お母さんに毎回渡してたと思うんです。でもお母さんは意地を張って、連絡を取らずにいたんじゃないかと。でも本当に欠片も渡す気が無かったら、そんな物、幾ら義理の息子がくれたからって、さっさと破り捨てるなり焼き捨てるなりしますよね?」

「ど、どうかしら?」

 冷や汗を流しながら(叔母様ならやりかねない)とは思ったものの、真澄は何とか誤魔化した。そこで清香が自分なりに結論付ける。 


「だからお母さんはひょっとしたら、口で言ってるほど実家の人達を毛嫌いしていたわけじゃないのかなって、思う様になったんです。……思えば、他人にその人達の悪口を言う度に、お兄ちゃんに強い口調で叱られていたのも、お兄ちゃんはそれを分かっていて、窘めていたのかなって。口に出しては単に『他人の悪口を言うのは見苦しい』と言っていましたけど」

 そんな事をしみじみ語った清香を見て、年配者達は揃って目頭を熱くした。


(本当に清人君には、余計な気苦労をさせたな)

(生さぬ仲で心配はしていたが、確かに香澄と実の親子以上に、仲が良かったからな)

(全く、香澄も父さんも揃って頑固者のせいで、子供にまで迷惑を……)

(なんて健気なの、清人君。うちの息子達にその爪の垢でも煎じて飲ませてあげたいわ)

(香澄さんも、清人君の事は、会う度にベタ褒めだったものね)

(これを聞いたらお義父様だって、清人君を毛嫌いなんかしない筈だわ)

 結婚後の香澄と一時期絶縁状態だったものの、なし崩し的に交流をしてきた兄と兄嫁達は、清人に心の中で改めて感謝しつつ、未だにかたくなな総一郎に期待する視線を向けたが、口を固く引き結んだ総一郎が次に発した言葉は、彼らの期待を大きく裏切るものだった。


「……話を聞いておると、それを清香さんに説いた人物は、酸いも甘いも噛み分ける、なかなか味のある御仁の様じゃな。清香さんの大学の先生とかかの?」

(お父さん……、幾ら清人君を直接誉めたく無いからって)

(つくづく素直じゃありませんわね。話を清香ちゃんに説いた人の方に、持っていこうとするなんて……)

 息子と嫁達が揃って呆れた視線を向ける中、清香が幾分もじもじしながら、総一郎の言葉を否定した。


「えっと……、その人は大学の先生とかじゃなくて、私より五歳年上の、小笠原産業にお勤めの方です。小笠原聡さんって言うんですけど、さっきお話ししたように、若くても何事も幅広い物の見方ができる、家族思いの優しい方なんですよ?」

 そう清香が口にした途端、清香と総一郎以外の全員がすっかり失念していた事を思い出し、激しく動揺した。


(しまった! あいつの事は、祖父さんに内緒にしたままだった!)

(清香ちゃんに、口止めをするのを忘れていたわ!)

(ちょっとまて! しかも長年うちと因縁がある、小笠原の社長の息子なんて知られたら)

 そんな中、総一郎が僅かに目つきを険しくして、清香に尋ねる。 


「小笠原産業の小笠原……。ひょっとしてその男は、小笠原産業前会長の、小笠原幸之助の孫かの?」

「えっと……、お祖父さんの名前は知らないんですが、お父さんは現社長の小笠原昭さんで、お母さんは由紀子さんですけど。もしかしたらお知り合いですか?」

 その清香の問いかけには直接答えず、総一郎が更なる問いを繰り出す。


「その男とは、単なる知り合いじゃろうな?」

「いえ、あの……、ごく最近ですね、所謂お付き合いというものを始めまして……」

 他の者が止めたり誤魔化す暇も無く、清香は若干照れながらも素直に述べてしまい、その途端総一郎は怒声を張り上げた。


「あのゲジ眉因業ジジイの孫と付き合っているだと!? 目を覚ませ清香! お前は絶対、騙されとるぞ!!」

「は、はあ?」

(え? 何でいきなり呼び捨て?)

 突然両肩を掴まれ、顔を覗き込まれつつ断言された清香は当然戸惑い、真澄と雄一郎が狼狽しつつ、話に割り込んだ。


「お祖父様! そんな事どうだって良いでしょう?」

「そうですよ! せっかくの祝いの席なんですから、仕事上の諍い事を持ち込まないで下さい!」

「ふざけるな! 儂はあやつに個人的に恨みがあるんじゃ! あの守銭奴はよりにもよって、澄江の帯を横取りしたんじゃあぁぁっ!!」

 そこで息子を睨みつけつつ、激昂した総一郎が叫んだ内容に、清香以外の面々も本気で首を傾げた。


「はい?」

「あの、何ですか? それは」

「……初耳なんですが」

 そして皆が戸惑う中、総一郎は肩を掴んだままの清香に向き直り、切々と訴え始めた。


「清香、聞いてくれ。あれはもう五十年近く前の事じゃ」

「は、はい……」

(だから、何で呼び捨て……)

 そう疑問には思ったものの、相手の気迫に押されて清香が頷き、総一郎は話を続けた。


「儂は休みの日に、澄江と一緒に観劇に行った帰り、買い物を楽しんでおったんじゃ。すると澄江が一軒の店の前でふと足を止め、『あら、素敵な帯ね』と言ってな」

「はぁ……」

「澄江は万事控え目で、普段なら物をねだる様な事もしない慎ましやかな女じゃった。これは買わねばなるまいと店に飛び込んだのだが、生憎現金も小切手もあまり持ち合わせが無かった。当時はまだ、今ほどカード決済が普及してもおらんでな」

「それでどうしたんですか?」

 ちょっと興味を引かれて尋ねた清香に、総一郎が渋い顔をして続ける。


「行き着けの店ならつけ払いもできるが、その店は初めてだったからの。手付け金として店の主人に十万を渡して、明日不足分を持たせるから、その帯を押さえておいてくれと頼んだんじゃ」

「でも、当時で十万っていったら、結構大金ですよね」

「その通りじゃ。主人が快諾したのでその日は澄江と帰り、翌日使いの者に金を持たせたら……、そやつが『既に売られた後でした』と手ぶらで帰って来おったんじゃ!!」

「え? どうしてですか?」

 目を丸くした清香だったが、流石に興奮してきた総一郎を見かねて、周りが騒ぎ始める。


「お父さん、もうその辺で」

「そうです! 清香ちゃんも困ってるでしょう?」

「五月蝿い、黙っとれ! その店の常連客の中に小笠原が居てな、儂らが帰った後に来店して、店の者が包もうとしていたその帯を見て、半ば無理矢理倍の金額を払って、帯を奪い取って行ったそうじゃ。店の主人は手付け金を返した上で、常連客なので断り切れなかったと謝罪したらしいが、言語道断じゃ! 店の信用を何じゃと思っとる!!」

「それは酷いですよね」

 思わず清香が頷いて同意を示すと、総一郎は我が意を得たりとばかりに、声に力を込めて話し続けた。


「そうじゃろう!? それから少しして何かのパーティーで小笠原夫妻を見かけたが、奴の細君が例の帯を締めていてな。それを見た澄江が残念そうな顔をしていたのが、今でも忘れられん。あれは芸者上がりの厚化粧女にでは無く、澄江にこそ相応しい物だったんじゃ!! 金を積まれて予約品をあっさり渡す様な、商売人の風上にも置けぬ輩の店など、半年で潰してやったぞ!」

「………………」

 それを聞いた清香は(それはどうなの?)とは思ったが、余計な事は言わずに口を噤んだ。そして更に総一郎の、小笠原との確執話が続いた。


「それからも儂が別荘を買えば、その南側に儂の所よりも広い所を買ったので、そこの更に南側の土地を買って奴の土地が日陰になるように大木を移植したり、自社ビルを儂の所より高い物を建ておったから、儂は更に高いものを建ててやったんじゃ! どうじゃ清香、儂はあれ以来、奴に一度も負けてはおらんぞ!」

「…………はあ」

「お祖父様! もう良い加減にして下さい!!」

 総一郎に感想を求められた清香は、(だから、どうして呼び捨てなんだろう?)とは思いつつも素直に頷き、真澄は堪らず悲鳴を上げた。そして室内の全員が頭を抱える。


(小笠原との確執には、そんな秘話が……)

(今、初めて知ったな)

(もう訳分からなくて、清香ちゃん固まってるぞ?)

(お祖父さん、もう少し冷静に!)

 そしてそんな事を考えていた面々の前で、理性を吹っ飛ばした総一郎が、これ以上は無いという位の自爆発言を繰り出した。


「よりにもよって、付き合っている相手がその小笠原の孫じゃと!? 儂は絶対に許さんぞ清香! 娘を薄汚いクソガキを連れた、出自も知れない野良犬野郎に盗られただけでも未だに腸が煮えくり返っておるのに、孫まであの意地汚い守銭奴の孫になど盗られてたまるかっ!!」

「お父さん!!」

「お祖父様!!」

 その魂の底からの絶叫に雄一郎と真澄の悲鳴が続き、瞬時に室内の空気が凍りついた。そして清香が何回か瞬きしてから、静かな声で総一郎に問いかける。


「……すみません、一つ確認させて下さい。誰が誰の孫なんですか?」

 その問いに、まだ自分の置かれた状況が分かっていない総一郎は、勢い込んで叫んだ。


「清香が儂の孫に決まっとるだろうが! それでだな」

「そうなると、『盗られた娘』さんがお母さんで、『薄汚いクソガキを連れた、出自も知れない野良犬野郎』がお兄ちゃんとお父さんって事ですよね?」

「おう、勿論そう」

 冷静に念を押された内容に同意しかけた所で、総一郎は漸く自分の失言に気が付き、真っ青になって口を噤んだ。僅かに目を細めた清香がその様子を眺めてから、ゆっくりと座卓の向かい側に座る面々に視線を向けつつ確認を入れる。


「そうなると、当然、あなたと一緒になって、お父さんとお兄ちゃんを袋叩きにしたのが、雄一郎おじさんと和威おじさんと義則おじさんって事になりますよね?」

「………………」

 否定する事など出来ずに揃って固まった男達を、険しい表情で睥睨する清香。


「あ、あの……、清香ちゃん。これは……」

 どうなる事かと、その場の全員が固唾を飲んで事態の行方を見守る中、恐る恐る真澄が清香に声をかけたが、それが引き金になったかの如く、清香が総一郎の方に向き直り、力一杯その頬を平手打ちした。


「最っ低!! もう二度と来ません! 御馳走様でしたっ!!」

「清香ちゃん!?」

 衝撃音と共に清香が勢い良く叫び、素早く立ち上がったかと思うと襖を勢いよく引き開けつつ外へ飛び出した。呆気にとられて見送ってから、一瞬遅れて真澄が慌てて立ち上がり彼女の後を追う。何やら背後が騒がしいと思ったものの、そんな事は気にせずに走って廊下を進んだ。


「清香ちゃん、ちょっと待って!」

 大声で叫んでも止まるつもりは無いらしく、姿も見えない。そして和風別館の玄関で既に清香が靴を履いて飛び出した後なのを確認した真澄は、(ハイヒールだと追い付けないわ)と素早く判断し、靴を履かずにそのまま母屋への渡り廊下へ走り出た。

 幸い二回程角を曲がっただけで、ローヒールを履いた清香を見つけ、冷たい床面を裸足のまま走り抜け、玄関の手前で何とか清香の左腕を捕まえる。


「ちょっと待って! 落ち着いて頂戴!」

「離して下さい! もう一分一秒たりともここに居たくありませんし、誰ともお話しする気はありません!」

 殆ど泣き叫んで手を振りほどこうとした清香に、真澄が幾分顔を険しくしながら訴える。


「分かっているわ。だから車で送らせるから、ちょっとだけ待って」

「あなた達のお世話になんて、金輪際なるつもりはありません! もう大っ嫌い! 皆、嘘吐きばっかり!!」

 そこで勢いに任せて振り回した右手が、真澄の顔に派手にぶつかり、清香は流石に驚いて動きを止めた。それを気にする風も無く、真澄が冷静に告げる。


「悪いけど、こんな状態のあなたを一人で帰すわけにはいかないわ。途中で事故にでもあったら、取り返しがつかないもの」

「放っておいて下さいと、言っているでしょう!」

「そうはいかないの。柏木物産の一課長としてではなく、創業家の一員としてね。あなたに何かあったら、清人君から柏木が何らかの報復を受ける事は、間違い無いから。私達には、従業員の生活を守る義務があるのよ」

 唐突に言われた内容に、思わず清香は涙を引っ込めて真澄を怪訝そうに見やった。


「何を言ってるんですか? お兄ちゃんは只の作家ですよ? 大企業の柏木に報復なんて、できるわけないじゃないですか」

 本気で困惑する清香に、真澄は溜息を吐いてからある事実を伝えた。


「六年前位に、彼は、その柏木の外部取締役に就任してるの。その時父と何やら取引があったみたいで、彼はうちのホストコンピューターへの極秘アクセスコードも知っているわ」

「は? お兄ちゃん、そんな事一言も!?」

「今、私が言った事が、どういう事か分かる?」

「どういう事って……」

 問いかけられた内容が全く分からず清香が口ごもると、真澄が真剣そのものの表情で解説した。 


「柏木が、犯罪行為に手を染める事は勿論無いけど、業界で覇権を握る為に、違法スレスレの事をする場合もあるの。清人君にはその情報に触れる機会が……、いえ、恐らく何かあった時の為に、既にある程度は把握している筈よ。下手したら、それをどう使われるか分からないわ」

「そんな事は!」

「あなたを泣かせた事で、彼を怒らせるのは確実だけど、そういう訳だからあなたを放置せず、より危険性の少ない方を選ばせて貰う必要があるの。あくまでうちの車を断って歩きと電車で帰るって言うなら、清人君が迎えに来るまです巻きにして、どこかの部屋に閉じ込めておく事にするけど、どちらが良い? 選ばせてあげる」

 どこまでも本気でしかあり得ない真澄の物言いに、清香は幾分悔しそうに声を絞り出した。


「…………タクシーを、呼んで下さい」

 それが清香の妥協の産物だと理解した真澄は、これ以上押し問答を続ける気は無く、少し離れた物陰から恐る恐る様子を窺っていた使用人達を振り返って叫んだ。


「分かったわ。……能島さん、大至急ハイヤーを一台頼んで。勿論これまでに、うちで頼んだ事のある人でよ。門の所で待ってるって伝えて」

「わ、分かりました!」

 指名された女性が慌てて奥へと走って行くのを認め、その背後に心配そうに控えていた従兄弟達のうち何人かに無言で首を振ってから、真澄は清香の手を引いて真っすぐ玄関へと進んだ。


「さあ、行くわよ」

 そうして大きなドアを開け、無言で外に踏み出して少ししてから、清香は真澄がストッキングだけ穿いた足で歩いているのに漸く気が付いた。

「あの……、真澄さん。足……」

「気にしないで。早く出ましょう。一分一秒でもここに居るのは嫌でしょう?」

「…………」

 控え目に指摘した清香だったが、清香の方から話し掛けて貰ったのが嬉しいかの様に、真澄は小さく苦笑いしながら門に向かって歩き続けた。それに何となく気まずい思いをしながら、清香は黙り込む。そして舗装された道を少し歩いてから、周囲の整えられた庭園や噴水を眺め回しながら、ボソッと言い出した。


「……ここに入って来た時も思ったんですけど、凄いお金持ちなんですね」

「そうみたいね」

 まるで他人事のように返す真澄に、清香は訳も無く反感を覚えながら話を続ける。

「お母さん、こんな所のお嬢様だったなんて、全然思えなかったんですけど」

「……そうかもね」

 どこか遠い目をしながら真澄が呟くと、清香が幾分強い口調になって言葉を継いだ。


「だからと言って、お父さんとお兄ちゃんの事を、あんな風に言われる筋合いはありません! 確かにお金持ちじゃ無かったけど、曲がった事なんかできない優しいお父さんでした。お兄ちゃんだっ、て……」

 ここで再び涙ぐんでしまった清香が言葉を途切れさせ、俯いてしまった為、前を向いて歩いたまま真澄が、謝罪の言葉を口にした。 


「ごめんなさい」

「……真澄さんが、謝る筋合いの事でもありません」

 幾分素っ気ない口調で、真澄の謝罪を拒否した清香だったが、門まで到達した真澄が横の通用口を開けて清香を促し、二人で門の外に立った所で質問を繰り出した。


「今までどうして黙っていたのか、聞いても良いですか?」

 それに真澄は困った様に小さく肩を竦めてから、包み隠さず当時の事情を話し出した。


「香澄叔母様に、口止めされていたの。父達は清香ちゃんとの初対面直後『顔を合わせてしまったから、今後顔を見せても仕方無いけど、身内だとバラしたら、ベランダから放り投げるわよ?』と言われたそうよ。私達は『歓迎するけど余計な事一言でも漏らしたら、パンツを脱がせてお尻ペンペンの写真を撮って、社交界にばらまくわよ? 清人君に写真を撮って貰う事は、もう了承して貰っていますからね!』と言われたわ」

 それを聞いた清香は、真澄に疑わしげな視線を向けた。


「あの……、真澄さんは当時……」

「私が十六で浩一が十四、友之と正彦が十三ね」

 淡々と語る真澄に、清香が僅かに顔を引き攣らせる。

「……さすがにそれは無理なんじゃ」

「叔母様は清人君と一緒で、やると言った事は必ずやり遂げる人だったわよ? 当時既に腕っ節が半端じゃなかった清人君は、基本的に叔母様に逆らうなんて事しなかったし。間違い無く、実行に移されたわね。……後は言い出すきっかけを掴めないまま、そのままズルズルとよ」

「……そうですか」

 何となく精神的な疲労を覚えて清香が黙り込むと、真澄が慎重に口を開いた。


「清香ちゃんが怒るのは当然だけど……」

 そう言って次に続ける言葉を選んでいる真澄に、清香は考えながらも自分の思いを正直に伝える。

「怒っているとは思うんですけど……、正直、色々な事が一度に頭の中に入ってきて、何がなんだか分かりません」

 それを聞いた真澄は小さく笑って頷いた。


「当然よ。今日はゆっくり休んで頂戴。後日改めてお詫びに伺うわ」

「……お兄ちゃんが家に上げるとは思えないんですけど」

「普通に考えればそうでしょうね。……今にして思えば、叔母様は寛大だったわ」

 素朴な疑問を呈した清香に真澄が感慨深げに述べた所で、二人の目の前にタクシーが滑り込んで来た。そして開かれた後部座席のドアの方に真澄が清香を促し、真澄が中を軽く覗き込みつつ声をかける。


「支払いはこちらに請求して頂戴。……じゃあ清香ちゃん、気をつけてね?」

「……はい、失礼します」

 小声で後部座席から挨拶を返した清香に頷き、真澄はその場で走り去るタクシーを見送った。そのまま真澄は邸内には戻らず、門扉に背中を預けて疲れた様に俯く。

 そのまま十分程経過した所で、真澄が今日履いていたハイヒールを手にした浩一が、通用門を開けて姿を現した。


「姉さん? なかなか戻って来ないから心配したよ」

 心配顔の弟から差し出された靴を受け取り、真澄はそれを履きつつ忌々しげに尋ねた。


「ごめんなさい。ありがとう、浩一。ところで諸悪の根源は」

「自室で、布団を頭から被って寝込んでいるよ」

「叩き起こして、清人君の前に引きずり出してやるわっ!」

 流石に怒りに満ちた表情で通用門をくぐって歩き出した真澄に、浩一が慌てて追い縋った。


「姉さん! 頼むから落ち着いて。あの状態のお祖父さんを責めても、仕方が無いだろう!?」

「確かにそうだけど、私の気が収まらないのよっ!」

「取り敢えず姉さん、お茶でも飲んで落ち着いて。俺もそれに付き合ってから出掛けるから」

「出掛けるって、どこに?」

 意表を衝かれて、自分の横を歩いている弟の顔をまじまじと見やった真澄に、浩一は溜息を吐いて今後の予定を告げた。


「清香ちゃんが一連の経過を話し終わった頃を見計らって、清人の所に顔を出して、殴られて来る。俺達が結果的に、清香ちゃんを泣かせる一因を作った事には変わりないから」

「殴られるなら私の方でしょう? 誘ったのは私なんだし」

「清人はフェミニストだから、幾ら腹を立てても姉さん相手なら一発しか殴らないで、却って怒りを溜め込むよ。だから清人の好きなだけ、俺が殴られてくる」

 浩一の話を聞いた真澄は眉を顰めて反論したが、相手は小さく苦笑したのみだった。


「だけど!」

「だから、俺の顔が崩れる寸前で姉さんが割り込んで、一発殴られて終わりにしてくれたら、凄く助かるな」

 思わず声を荒げた真澄だったが、浩一が幾分茶目っ気を含んだ口調でそんな事を言った為、釣られて小さく噴き出し、左手の甲で浩一の右腕を軽く叩いて請け負う。


「分かったわ。お姉さんに任せなさい。ちゃんと骨は拾ってあげるから」

「嬉しいな。頼りにしてるよ、姉さん」

  柏木姉弟がそんな物騒な相談をしているとは夢にも思っていない清香は、タクシーの中で柏木邸内で言われた事を考え続けていた。思考がぐるぐると堂々巡りをしているうちに、あっさりと自宅マンションの前に到着し、タクシーの運転手に声をかけられる。


 「お世話様でした」

 小さく運転手に声をかけてから道路に降り立った清香は、殆ど無意識のうちにエントランスのオートロックを解除し、エレベーターに乗り込んだ。

 そしてすっかり涙が引っ込んでいた清香は(今日の事、お兄ちゃんにどう話そう……)と真剣に悩んでいたのだったが、エレベーターが清香の住んでいるフロアに辿りついた瞬間、清香にとっては更に予想もつかない事態が、通路の向こうで展開されていた。

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